優佳良織工芸館館長 木内和博氏を悼む

 優佳良織工芸館の木内和博館長が11月13日、食道がんのため旭川市内の病院で亡くなった。「優佳良織」の伝承に尽くす傍ら、幅広い分野で人脈を築き、抜群の構想力、突破力でまちづくりに積極的に行動、発言。親分肌で、欲得抜きに多くの人の面倒を見た。その死を惜しむ声が止まない。享年70歳(文中敬称略)。

経済人会議
 1990年1月15日付け北海道新聞朝刊に、新春のうかれ気分を吹き飛ばすショッキングな広告が掲載された。「二十世紀最後の10年─世界が変わる、東京が進む、札幌が走る」「さあ、みんなでエネルギッシュに旭川を変えよう」とうたい、紙面中央に大きな活字で「ぜひ市長になってもらいたい!そんな方を推薦ください」と呼びかける内容。旭川市の現状を憂いながらの、歴然とした「旭川市長候補の募集広告」だった。
 広告を出したのは、前年の10月に発足した「旭川経済人会議」。会のメンバーは九割が保守系の人間で、保守代表の坂東徹市長(故人)に退陣要求をつきつけた保守分裂の大事件だった。
kiuchi “仕掛け人”と言われたのが、優佳良織工芸館館長の木内、当時43歳。
 旭山動物園は閑古鳥が鳴く状態。台場の高台に建つ優佳良織工芸館と国際染織美術館は旭川で唯一“全国区”の知名度を誇り観光客を呼び込める施設だった。中央の人脈も太い木内は、旭川の新しいリーダーとして注目され、保守革新問わず周りに企業人が集まってきた。木内を核に経済人会議に先立ち「木曜塾」が発足し、96年には政策提言グループ「創造と改革」が旗揚げしている。
 一方で、「市長公募の新聞広告は旭川の恥だ」と手厳しい批判もされた。そうした批判に木内は本誌紙面でこう答えている。
「自分たちが言わなければという仲間が一人集まり二人集まって話し合っているうちに、何かアクションを起こそうとなった。
 今までの市長というのは、保・革両陣営が決めた人を市民が見比べて決めるという枠組みの中で選ばれていた。そうした枠組みを超え、多くの市民が“自分はこう考えている”と主張する場をつくりたかった。旭川は黙っていると議論しない。市長候補公募の広告をドンと出して問題提起を行い突破口をまず開いた」

選挙プロも一目
 1946(昭和21)年4月7日生まれ。母親は優佳良織創始者の木内綾(故人)。生前、綾は本誌のインタビューで優佳良織誕生の経緯を次のように話している。
 「自分の人生なので好きなことを仕事にしたいと考え、美容室、喫茶店、趣味の店などいろいろなことをやりました。市の商工部から羊毛の手織りをすすめられ、初めはやる気がなかったのですが、織りについて調べてみると、古い歴史があることを知りました。私がやりたかったのは油絵のような織物で、色の中に色が沈んでいるような美しいもの。しかし20年位、七転八倒を繰り返しました」。
木内の少年時代は、優佳良織誕生前の試行錯誤の時だった。

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この続きは月刊北海道経済2017年1月号でお読みください。