道北勤医協元理事長・萩原信宏氏の新たな挑戦

 42年前に医療法人「道北勤労者医療協会」(道北勤医協)を創立し、初代理事長を務めた萩原信宏氏(77)が3月31日付で道北勤医協を退職した。民主的医療運動の先頭に立ち、道北の医療変革を進めながら、共産党の北海道議会議員として12年間、政治の舞台でも活躍した。これからは個人で、旭川市内の銀座商店街のビル内に、患者の話に耳を傾ける診療所を開設し、医療活動を続けるとともに、自らが中心となって設立した「あさひかわ福祉生活協同組合」(福祉生協)の活動にも積極的に取り組んでいくという。萩原氏の新しいスタートが楽しみだ。

銀座商店街で居場所づくり
 萩原氏が計画する診療所は今年6月1日の開院を目指す。場所は市内3条15丁目銀座センタービル(銀ビル)の2階。
 1967年に建てられた銀ビルは地上8階、地下1階。かつては結婚式場や展望回転レストランがあり、賑わいを見せた。ビルが面する銀座商店街も「市民の台所」と呼ばれ、日中は買い物客であふれかえり、地域住民の憩いの場ともなっていた。しかし今、銀ビルも銀座商店街も次第にその面影を失いつつある。
 「今年に入ってから銀ビルの安井徹社長といろいろ話をしているのですが、私が2階に内科の診療所を開設し、1階の空きスペースには人々が集えるサロンのようなものを作る。それによって人が集まることができ、銀座商店街の賑わいづくり、若者やお年寄りの居場所づくりに貢献できるのではないかと考えています」(萩原氏)
 萩原氏が勤医協から離れ、新しい人生のスタート場所に空きビル化した銀ビルを選んだのは、こうした街づくりへの思いがあったからのようだ。診療所の名称を「銀座通内科クリニック」と決めたのも、庶民のまち銀座通商店街を意識したものと思われる。
 これに対し、銀ビルの安井社長も萩原氏の考えに共鳴し、協力的な姿勢をみせる。
 「私にも、銀座通商店街に託児所や宅老所のようなものがあればいいという思いは以前からありました。萩原先生が考える〝居場所づくり〟を具体化していくことには、いろいろな難しさもあるかと思いますが、先生の夢の構想には協力していきたい」。
 この先、銀ビル、銀座商店街が〝医療〟と〝居場所〟という新しい発想で、少しずつでも生まれ変わっていく姿を見るのが楽しみだ。

一切の援助なく旭川で拠点づくり
 市民に期待感を持たせてくれる「銀座通内科クリニック」の開院を前に、42年前に自らが立ち上げた道北勤医協に一区切りつけた萩原氏のこれまでの奮闘の歴史を振り返ってみる。
 帯広市出身。鍼灸師で障害もあった父親が、患者の病気を治してあげたいと頑張っていた姿を見て育ち、医者を志して北海道大学医学部に入学。
 学生時代は学生運動に身を投じたため留年も経験したが、卒業後に就職したのは「働くひとびとの医療機関」として設立されていた札幌の北海道勤労者医療協会。医学生時代から、市民のための医療機関を作りたいという理想を持っていたが、その思いが「命の平等」を掲げた勤医協の理念と重なっていた。
 北海道勤医協に勤めて10年経った頃、民主的医療運動を道内各地に広めようという機運が高まり、旭川医大が開校していた道内第2の都市旭川に新たな拠点「道北勤医協」を設けることになり、その使命を担う医師として35歳の萩原氏に白羽の矢が立った。
 当時のことを萩原氏は「道北医勤医協・旭川医院物語」(12年1月刊)で次のように綴っている。
「(北海道勤医協の方針は)萩原以外は、人も出さない、金も出さない、そして金も貸さない、すべては現地で調達してやれというもの」
 「約10年勤務しての退職金が100万円ほど。医師免許を持っていれば銀行はお金を貸してくれると思っていたが、それほど簡単なものではなかった。北海道勤医協が保証人になれば、何も問題なく融資を受けることができたのだが、それも頑なに断られる。そのようなことで、多くの支持者から資金的援助を得て診療所建設に向かうことになる。それも(旭川に来て)1年もかけずに」

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この続きは月刊北海道経済2017年5月号でお読みください。