歴代旭川市長選を読み解く記事回想

 本誌「月刊北海道経済」は1966(昭和41)年11月に「月刊道北経済」として創刊号を発行した。現誌名に改題したのは1974(昭和49)年。創刊以来、政治・経済・文化と幅広い分野に及ぶ誌面づくりを行ってきたが、中でも「旭川市長選」の話題は、選挙戦を分かりやすく市民に伝えるものとして様々な反響を呼んできた。来月の600号発行にあたり、これまでの100号単位の区切りの誌面から「市長選ネタ」を拾い出し、来たる11月11日投開票の旭川市長選を読み解く参考としてもらえば幸いである。

100号-1977年4月号 革新市政16年の停滞吹っ飛ばせ
 記念すべき節目となった100号では、翌年11月に控えた旭川市長選に向けた話題の一つとして、自民党の道議会議員だった藤井猛氏が、それまで前例のなかった1万円という高額の会費でパーティーを開いたことを掲載している。このパーティーは今で言う政経パーティーなのだが、案内状では「事務所新築披露」をうたい、市内川端町4条9丁目に住宅兼用の事務所が完成したことを祝うという趣旨のものだった。
 集まったのは旭川政財界のそうそうたる顔ぶれの約650人。ニュー北海ホテルの一番広い凌雲の間が人いきれでムンムンする熱気だった。
 当時は、五十嵐広三氏からバトンを引き継いだ松本勇氏の革新市政で、連敗続きの自民党が松本氏の2期目の選挙に誰をぶつけるか、暗中模索の状態だった。記事ではこうした事情を踏まえたうえで次のような記述がみられる。
 「自民党道連の幹部クラスの間では『旭川は革新市長だが、これでよいのか。藤井君が立起し保守市政の座を確保する時期がきているのではないか』といったことがしばしば話題になっていると伝えられることから、政治関係者の間では『今回のパーティーは次期市長選出馬への反応打診ではないか』と勘ぐるスジも多い」
 記事では、藤井氏はこの点については「ノーコメント」であることも伝えているが、最後は次のように結んでいる。
 「何はともあれ、松本勇現市長の再出馬は決定的で、すでに後援会活動を展開している。一方自民党は保守市政奪還を叫びながらも、候補には小柳勝人市議会議長、森山元一病院長はじめ数人の名前が挙がっているものの、今なお決定打が出ていない矢先の華やかなパーティーだっただけに、自由な意見が飛び交っている」
 結局、この時の市長選は保守系の候補者選びがギリギリまでずれ込み、最終的には森山元一氏のひと声で、市議会副議長を務め、第10代市長・坂東幸太郎氏の息子でもある坂東徹(敬生園園長)が擁立されることになり、大方の予想を裏切り坂東氏が約4400票差で競り勝ち、奇跡の大逆転と言われた。
 100号に見る藤井氏のパーティー記事は、この頃の自民党の市長候補選びの混迷ぶりを物語るものとして興味深い。

200号-1985年8月号 敵に塩を送った旭川の保守陣営
 創刊19年目にあたる200号では、翌年11月の旭川市長選でV3を目指す保守陣営が受けた強烈な先制パンチの話題を取り上げている。
 100号発行時点からすでに8年以上が経っていたが、この時点での旭川市長は2期目の坂東徹氏。翌年に控える選挙では3期目への挑戦が当然視されていた。そんな時に、革新道政の旗手だった横路孝弘知事が旭川で政経パーティーを開き、2000人以上が集まった会場には旭川の経済界をはじめとする各界の大物がズラリ顔を見せたのである。
 このパーティーは道内初の政党政派を超えた政経パーティーとして早くから注目されていたが、発起人の中には明らかに保守系と見られる人たちも多く含まれ、あたかも旭川の保守全体が革新の横路知事に飲み込まれた格好だった。
 本誌は、「横路パーティーの大成功に焦りを見せる旭川保守陣営」とのタイトルで、政治家や経済人の誰が出席して誰が欠席したかを詳しく報じ、当日の会場の雰囲気もつぶさに伝えた。そして4ページに及ぶ記事は次のように結ばれている。
 「横路知事を励ます会は、旭川の革新陣営にとって確実に成功をおさめた。パーティー券の売り上げが1750万円にもなり、選挙資金の確保に実りがあったこともさることながら、保守陣営の大物を数人、発起人に加えたことが大きい。
(中略)
 端的に言えば旭川の保守陣営は敵に塩を送るようなことをしたわけであり、それが次の市長、道議、衆議などの各級選挙戦にどのような影響として現れるか。軽率な予測はできないが、何らかの弊害が出てくることは想像に難くない」
 結局、保守陣営にとっては心配や不安も徒労に終わり、翌年の市長選では坂東氏が、革新の星と言われた大敵・佐々木秀典氏を大差で退け3選を果たした。

300号-1993年12月号 市長選出馬前提の自民党支部長続投
 この号では「自民党旭川支部長の続投決めた(市長候補)菅原功一の注目される今後」という見出しの記事が3ページにわたって載っている。
 書き出しは「市長選、道議選、衆院選など各種選挙が微妙に絡み合って難航していた自民党旭川支部の支部長人事が、菅原功一氏(道議)の留任によって決着した。任期は再来年の3月末まで。これによって『自民党の看板が負担になり、菅原氏の市長選出馬はなくなった?』という見方もあるが、本人は『あくまでも来年5月までの続投』と話し、市長選出馬が視界から外れていないことを強調している」
 この当時は、次回の衆院選から選挙区制度が中選挙区から小選挙区比例代表制に変わることになっており、衆院選の候補予定者が支部長に就くための準備が進められていた。しかし自民党には今津寛、金田英行、上草義輝の3人がいたため、先を見越した支部長選びが難航していた。
 そこで、旭川支部長を1期(2年)務めていた菅原氏に続投を求める動きが出てきたのだが、このころ菅原氏は翌年11月の市長選を密かにねらっていたこともあり、市民党で戦う市長選に〝自民党〟の看板は邪魔になるとして、支部長続投には二の足を踏んでいた。やむなく引き受けることになった時点で『あくまでも来年5月までの続投』と周囲にくぎを刺したのはそのためだった。
 そして実際に菅原は翌年5月には支部長を辞任し、9月には革新系からも保守系からも市長候補の決定打を出せぬ状況を尻目に、市長選への出馬を決めた。結果その時の市長選は、保守分裂を覚悟のうえで助役の波岸裕光氏を担ぎ出し、さらに菅原、波岸両氏の立起に何の方針も立てられなかった社会党の姿を見て、市議の高原一記氏が革新候補として立起し、共産党の遠藤英徳氏を含めた4人による熾烈な選挙戦となったのである。
 旭川市長選の歴史に残る4人出馬の選挙戦は、本誌が菅原氏の自民党支部長続投を報じた1年前からすでに動き始めていたわけである。

400号-2002年4月号 市民アンケートで現職否定派が49%
 300号では市長選始まって以来の4人立起を報じたが、それから100号を発行する間に、菅原功一氏が2選を果たし、8ヵ月後には3選を目指して立起することが確実な情勢を迎えていた。
 本誌では独自の市民アンケート調査を行い、菅原市政7年間の評価や次期市長選への期待感などを聞いた。質問には「市長が交代することを望みますか」という項目もあったが、これについては49%が「適任者がいれば交代を望む」とし、26%が「交代を望む」と強い不満を示していた。
 菅原氏、波岸氏と自民党が分裂した7年前の選挙で保守亜流の菅原氏が勝ち上がり、その4年後の選挙では、自民・民主・公明による保革相乗り態勢が組まれ、強力な対抗馬も現れず菅原氏の信任投票のような選挙で2選を果たしていた。
 この間、菅原氏は自身の政治資金問題、市役所内のエコ・スポーツパーク疑惑、不退転の決意で臨んだものの頓挫した新信組設立構想、ずさん過ぎた江丹別ごみ処理場問題など一連のトラブルで、オール与党に近い体制を築いていながら決して順風満帆ではなかった。
 しかし、次期市長選へ向けての有力な対抗馬は現れず、本誌では「今のところ具体的市長候補の名前はゼロ。一部には、いたずらに名前を羅列しただけの報道も見られるが、世論を築くほどのものにはなっていない」と報じている。
 そして「市長選挙は、戦いが熾烈であればあるほどしこりが残り、街の発展を阻害するという意見もあるだろうが、選挙はまちに活力をもたらし、新しい風土と人材を生む。くれぐれも無競争、あるいは無競争同然の選挙にだけはしたくない」と結んでいる。
 そうした空気が実際の行動につながったのが、道議1期目だった東国幹氏の挑戦だった。当時34歳の若い東氏を担いだのは、保守系の若手グループだった。東氏は自民党籍を持つ道議だったが、自民党には相談らしい相談もなく一人で立ち上がったため、菅原氏3選に協力的な姿勢を見せていた自民党も困惑を隠せなかった。
 当時の今津寛自民党支部長は菅原・東両選挙事務所の出陣式に顔を出し、保守市政の資金団体だった希望都市21世紀市民の会の髙丸修会長(旭川商工会議所会頭)は〝さわらぬ神にたたりなし〟と、どちらの陣営にも関わらなかった。
 結果は稀に見る大接戦で、なんと227票差という市長選始まって以来の僅差で菅原氏が競り勝った。それから16年後の今回の市長選は、誰も出ないなら自分が出ると保守系若手グループの後押しを受けて立起を決めた今津寛介氏の姿と、当時の東氏の姿が重なって見える部分もある。

500号-2010年8月号 安住氏の再出馬でまたもや保守分裂
 西川氏が3選を目指す市長選まで残り5ヵ月のこの号では、前回の市長選に出馬するため自民党を離脱し無所属になっていた安住太伸氏が、再挑戦を視野に渡辺喜美氏の「みんなの党」から推薦を受けたことを報じた。安住氏は4年前の市長選初挑戦で敗れた後、翌年春には旭川市議に返り咲いていたが、「最大の目標は市長になること」と公言していた通り、5ヵ月前には市議を辞職し市長選の準備に入るなど、西川市長への挑戦を諦めなかった。
 この年の6月18日、安住氏は後援会事務所で開いた記者会見で「みんなの党の推薦はありがたく受けるが、いろいろな政党も含めた市民の代表を目指す立場から党籍を持つことは考えていない」と語っていた。
 選挙戦は当初、民間サイドが担ぎ出しを図ろうとしていた元旭山動物園園長の小菅正夫氏が強い意欲を見せながらも、なぜか急に出馬を取りやめる事態となり、候補見送りはメンツにかかわる問題とする自民党が告示1ヵ月前に党の役員でもあった経済人の佐々木通彦の擁立にこぎつけ、結局、西川氏、安住氏、佐々木氏の3人による選挙戦となり、保守票の2分化もあって盤石の西川氏が悠々と2選を果たした。
 みんなの党の党籍は持たないとしていた安住氏だったが、その3年後の参院選北海道選挙区にみんなの党公認で出馬し、落選はしたものの26万票以上集める健闘ぶりをみせ、その後は道議選に鞍替えし、保守新勢力を築きつつある。

いよいよ次号は600号
 さて、いよいよ次号は通巻600号。市長選の投開票が11月11日のため本誌の印刷日12日に合わせるためには制作時間がなく、選挙結果の詳報を載せるのは難しい。
 現在の情勢は立憲民主党と国民民主党の推薦を受けた西川氏が4選を目指し、自民党、新党大地の推薦を受けた今津寛介氏が挑む一騎打ちの構図。
 本誌が創刊した1966(昭和41)年11月は五十嵐広三市長の革新市政1期目の時代。その後2度の選挙戦を制し、それから松本勇氏、坂東徹氏、菅原功一氏、西川将人氏と5人の市長が誕生しているが、本誌はそのつど市長選と深い関わりをもって市民に様々な情報を発信し続けてきた。
 今号では100号の区切りごとに、その時点での市長選情報を紹介してきたが、それぞれを回想することで今回の市長選を読み解くヒントが得られたのではないかと思う。今後も本誌のご愛読をお願い致します。

表紙1811
この記事は月刊北海道経済2018年11月号に掲載されています。