道政・国政への登竜門、当落めぐる人間模様 旭川市議選の半世紀

 本誌創刊50周年の特別企画第3弾は「旭川市議選の半世紀」をお届けする。日本が戦後の混乱期から抜け出し、高度成長期が一服状態に入ってきた昭和40年代。ゆとりのある人たちの名誉職だった市議会議員は、次第に政界を目指す人たちの第一関門となってきた。この50年間には、市議会からスタートし道議会、国会へと進んだ人もいる。毀誉褒貶、毎回様々な話題を提供してくれた旭川市議選の50年を振り返ってみる。(文中敬称略)

4年間続いた「五十嵐効果」
 この選挙の4年前には社会党の五十嵐広三が市長に当選しており、革新市政になって初めての市議選だった。市長当選後に五十嵐は、自民党議員が社会党議員の2倍を占めていた市議会を指して「敵陣に落下傘で飛び降りていくようなもの」と評したが、それから4年後の市議選では自民党の当選者は13人、対する社会党は16人と第1党にのし上がり与野党が逆転、4年間の五十嵐効果が如実に現れた。
 議員定数は今より10人多い44人だったが、この時の選挙では実に69人もの候補者が出た。このうち自民の現職が6人落選、社会の新人が9人当選したが、自民の落選組の中には、それまで4期連続当選していた軍人上がりの尾崎義春や6期連続の前田重春といった大物も含まれていた。旭川市議会のイニシアチブは完全に社会党が握り、五十嵐革新市政を俄然、強固なものにした。
 また、この時の選挙では中島義光(自)が3期連続でトップ当選しており、この偉業はいまだに破られていない。さらに〝議会の暴れん坊〟と言われ、市理事者から恐れられた槙三郎が初当選しており、後に議長を務め53歳の若さで勇退した関根正次は25歳での初陣は飾れなかった。

election この年の選挙でも革新市政効果が社会党に勝利をもたらした。同日行われた市長選では五十嵐が自民党の切り札・森山元一を破って3選。市議選では社会党公認が15人当選と最大会派を堅持し、対する自民党は12人にとどまった。
 2人当選が精一杯のはずの共産党は、党勢拡大をねらって大胆にも4人を立起させたが、結果は片山鋭尚だけが当選、他の新人3人は共倒れに終わり、2議席から1議席に減らす結果となった。
 前回の初陣で跳ね返された関根正次は、中島義光の新旭川地区の地盤を引き継ぎ、今回は上位当選を飾った。三浦ヨシエ以降2期途絶えていた女性議員だったが、社会党の中村悦、神山昌子の2人が当選、市議会への女性進出の足掛かりとなった。
 トップ当選は民社系の大西正剛で、初の4千票突破。最多当選は福居精一の7期で、当時の最長不倒だった。福居は革新市政が始まった時から絶妙の政治バランスで2期8年議長を務めた人格者。議員最後となった7期目は、保守系で政治色のない会派の市民クラブの結成に努めた。

 五十嵐市長が知事選へ転出したため、前年11月17日に旭川市長選が行われ、後継の松本勇が超僅差で佐藤幹夫を退け、革新市政4期目に入った時期の市議選だった。市長選で651票差まで追い上げた保守勢力の余勢をかって、この時の選挙では与党の社会党が議席を二つ減らし、自民党が一つ伸ばした。
 共産党は前回と同じ4人を立起させる予定だったが、共倒れを招いた反省から告示直前に3名に減らし、結果、前々回の2議席に戻した。この時は、前年の市長選に併せて行われた市議の補欠選挙で敗れた泉真砂子が再挑戦し、共産候補としては今日までの最高得票で5位当選を果たした。
 立候補者は55人とそれまでの70人前後から一気に減少し、その後の少数激戦の先駆けとなった。そんな状況の中でトップ当選は東旭川で飛ぶ鳥を落とす勢いだった実業家の早勢忠夫。華々しい登場だったが期を追うごとに色あせていった。
 後に何かと凌ぎを削ることになる28歳の今津寛と30歳の菅原功一が初当選し、政界デビューを飾った記念すべき選挙でもあった。

 この時の選挙の最大の焦点は、社会党が全国でも初の完全地域割りを取り入れたことだった。知事選を戦うための布石として党旭川総支部が導入を検討、内部分裂を起こすほどの経緯もあったが、公認・推薦候補17人を地域に分けて戦った。その結果、候補者全員の得票数は前回より約9千票増え、それなりの効果を発揮したが、肝心の議席数は改選前より一つ減らした。
 トップ当選は市議を2期務めた後に全北海道教職員組合中央執行委員長に転じた菅野久光(のちに参議)の後がまとして立起した伊藤良。前評判通りの強さを見せつけた。また、上位10人中7人が新人候補だったが、その中には新時代の保守系会派を担っていくことになる鎌田勲、渡辺雅士、賀集一正らがいた。
 共産は初の3議席獲得を目指して片山鋭尚、泉真砂子、田辺八郎を立てたが、3期連続当選していた片山を落とすことになり、共産のみならず野党全体にとっても大きな痛手となった。
 この時の選挙戦から選挙カーにトラックを使うことが禁止され、小型のマイクロバスに切り替えられたため、候補者は自分の姿がよく見えるように窓から大きく身を乗り出して市内を駆け回るようになった。若い元気な候補者が窓のへりに腰を掛けて手を振る姿も見られ、市民の間では「アクション遊説」という言葉も生まれた。

 過去3回、新人がトップを取り、上位にも新人がズラリと居並ぶ選挙だったが、この時は上位15人中、新人は14位の山川覚たった1人という、現職優勢の状況を見せつけられた。とりわけ46位に沈んだ新人の馬場昭は、五十嵐広三(当時衆議)の腹心で、社会党の推薦を受け、選挙参謀に木内和博が付いていただけに敗戦は意外なものと受け止められた。
 また、当時人気だった新自由クラブ公認、社民党推薦で立起した福屋州治は、4年前の道議選で顔と名前を売っていた有望新人だったが、期待を裏切る得票で惨敗した。
 公明党が初めて4人当選を果たしたのもこの時の選挙。前回も4人立てたが結果は3人どまりで、1万2千票とされていた公明の基礎票では3人が安全圏と見られていただけに、4人当選は冒険が功を奏したものだった。公明はその12年後に5人を立起させるまでに党勢を拡大し、今日まで全員当選を続けている。
 トップ当選は、2期目は票を減らすというジンクスを打ち破り千票以上も伸ばした渡辺雅士。市議選では歴代最年少、34歳でのトップ当選。その後道議選に2度立起するなど永山の星として存在感を発揮していたが、4期目途中で惜しまれて病死した。
 川田正則後援会や建設業協会、旭川JCなどの支援を受け、山川覚が歴代最年少の27歳で初当選したのもこの時の選挙だった。将来は道議会、国会への道も開ける人材として期待されたが、2期目途中の33歳で早すぎる死を遂げた。

 この回の選挙の最大の話題は社会党公認の新人候補だった高原一記が6415票という、市議選史上の最高得票でトップ当選したことだった。2位の賀集一正と3位の岩崎正則が初の5千票突破という歴史的快挙を演じたものの、それを1300票以上上回る奇跡的得票で、札幌市を除く道内市議選の最高得票でもあった。
 高原は近文地区を地盤としていた佐藤勇(5期)の後継者としての出馬だったが、市役所勤務を経て五十嵐広三衆議の秘書となり、6年以上政治の世界に身を置き、さらに佐藤同様、父親が旧松岡木材出身ということで近文地区に残る松岡関係者の全面支援を得た。また五十嵐広三と歩む会の幹部だった新旭川の八重樫励が出馬しなかったことから、八重樫の票の半分を取り込んだことも大量得票につながった。
 社会党はこの時、上位15位中に9人を当選させ、公認した11人を全員当選させるという我が世の春を謳歌した。一方で自民党は15人を立起させたが、30位以下の下位当選が7人、しかも1人を落選させるという惨憺たる結果だった。
 実はこの選挙を前に、市議会の議員定数を44人から36人に減らそうという市民運動が持ち上がっていた。旭ヒューム管工業(現旭ダンケ)の山下弘社長や龍後設備の龍後廣幸社長ら自民党旭川支部の有力者が中心となって「旭川市政を明るくする会」を結成し、定数削減運動に立ち上がり、多くの支持を得ていた。
 この運動は結局、実現に至らぬまま選挙戦に入ってしまったが、数々の不祥事問題を抱えていた自民党候補者にとっては熱いお灸をすえられた結果となった。もしもこの時、定数が36人になっていたとすれば、さらに3人が落選していたことになる。
 落選した自民党候補者の中には5期目に挑戦していた大物議員の槙三郎もいた。槙は最下位当選の早勢忠夫と約100票差で次点に泣いた。しかし選挙終了後に早勢の家族が「替え玉投票事件」で逮捕され、道義的責任から議員辞職もありうるという微妙な空気になっていた。
 このため早勢が当選から3ヵ月以内に辞職すると、次点の槙が繰り上げ当選するということで早勢の動向が注目された。槙は、良くも悪くも議員能力が突出していたため他の議員から煙たがられる存在だったことから、議員間には早勢に対する辞職勧告、槙の繰り上げ当選に慎重感があった。
 結局早勢には辞職勧告決議がなされたが、早勢は辞職に応じなかった。落選した槙は、この時を最後に市議会から姿を消した。
 市議選史上最も少ない48人という候補者数だったが、話題の数は多く、上草義輝衆議の秘書を経験して政界に打って出、道議会議長にまで上り詰めることになる加藤礼一が33歳で市議に初当選し、太田俊一が市議会最高の8期、公明党が初めて5人の候補を立て全員当選、共産党も3人の候補を全員当選させたのもこの時の選挙だった。

 この時の選挙も新人が強かった。社会党推薦の三井章子、民社党の中島哲夫が1位、2位、社会党の三井幸雄が5位、公明党の安口了が10位に入った。いずれもその後の選挙でも高得票を獲得している。
 三井(章)は29歳という若い女性候補で、テレビの仕事もこなし、父親が保革に顔の利く弁護士という優位性をいかんなく発揮し、地区同盟議長、民社党総支部長の肩書で大量得票をねらった中島に競り勝った。
 社会党も民社党もまだまだ労働組合の力が充実していた時代であり、組合の支援を得た候補は強かった。新人で上位当選した5位の三井(幸)、11位の大河内英明も市職、北教組という強い見方があった。
 何かと新人が脚光を浴びた選挙戦だったが、一方では歯科医師会の推薦を受けた蒔田裕、代議士の兄(秀典)を持つ佐々木邦男、上草衆議の秘書蝦名信幸、津軽三味線で知名度の高かった菅野孝山と、前評判のよかった新人がバタバタと落選したのは意外ともいえる結果だった。
 告示直前に無名の鶴飼重男が立起し、一人で車を運転し、街頭演説しながら街中を流したが、結果は374票。しかしその不屈の魂は長く息づき、その後も市議に4度、市長に2度挑戦している。
 前回選挙で悲願の3人全員当選を実現した共産党が、この時は無謀?にも4人を立てた。回を重ねるごとに投票率が下がってきており、当選ラインも2500票程度にまで下がることが予想されていたが、共産の基礎票は1万ちょっと。
 きっちり4等分されれば全員当選も可能ではあったが、過去の事例からみても危険な賭けであった。結果は4人とも30位以下の下位当選で命拾いをした。
 公明は前回同様5人の候補を立て、今回も全員当選。議員定数が40人、36人と減ってきた現在まで、安定した5人当選が続いているのは立派の一言。この時新人で出た荒島仁は早々に道議へ転出した。関根正次(6期)、糸川一之(6期)、小柳勝人(8期)の議長経験者3人は、この期を限りに勇退しており、これが最後の戦いとなった。

 下落傾向にあった投票率が60%台を一気に割り込み57・84%にまで落ち込んだ低調な選挙戦だった。直前にあった道議選も61・98%と4年前から10ポイントも急落していたため、市議選でも同様の傾向が予想されていたが、それが現実のものとなった。
 特筆すべき話題の少ない選挙結果だったが、高原一記がトップを奪還したのは見事だった。高原は8年前に驚異的得票でトップ当選したが2期目には2600票も減らし、しかも任期途中には社会党や労働組合の取り組みに義憤を感じ、辞職して旭川市長選に立起した経緯もあっただけに、市議復帰を目指す3期目の得票数が注目されていた。結果は高原人気を再確認させられるトップ当選。以後高原は市議会で無所属を貫いた。
 後に道議となり、市長選を2度戦うことになる東国幹が27歳という史上最年少で市議初当選したのがこの時。30位の平凡な当選だったが4年後に早々と藤井猛の後継として道議に転出することになるとは誰にも想像できなかった。
 新人ではこのほか、関根正次の後継者として安田佳正が29歳で当選、会社(日刊旭川新聞)経営の経験があった園田洋司、前回初挑戦に失敗した65歳(初当選では最高齢)の蒔田裕と佐々木邦男、蝦名信幸が晴れて議席を獲得した。
 公明党は前回同様5人全員当選を果たしたが、共産党は4人中、新人の太田元美に票が回りすぎたためか、エースの佐々木卓也を次点で落とすことになった。選挙違反事件に巻き込まれ出馬できなくなった夫(竹内範輔)の代わりに出馬した竹内ツギ子が最下位で滑り込み、亡父(谷口肇)の遺産票を糧に初挑戦した谷口大朗が8位という上位で当選したことはちょっとした話題となった。
 また、新人園田が当選したことで、高原、杉山に加え旭川北高の同期生(11期)3人がそろい踏みしたことも珍しい事例として議会史に残ることになった。2度目の挑戦だった鶴飼重男は前回より500票近く増やしたが、それでも下から2番目だった。
 現在5期目の宮本儔はこの選挙から登場したが、初戦は敗退している。

 議員定数が44人から40人に削減されて初めての選挙だった。4人減の影響がどうでるか未知数な部分もあったが、当落の結果は意外と順当なものだった。
 トップを取ったのは中島哲夫。過去2回とも2位当選で、今回は本気でトップをねらう戦いだったが、ただ一人5千票を超える高得票で悲願を成就させた。
 2位、3位には新人の安住太伸と武田勇美が入った。新旭川地区から出た安住は中島義光、関根正次、安田佳正と引き継がれてきた強固な地盤を、安田が道議選へ打って出た穴を埋める格好で初挑戦し、大量得票を勝ち取った。西神楽の武田は重鎮の小沢仁良が勇退を引き延ばしたため、4年間待って立起したが、観光協会常務理事の仕事を通して市内満遍なく顔と名前を売っていたことからいきなり上位当選の栄光をつかんだ。
 4位に入った渡辺雅士は道議選に2度立起していたため8年ぶりの市議会復帰となった。当選回数は4期目と中堅どころだったが、浪人中を含め政治経験の長さと人懐こい人柄から、市議会のキーマンとして一目置かれる存在となった。任期途中で病死したのが惜しまれる。
 新人では北海タイムスの記者だった藤沢弘光が初当選。東鷹栖・末広を地盤にその後も順調に当選を重ねたが、最後はすっきりしない引退劇で政界から身を引いたのは残念だった。
 前回4人立起で1人を落とした共産党は、道議選で萩原信宏の2選を勝ち取った勢いからか、無謀とも思える5人を立てて戦った。結果は田辺八郎を落として全員当選はならなかったが、この時が新人の小松晃、能登谷繁を加えて共産党の4議席時代の幕開けだった。
 市議会における独特の存在感で3期目をねらった蒔田裕だったが、定数削減の最大の被害者とも言える形で次点に泣いた。定数が44のままであれば危なっかしいが当選はしていた。しかし間もなく吉報が入る。
 議長も経験した輝かしい実績で6期目の当選を果たした賀集一正が、公職選挙法に触れる行為をしていたとして警察の取り調べを受け、略式起訴が確定的になったため議員辞職に踏み切り、次点の蒔田が繰り上げ当選したのである。蒔田の喜び以上に賀集の潔さが光った一件だった。
 無所属の女性議員が当たり前という今日の状況を生み出す先駆けとなった市民活動家の久保厚子が初挑戦したのもこの時。僅差で惜しくも初陣は飾れなかったが、その後の市議会における女性旋風を予感させる選挙でもあった。

 前回選挙で議員定数が4人減り激戦となったが、今回はさらに4人減り36人。この〝狭き門〟を意識してか立起者数も過去最低の46人。基礎票を持たない新人には辛い選挙戦となった。
 トップ当選を狙うには5千票突破が最低条件だったが、この時は実に3人が5千票台に乗せた。折しも菅原功一市長と有力支援者をめぐる疑惑問題で市議会が揺れ動いていた時期であり、市民が議会へ寄せる関心も高まっていた。
 そんな中でトップを取ったのは2期目への挑戦だった安住太伸。安住は前回、新旭川地区で関根正次の地盤をそっくり引き継いだことが、新人ながら堂々の2位当選につながった。しかし今回は、本来関根の後継者で道議選に出るため市議選の地盤を明け渡していた安田佳正が戻ってきたため、地域が複雑な構図になっていた。しかし、そんな状況をものともせず安住はトップ当選、安田も21位当選と踏ん張った。
 2位に食い込んだのは笠木薫。初挑戦の前回は社会党の要職にあり、前評判も高かったが平凡な結果に終わっていた。4年間の後援会づくりが功を奏し、前回を2千票上回る高得票を獲得、その後の〝笠木伝説〟の幕開けとなった。3位の中島哲夫は〝強い候補〟の意地を見せつけた。
 女性候補が6人登場したのもこの選挙の注目点だった。公明の鷲塚紀子、共産の太田元美はともかく、前回惜敗した久保厚子に加え、山城えり子、金谷美奈子といった純粋無所属の市民活動家が名乗りを上げ、全員が中位で当選を飾った。政党の公認・推薦が当たり前だった市議選候補に新しい風を吹き込んだ選挙でもあった。
 ただ一人、前回選挙で市議に返り咲きながら任期途中で病死した渡辺雅士の夫人・渡辺美登里が事前の予想を裏切り、敗れ去った。夫の遺志を継ぎ、永山商工会のバックアップを受けた弔い合戦だったが、油断を生み、取りこぼした。
 前任期中に、菅原市政の与党にありながら「市長辞職」を迫って注目された武田勇美が、環境悪化の中、前回票を下回ったものの11位に食い込んだ。
 前回やっとの思いで4議席を獲得した共産党だったが、今回は出馬を4人に絞ったものの小松晃を落とし、再び3議席に後退。身代わりだった夫人を家庭へ戻し、市議に復帰していた竹内範輔は73歳の高齢が災いしたのか、あえなく落選、波乱に満ちた政界から姿を消した。

 西川将人が旭川市長になってから初めての市議選だった。与党の民主党としては何としても勢力を伸ばしたいところだったが、公認・推薦を含めて10人を立起させたものの8人にとどまった。
 トップ当選はまたしても安住太伸だった。安住はその5ヵ月前に市議を辞して市長選に挑み大敗を喫していたが、1万7500票余を獲得した余勢を駆って8千票を超える信じがたい大量得票だった。しかし地盤の新旭川では安田佳正陣営との確執も生まれ、そのためか安田は35位というきわどい当選に甘んじた。
 安住が奇跡的な得票だったため、6400票越えで通常なら楽々トップを取っていたはずの笠木薫が2位に落ちた。上位当選が当たり前だった中島哲夫も4位という自身にとっては不本意な成績で最後の市議選を終えた。
 この回の最年少当選は29歳の上村有史。知名度もなく、有力な後援者がいるわけでもなく、家族や仲間が頼りの選挙だったが、街づくりに賭ける意欲や行動力が若い世代を中心に受け入れられ天晴れな当選。地盤・看板・カバンが肝心とされる選挙のあり方を変えるものでもあった。
 太田俊一・小柳勝人が持っていた8期当選に近づく7期当選を果たしたのが鎌田勲と杉山允孝。鎌田は途中で道議選に転じたため1期を棒に振ったが、それがなければ先人の偉業に並んでいた。杉山はその4年後、8年後も当選し、現在は連続9期に及んでいる。
 永山の中心部(東地区)から出ていた渡辺雅英が勇退したが、その後継者として出馬した高橋徹と渡辺雅士の流れをくむ松田卓也がそろって落選したため、永山は地域代表の議員が不在となってしまった。またこの時の選挙では、3期連続当選しながらその後は落選中だった泉守が「勝っても負けてもこれが最後」と挑んだが惨敗し、63歳で長年の政治生活にピリオドを打つことになった。
 女性候補が過去最多の7人となったが、最下位で滑り込んだ村岡篤子を含め全員が当選、市議会における女性議員の割合が約20%に達した。村岡は告示近くに大河内英明の後継者として北教組をバックに立起したが、同組合にはかつて伊藤良、大河内と二人を当選させた勢いはなく、ギリギリの当選だった。その村岡は議会体質が合わなかったためか1期限りで辞めることになった。
 5回目の挑戦だった鶴飼重男は、初出馬の374票からコツコツと毎回票の上積みを図り、前回は1769票まで伸ばしていたが、今回はそれより100票ほど減らしたため、たった一人の戦いに限界を感じたのか、この選挙を最後に戦いの舞台を降りた。市長選にも2度立起しており、惜しまれる声も聞かれた。

表紙1611
この続きは月刊北海道経済2016年11月号でお読みください。