墓碑銘 元道議 青木延男氏

 6期24年道議を務め〝暴れん坊〟の異名をとった青木延男が老衰のため1月5日に89歳で死去した。選挙が近くなるとダミ声で檄を飛ばし、べらんめぇ口調で知事だろうが市長、国会議員だろうがケチョンケチョンにこき下ろしたが、口は悪いが頼りになり、さっぱりとした人柄から多くの人に慕われた。保守と革新が激しく対立した時代に、五十嵐広三革新市政、横路孝弘革新道政を誕生させた立役者だった。(文中敬称略)

東条英機の一言
 弁当は出る、酒盛りは始まる─昭和時代の選挙事務所風景は今とはまったく様子が違った。事務所には届いた酒が山ほどあった。
 保守と革新が激しく対立した時代に旭労(旭川地方労働組合会議)事務局長を務め、革新陣営の参謀として各種選挙の陣頭指揮をとった青木は酒豪といえるほどの酒好き。選挙期間中、その日の活動を終えると主だった者たちと酒宴を始めたもの。もっぱら日本酒の燗(かん)。真夏だろうが、選挙事務所台所にあった大きな鍋に一升瓶の酒をそそいで燗をつけた。
 腰を据えてとことん飲むタイプで、各種の集まりでも最初の会場でたっぷりきこしめして2次会、3次会へ行くことはめったになかった。どこで飲んでも、できあがると、愛妻の邦子がクルマで迎えに来た。外に出たら声の大きい口の悪い親分だったが、家庭人としては妻と娘を大事にする夫であり父だった。
 酒に酔ってよく「俺は旭川商業も出ている、旭川工業も出ている」と話した。2つの高校を卒業した経緯を、生前、本誌記者(本田)にこう話している。「戦況がいよいよ悪くなった昭和19年に、首相で陸軍大将の東条英機が第七師団激励のために来旭した。若い学生に声をかけ、その中に商業の男子学生がいた。緊張したのだろう、学生の声が弱々しかった。〝どこの学校だ。この非常時に第七師団の膝元で簿記などけしからん〟と東条が一喝して、旭川商業がなくなり、旭川第二工業高校に変わってしまった。俺は商業の学生だったが東条の一声で第二工業高校建築科の生徒となった。第二とついたのは、すでに工業高校があったからだ。翌年終戦。その後、学制改革が行われ商業も工業も道立として再出発するが、俺は商業を卒業した後、工業も卒業した」

組織づくりの才能
 生まれたのは1930(昭和5)年。前年にウォール街大暴落が起き、青木が生まれた年に世界恐慌が始まった。まさに激動の時代だった。
 父誉太郎、母タノの5人目の子どもで、上に兄と姉が4人いる末っ子。「親父は大の風呂好きで、俺が生まれた常盤の家の隣が銭湯だった」(青木)
 やんちゃで負けん気が強い性格は生来のものだった。近所の子どもたちと遊ぶビー玉やパッチは、作戦を練って常勝。木箱を戦利品のビー玉やパッチでいっぱいにした。小学校の時から教師とぶつかることもたびたびあり、母親はよく学校に呼び出された。
 大陸での戦火は拡大を続け、41年には太平洋戦争に突入。戦況は徐々に悪化し、青木の兄・益男はアッツ島で戦死した。そんな動乱期に青木は商業に入学し、東条の一声で工業へ転籍となった。
 高校を卒業してすぐに「北海除虫菊工業」に入社した。和歌山の「キング除虫菊」の関連会社で、当時、旭川では大量に除虫菊が採れていた。
 しかし戦後の経済混乱は続いており、入社間もなく北海除虫菊でも指名解雇で人員整理が行われることになった。自身は対象でなかったが、解雇される従業員がかわいそうだと青木は中心になって会社側と戦った。騒動は終息するが、労使間騒動が広く報じられたことでイメージが悪くなったとして会社は社名を「北王製油」に変更した。青木は20歳を越えて間もなかったが、先の紛争での活動が評価されて北王製油労組組合長に就いた。
 旭労に所属し、中小対策部長、副議長を経て28歳の時に事務局長に就いた。ここで、組織作りという稀有(けう)な才能が花開く。
 中小企業で働く労働者の組織化を次々と実現して「中小労連」として集約した。その取り組みは中央の総評(日本労働組合総評議会)も「旭川方式」として高く評価した。
 青木事務局長の下で働いた旭労の元幹部は青木をこう評価する。
 「口が悪いので誤解する人もいたが、実際の青木さんは繊細で気遣いの人だった。強いところには一歩も引かずタテをつくが、小さいところ、弱いところは徹底して面倒を見た。労組の組織化では大きい組合に金を出させ、拠出が無理な零細組織は金の負担をさせず人だけ出させた。凡人では目がいきとどかないところを見つけて光を当てた。中小労連は青木さんだからつくれた。
 保革の対立が激しい時代だったが〝ノブさんは別格〟と、保守系の企業の社長さんも青木さんとなら会うことをいやがらなかった。旭一の工藤善美さん、日本メディカルプロダクツの山本信男さんたちは青木さんに一目置き親交を持った」

藤井との因縁
 青木が事務局長だったころの旭労は力があった。各種選挙で金も人も一番出した。五十嵐革新市政を誕生させたのは旭労、青木の力と言っても過言でない。
 前田善治で敗れ革新に市政を譲った保守自民は、67(昭和42)年の市長選で市政奪還を目指した。青木は考えた。「市長選の2週間前にある道議選で保守本流で若いながら風格のある藤井猛を落とし、自民党ながら同窓(旭川商業)で五十嵐に理解を示す佐藤幹夫を当選させなければだめだ。それが五十嵐2選への道だ」。藤井を落選させるべくいろいろやったと、生前、青木は話している。青木のもくろみ通り67年の道議選では佐藤が5位に滑り込み、藤井は次点に泣いた。
 71年に五十嵐が3選を果たし、74年は松本勇が佐藤幹夫を退けて革新市政を守った。75年には青木自身が道議選に出馬し当選。藤井も道議選で手堅く再選された。
 保守本流の道議藤井は旭川市政を奪還すべく自民の軍師として動き、78年市長選で坂東徹を立てて革新市政を破り、念願の市政奪還を実現した。
 これに対して社会党道本書記長となっていた青木は革新道政実現を目指して動く。市長選の敵(かたき)を知事選でという決意だ。何度も国会に足を運び横路を口説いた。横路は渋り大方の予想も「横路は出ない」というものだったが、青木の執念が通じ、横路も腹を決めた。そして83年4月の知事選で、自民党道本部幹事長藤井が擁立した三上顕一郎を横路が破り、革新道政が誕生する。
 藤井は道議を引退した後、2006年に病死する。追悼記事執筆にあたり記者は青木の自宅を訪ね思い出話を聞いた。青木はこんな話をした。

票読み3度
 「市長選、道議選、知事選で、藤井は自民党の軍師として、俺は社会党の切り込み隊長として激しくやり合った。といっても全面対立していたわけではないし、個人的には妙にウマが合った。各種選挙投票日の1週間くらい前になると藤井から俺のところに電話がきた。〝青木さん、時間あるかい〟。〝いいよ〟と答えて、1条にあった藤井の事務所に足を運んだ。そして事務所の一室で選挙直前情報を交換したものだ。昔、谷口甚角という自民党の参謀がいて票読みの名人だったが、藤井はこの谷口を尊敬していた。
 選挙に長くかかわり精通してくると、3通りくらいの票読みをする。俺と藤井も〝票はこんなところに落ち着くか〟と最初の読み。情報交換しながら〝それじゃこんな具合か〟と2番目の読み。またやりとりが合って3番目の読みが出てくる。互いに選挙のプロだからだいたい票読みは一致する。
 選挙から離れるとたびたび一緒に飲んだ。もっぱら日本酒で、2人ともへべれけになり、果てしなくしゃべった」
 自民と社会、対立する立場にあったが、お互いを選挙のプロとして認める〝戦友〟でもあった。
 青木は6期連続当選し24年間道議を務めた。
 「自身の選挙では細かな指示を出すことはなく〝ありがとう〟〝ご苦労さん〟と姿勢低くスタッフをねぎらっていた。選挙のすべてを知っているので、要(かなめ)となる者1人2人にだけ、どこかでやるべきことを指示していたのだと思う。青木さんとは対照的に五十嵐さんは何やかにやと自分の思い通りにしないと気が済まない人で、ルートが違うと選挙カーのドライバーの席を蹴って、ドライバーが〝やってられない〟と辞めていったこともあった。横路さんはさらに我がままで難儀をした」とは、元旭労の幹部。

選挙のプロ
 青木は99年、三井あき子を道議の後継に指名し政界を引退した。「これからは水戸黄門」と悠々自適な毎日を過ごすはずだったが、05年の佐々木隆博の衆院選に引っ張りだされた。極めて旗色の悪い状況下、かつての革新パワー、党・労・農を結集した組織選挙をやるしか勝ち目はないと、最高責任者で司令塔となる連合後援会会長ポストに据えられたのだ。青木は「旭川では勝てない。勝つのは宗谷線。ここで大差をつけて競り勝つ」との戦術を立て、「コラ、タカヒロ」と佐々木候補の背中を押して、戦術通りに勝利をものにした。「口は悪いが頼りになるノブさん」の本領を発揮した。
 55年体制下の革新の闘士・青木の冥福を祈る。

表紙2003
この記事は月刊北海道経済2020年03月号に掲載されています。

大雪アリーナ ヴォレアスに狭すぎる

 旭川市夢りんごリアルター体育館を本拠地とするバレーボールのチーム、ヴォレアス北海道で、念願の「V1」昇格が見えてきた。大きな課題が3000人規模の本拠地の確保。札幌、帯広、函館などには大規模な会場が存在するが、ヴォレアスを旭川に留めるためには、経済効果も見極めたうえで大雪アリーナの本拠地化も含めた対策を検討する必要がありそうだ。

昇格の権利もつ唯一のV2チーム
 全国に知られる旭川の名所・名物をいくつか挙げるとすれば、最初に頭に浮かぶのは「旭山動物園」だろう。「旭川ラーメン」も高い知名度を誇る。繰り返しドラマ化される小説「氷点」の舞台となった「見本林」や、その中にたたずむ「三浦綾子記念文学館」も有名だ。こうした名物・名所のリストに、もうすぐ「ヴォレアス北海道」が加わるかもしれない。
 バレーボール男子のVリーグの頂点であるV1のすぐ下に位置するのがV2。旭川に本拠を置くチーム「ヴォレアス北海道」は1月末までV2首位をひた走っていたが、2月1日、2日の週末は1試合のみで1勝0敗、2位だった富士通カワサキレッドスピリッツが2勝0敗だっため、勝ち数で並ばれ、ポイントで2位となった。3月8日まで続くリーグ戦で上位2チームに入り、さらにV1の最下位チームとの入れ替え戦で勝利すれば、ヴォレアスは念願のV1昇格を果たす。
 V2のチームがすべてV1昇格を目指しているかといえば、そうではない。さまざまな条件をクリアーした上で、審査を受けて「S1ライセンス」を取得することが昇格のもう一つの条件。現在、V2でS1ライセンスを持つのはヴォレアスだけだ。
 ヴォレアスは2017~18年シーズンにV・チャレンジリーグⅡに加盟したばかりの歴史の浅いチームだが、同リーグで優勝し、18~19年シーズンもまた優勝、19~20年はV2で快進撃を続ける。チームが目標に掲げるV1昇格はリーグ戦での最終成績だけでなく、短期決戦となる入れ替え戦の結果にも左右されるため、最短距離で昇格を決められるかはまだわからないが、発足以来の順調な歩みを考えれば、トップリーグ入りは時間の問題だろう。
 ところが、ヴォレアスには不安要素がある。本拠地となる体育館の収容人数が不足しているのだ。

基準は3000人 固定席は1500弱
 ヴォレアスの現在のホームアリーナ(本拠地)は旭川市夢りんごリアルター体育館(総合体育館)。常設の固定座席のみを使えば1500人弱を収容できるが、これではV1チームに求められる本拠地の収容人数である3000人の半分にしかならない。
 V2に籍を置く今季でさえ、ヴォレアスは総合体育館でゲームがある日の前日、札幌の業者を旭川まで呼び、スタッフや選手も作業に加わり、体育館の床に臨時の座席を設営し、試合やイベントがすべて終了した後に撤去している。臨時座席の数は予想される入場者数やチケットの売れ行きに応じて調整しているが、1回あたり100万円から200万円の費用がかかっている。運営会社の株式会社VOREASで社長を務める池田憲士郎氏によれば、「利益が臨時席設置のコストで吹っ飛んでいる状態」だ。
 問題は観客席数だけではない。旭川市はある程度、総合体育館のスケジュールを決定する際、ヴォレアスの予定を優先しているが、他のスポーツ団体による使用、一般開放の日も多いため、リーグの都合通りには総合体育館の使えないことがある。今季のリーグ戦ラスト2試合は、2月29日(対富士通)と3月1日(対埼玉アザレア)だが、いずれも会場は帯広市内のよつ葉アリーナ十勝。昇格に向けた正念場となるこれら2試合が旭川開催でないのは、先約の入っていた総合体育館のスケジュールを抑えることができなかったため。一方、PFI方式で建設されたよつ葉アリーナ十勝は2月29日に供用を開始するが、(2月3日現在)V2の1位チームと2位チームの対戦という格好のイベントで華々しく「こけら落とし」を飾ることになった。

逃す商機がさらに拡大
 よつ葉アリーナ十勝は最大で5000人以上の収容人数を誇る。札幌には8000人収容のきたえーる、1万人収容の真駒内アリーナがあり、函館アリーナも約5000人収容。これらの会場と比べれば、旭川市総合体育館はV2チームのホームアリーナとしては頼りない。さらに、ヴォレアスが現在、昇格を目指しているV1のための本拠地としては、明らかに容量不足だ。
 「現在、V1のゲームには5500~6000人が入ることもある。来季のリーグ戦は東京五輪の終了後に始まるので、さらに増えることも考えられる。日本代表クラスの有力選手が所属するチームが旭川に来れば、500~1000人規模のファンが選手たちとともに来旭するはず」(池田氏)
 しかも、来季は各チームの主催試合が今季よりも増える見通し。現状のままではホームアリーナの収容人数が少ないために、みすみす逃してしまうビジネスチャンスもそれだけ拡大する。
 「我々は民間企業なので、努力にも限度がある。例えば帯広ならもっと観客が入るということになれば、帯広開催の回数増加も検討しなければならない」。池田氏によれば、函館市など、ヴォレアスにゲーム開催を呼びかける自治体は他にもあるという。

大雪アリーナなら固定席が倍増
 旭川市内にもV1のホームアリーナに適した施設がある。道北アークス大雪アリーナがそれだ。座席数は固定席だけで2985人と、総合体育館の約2倍。移動式、仮設、立ち見を含めれば9133人が収容できる。クリスタル橋がかかって旭川駅、中心市街地、さらにはさんろく街まで歩いて行ける距離になったのも魅力だ。池田氏は「これほど好立地にある会場は全国的に見ても珍しい」と、大雪アリーナの条件を高く評価する。
 総合体育館は自家用車でなければ来場が難しく、ゲーム終了後にサポーターたちが盛り上がる飲食店も周辺には乏しい。このあたりの事情は東光スポーツ公園で新設される予定の新しい複合体育館も同じだ。
 大雪アリーナをヴォレアスのホームアリーナとして活用できるのではないか─その可能性にいま関心を寄せているのが旭川市議会の林祐作議員。
 「旭川市は指定管理者である旭川振興公社に年間1億5700万円を払って大雪アリーナの運営を委託している。仮にヴォレアスに大雪アリーナの運営を任せれば、ホームアリーナとして活用しながら、イベントも開催し、東京の企業との関係を生かしてお金を集めることができる。収入を増やせば、市民の負担を減らすことができるのではないか」。
 実際、ヴォレアスはスポーツを中心に音楽、踊り、飲食なども組み合わせたイベントを開催する「興行主」として実績を積み重ねてきた。大企業が支えるV2の他のチームと互角以上の戦いを繰り広げてきたのも、興行主として人気を高めてきたからだ。
 しかし、大雪アリーナは現在、旭川市内における唯一の屋内スケート施設として活用されている。平日の午前、午後は一般開放されており、週末はスケート大会、アイスホッケー大会が開催される。仮にスケートリンクとしての使用ができなくなれば、最も大きな影響を受けるのはアイスホッケー団体だ。長年競技に関わている選手は「我々が望んでいるのは通年で練習ができる環境。大雪アリーナは冬しか使えないが、それすら使えなくなるのは、いま練習している子どもたちのためにも受け入れられない」と語る。
 大雪アリーナのヴォレアスによる使用を、旭川市はどうとらえているのか。スポーツ課は「立ち話程度で聞いたことしかないが」と断ったうえで「現状、スケートリンクとして使っているので難しい」と転用に慎重だ。
 転用の障害になりそうな要素がある。老朽化した現在の設備に変わる製氷設備の取り付け工事が今年の8~10月に予定されているのだ。すでに設備の製造は工場で始まっている。工事が1年後なら、状況は違っていたかもしれない。
 しかし、ある市議は「全面的な転換が無理だとしても、スケートリンクの営業期間を多少短縮するなどして、ヴォレアスと共存する方法はあるはず」との見方を示す。

転用するにも大規模改修は必要
 大雪アリーナをヴォレアスの会場として使うには、さまざまな面で改修が必要だ。例えば照明。ゲーム中に点灯し続けるだけの照明なら現在のままで問題はないが、ヴォレアスはゲームをエンターテイメントとして演出しているため、点灯したり消灯したりできる照明機器が必要となる。一般的な照明はこうした操作を想定していないため、1月26日に総合体育館で開かれたゲームでは、照明が約20分にわたって点灯せず、ゲーム開始が遅れるトラブルもあった。また、演出にはスモークも使うため、場内にたまった煙を迅速に排出する装置も必要だという。暑い夏の日、寒い冬の日もイベント会場として客を集めるには強力な冷暖房設備も不可欠となる。
 また、今後大雪アリーナの使用方法を見直すとすれば、スケートの関係者を含めた現在の主要な利用者から意見を集める手続きも当然必要だ。
 スポーツを通じた地域おこしのお手本となったのが、「マツダ・ズーム・ズーム広島スタジアム」だ。広島駅に近い同スタジアムは2009年にオープンしたが、徹底したアミューズメント化で1試合当たり入場者数の前年比3割アップに成功。「カープ女子」の定着にも成功した。
 GLAY、小田和正、ミスチル…。いずれも函館アリーナで近年、ライブを開いた人気アーティストたちだ。GLAYは函館出身なので当然としても、本格的なライブを開ける5000人規模の会場の存在は大きい。2021年春には福山雅治のライブ開催も決まっている。一方、旭川でこうしたイベントを開催するとすれば、その会場は1500人規模の旭川市民文化会館。大雪アリーナを改修して柔軟に活用すれば、全国からファンが集まる5000人規模のライブを旭川で開催する可能性も見えてくる。2020年秋に始まるV1の来季に間に合わせることは不可能でも、大雪アリーナの今後について、行政、スポーツ関係者を交え、市中心部の賑わいづくりも視野に入れた検討は必要なのではないか。
 道外からも含め、多くのサポーターが大雪アリーナに集まり、ゲーム終了後に熱戦の余韻に浸りながら中心街に繰り出していく……。ヴォレアスのV1昇格を考える時、そんな情景を想像せずにはいられない。

表紙2003
この記事は月刊北海道経済2020年03月号に掲載されています。

慶友会吉田病院を労基が立ち入り調査

 道北における有力な民間医療機関のひとつ、医療法人社団慶友会(吉田良子理事長)。その「予防医療センター」に2月3日、労基の立ち入り調査が入った。本誌は同センターで、残業時間を書類上、別の月に繰り延べる行為が行われたことを示す文書を入手。こうした行為は旭川労働基準監督署も把握している模様だ。慶友会は2012年にも労基から是正勧告を受けており、改めてコンプライアンス意識が問われている。

健診は開院直後から主要事業
 国道39号を当麻に向けて走ると、左側に医療法人社団慶友会吉田病院の予防医療センターが見えてくる。かつて自動車ディーラーが置かれていた建物は、大きなガラスとカーブした壁面が特徴的だ。しかし、利用者はここまでやって来るわけではない。健診車(レントゲン機器などを搭載したバス)と、医師や看護師などのスタッフが旭川市内はもとより、札幌にある拠点も経由して全道各地の企業、団体、施設などに向かい、健康診断のサービスを提供している。同センターに所属する健診車は12台。健診事業を手掛ける道北地域の民間病院としては圧倒的な存在だ。
 慶友会のホームページに掲載されている「グループ沿革」によれば、吉田威氏(故人)を病院長とする吉田病院が31床規模で開院したのは1981年12月のこと。翌年4月には健康診断事業がスタートし、5月には健診車を初めて導入している。現在、グループの3つの主要な事業は旭川市4条西4丁目の吉田病院が担う「医療」、予防医療センターを中核とする「保健」、そして社会福祉法人慶友会が営む特別養護老人ホーム・老人保健施設・グループホームなどの「福祉」。グループ沿革からも、保健が発足当時から現在に至るまで重要な柱であることがわかる。
 予防医療センターの健康診断では、利用者が医師の診断、体重や血圧などの測定のあと、健康維持のためにアドバイスを受ける。職場での健康診断の場合、社員の健康に大きな影響を与えるのが労働時間だ。月100時間以上の残業を強いられている人の心身に深刻な悪影響が及び、生命すら脅かされるおそれがあることは、近年発生した数々の労災事案により社会に広く知られるようになっている。健康を守る立場にある慶友会の予防医療センターなら、そのあたりは熟知しているだろう。
 その慶友会予防医療センターで2月3日朝、労働基準監督署による立ち入り調査が行われた。2人の係官が訪れ、昼休みを挟んで夕方まで職員の労働時間などに関するデータを調べた。係官は同センターが職員たちに対して行った健康診断の結果にも注目している模様。本誌が入手した文書によれば、同センターは一部の職員に月100時間以上、残業させていたことがあるだけでなく、勤務時間に関するデータを改ざんした疑いがある。
 記者の手元に1枚の表がある。縦軸方向には職員の番号と氏名が並び、横軸方向には平成31年4月、同5月、令和元年6月、同7月の記入がある。表の中の数字はその月の各職員の残業時間(休日出勤含む、以下同じ)の長さ。中には月95時間、月92時間、85時間に達している人もいる。こうした長時間労働に従事している人の中には、女性の名前もあり、職員の健康を考える上で望ましくない状況であることは素人の目にも明らかだ。
 とはいえ、どんな職場でも多忙な時期はあるもの。予防医療センターの場合、健診が比較的多い年度の前半に作業量が集中する傾向があるという。

残業約40時間を別の月に振替え
 信じがたいのは、下の表にある4行の記載だ。「(実名)さん、5月分116:05だったため内39:40後月へ」といった記述が4人分ある。5月、6月には4人すべてについて各100時間を超える残業時間が発生したことから、そのうち三十数時間から五十時間弱を7月以降の月に繰り延べた、という意味だと思われる。
 残業をなかったことにするのはもちろん「アウト」だが、一部を繁忙期から閑散期に繰り延べて分散するのは労働基準法第24条の定める「全額払いの原則」に反する。「職場ごとに締め日は決まっていて、それをベースに出勤日数や時間外労働の長さを算出することになります。その分について給料日に全額を支払わなくてはなりません」と、ある社会保険労務士は説明する。
 残業代の不払いはよく報じられるが、残業時間を他の月に繰り延べる行為は、許されないとはいえよくあることなのかとの問いに、この社労士は苦笑する。「普通の企業は残業時間を書類上操作するのではなく、作業そのものを他の月に振り分けて平準化するものです」
 本誌が別に入手した2枚の文書には、文書Aにも登場する職員の名前が記載されている。文書Bには毎日の出勤・退勤時刻(朝7時半ごろから深夜0時30分まで勤務している日もある)、残業時間などが記録されている。「過重労働時間」(超過労働時間の意味と思われる)の合計は文書Aにある修正前の数値と同じ100時間以上。一方、文書Cの出勤・退勤時刻からは、健診車とともに出向いた先での勤務を終えた職員が、事務所に戻った後で従事した仕事の時間が丸ごと消されており、結果的に文書Aの記述通り、「過重労働時間」が70時間強に減らされていた。改ざん前の文書Bに上司の印鑑はないが、改ざん後の文書Cには、予防医療センターのトップである部長のシャチハタ印が押されており、残業や休日出勤に対する手当の支給や当局に対する届け出は文書Cに記されたデータに基づき行われたと推定できる。
 ここでは職員1人についての資料を比較したが、記者は他に2人の職員について、同様の操作が行われていることを示す文書も確認した。朝6時20分から夜9時30まで勤務したデータが丸ごと空白になるなど、より大胆な操作も行われていた。

目標2億円アップ 人手不足は解消せず
 慶友会グループは創立から約40年。この地域における他の有力民間病院よりも後発だとはいえ、それでもこの地域を代表する民間病院の一つとしての地位を確固たるものにしている。なぜその慶友会が、職員の時間外労働に関して不適切な処理を行わなければならないのか。関係者の話から実情が浮かんできた。
 まず、グループ全体で見た収益率の低下だ。他の病院と同様、医療法人社団慶友会もまた保険診療では収益を上げることが難しくなっている。一方、健康保険とは関係の薄い健診事業は、努力と工夫次第で儲かる余地があった。病院は病気になった人が来るのを待っていなければならないのに対して、健診事業は企業や団体、学校など契約が見込める相手に積極的にセールスをかけることで売り上げ増が見込めるためだ。健診事業に力を入れた結果、ピーク時の2016年には健診部門だけで年商約12億円、利益2億円を確保し、グループの健診事業に対する依存が深まった。その後、機器の更新や、健診事業を専門に手掛ける全国的な団体との競争激化で収益はやや悪化したものの、それでも慶友会にとり有望な事業であることに変わりはなかった。
 慶友会グループの成長を維持するために立ち上げられたプロジェクトチームは2018年、健診事業の強化、とくに帯広での新拠点確保を通じた十勝圏の開拓という目標を定めた。予防医療センターでは2年計画を想定していたものの、それが前倒しされ、急きょ、18年の暮れから拠点の物件探しが始まった。帯広市内のコンビニ跡に白羽の矢を立て、大急ぎで契約を結び、5月の大型連休に旭川から連日スタッフを送り込み、連休中にはなんとか体制を整えた。
 また、法人本部から予防医療センターは年間売上2億円アップのノルマを課された。積極的な営業活動で新規顧客の獲得には成功したものの、慢性的な人材不足が続き、本来なら旭川でデスクワークに就いているはずの人員が全道各地での健診の現場の応援に駆り出され、土日に旭川に戻ってたまった仕事を消化する状況が続いていたとの情報がある。
 ただ、こうした状況は長時間労働の原因でもあり、結果だとも言える。看護師や技師などは資格と経験さえあればどの医療機関でも働けるため、業界内での流動率が高く、情報の拡散も早い。長時間労働の情報が広まれば、人材の募集は一段と難しくなる。

標準報酬月額の膨張防止が目的?
 残業時間の分散には、制度的な動機があったと考えられる。毎年4~6月に職員に支払う報酬は、「標準報酬月額」の算出ベースになり、同年9月から翌年8月の健康保険・厚生年金の額に影響する。逆に言えば、毎年4月~6月の残業代を他の月、たとえば健康診断では比較的業務量が少なくなる秋以降に先送りすれば、標準報酬月額を抑制することで、その後1年間、雇用者の負担する健康保険・厚生年金関連のコストを節約できる。もちろん、こうした行為は職員への正当な報酬の支払いや、健康保険・厚生年金の公平なコスト分担の観点から許されるものではない。
 もう一つの動機になった可能性があるのが、残業代割り増しの回避だ。時間外労働については賃金を25%以上、上乗せすることが義務付けられているが、月60時間を超える残業については、通常の1.5倍の割増賃金を支払わなければならない。ということは、残業時間が分散されて60時間を超過する部分が減れば、職員が受け取るべきだった割増賃金が減る。この規定は、中小企業については今のところ実施が免除されているものの、慶友会は職員数や資産規模から大企業とみなされ、適用対象となる。
 この記事で紹介した一連の行為は、労基も立ち入り調査の前から把握していた模様。同署は本誌の取材に対して「個別の案件については取材に応えられない」との立場をとるが、慶友会については過去に是正勧告を行ったこともあり、驚いてはいないはずだ。

2012年にも労基から是正勧告受ける
 いまから8年前のこと、健診のため地方に向かった慶友会の車両が事故を起こして、職員が骨折した。これをきっかけに長時間労働の疑いに注目した労基が調査を行った。2012年5月31日付けで慶友会の当時の理事長に向けて発せられた是正勧告書には「労働者に、時間外労働に関する協定の上限を超えて、1日8時間、週40時間以上の労働を行わせていること」など5項目の問題点が列記されている。これらの問題についてはその後、是正が行われたと考えられるが、根本的な体質の改善までには至らなかったようだ。
 なお、こうした問題について本誌では慶友会に質問を送付したが、回答はなかった。

表紙2003
この記事は月刊北海道経済2020年03月号に掲載されています。