平成の旭川「重大ニュース」 政治・選挙編

 今年4月30日。平成時代の終わりが近づいてきている。昭和から移り変わって30年余。あっという間の30年ではあったが、激動した世界同様、ここ旭川でも歴史に残しておきたい様々な出来事があった。本誌が記事でとらえてきた「重大ニュース」のうち、「政治・選挙編」をお届けする。

平成2年1月 旭川経済人会議 市長候補を公募
 平成2年1月15日付け北海道新聞朝刊に、新春のうかれ気分を吹き飛ばすショッキングな広告が掲載された。「二十世紀最後の10年─世界が変わる、東京が進む、札幌が走る」「さあ、みんなでエネルギッシュに旭川を変えよう」とうたい、紙面中央に大きな活字で「ぜひ市長になってもらいたい!そんな方を推薦ください」と呼びかける内容。旭川市の現状を憂いながらの「旭川市長候補の募集広告」だった。
 広告を出したのは、前年10月に発足していた「旭川経済人会議」。メンバーは9割が保守系の経済人だったため、秋には3選立起が確実視されていた坂東徹市長に保守陣営の一部が退陣要求をつきつけた形となり、この奇策は全国的なニュースにもなった。
 仕掛け人は革新系の各種選挙で参謀役だった優佳良織工芸館館長で当時43歳の木内和博。保守系にも太い人脈を持っていたため、木内の呼びかけに多くの企業人が集まってきた。
 「市長公募の新聞広告は旭川の恥だ」と手厳しい批判もあったが、そうした批判に木内は「自分たちが言わなければという仲間が一人集まり二人集まって話し合っているうちに、何かアクションを起こそうとなった。今までの市長というのは、保・革両陣営が決めた人を市民が見比べて決めるという枠組みの中で選ばれていた。そうした枠組みを超え、多くの市民が主張できる場をつくりたかった。旭川は黙っていると議論しない。市長候補公募の広告をドンと出して問題提起を行い、突破口をまず開いた」
 この時の公募では当時NHK旭川放送局長だった今基芳氏が複数の応募者の中から選ばれ選挙準備に入っていたが、途中で病気を理由にリタイヤしたため、急きょ木内が出馬することになった。
 戦いは実らなかったが旭川経済人会議の活動は続けられ、4年後の菅原功一市長誕生に大きな力を発揮した。保守陣営のねじれはその後しばらく続き、旭川の選挙史を大きく変えた。

平成3年4月 道議の議席獲得 共産萩原の奇跡
 平成に入って最初の旭川市道議選は「共産党候補が議席獲得」という衝撃的な出来事で幕を開けた。
 旭川の道議選は当時、定数6のうち自民党が3、社会党が2、公明党が1というのが指定席だった。共産党候補は毎回1人立起していたが、当選ラインの2万票前後には遥かに及ばない得票ばかりで、それまでは宮越弘一氏が12年前に集めた1万7千票余が最高だった。
 共産候補が当選ラインである1万8000票を取ることなどあり得ないとされていた状況の中で道北勤医協理事長の萩原信宏(当時50歳)は何と2万5千を超える票を集め、社会・公明の候補を抑え3位で当選を果たした。マスコミは「奇跡が起きた」と報じ、本誌も「共産党の怪物」と書いた。
 旭川における共産党の基礎票は1万2〜3千が限度。実に1万票以上も上乗せした要因は紛れもなく、日常の診療で多くの市民と触れ合っていた萩原氏の個人票だった。
 萩原はその後の選挙でも2万5千票前後の安定した票を獲得し、道議選における〝共産ワク〟を不動のものとし、3期12年後に真下紀子にバトンを渡した。さすがに真下の票は平成の怪物萩原の票には及ばないが、その後も安定した順位で当選回数を重ねてきている。

平成5年・6年 五十嵐広三 建設大臣・官房長官
 旭川市長を3期務めた五十嵐広三は2度の北海道知事選出馬を経て、中選挙区制時代の本道2区から衆議院議員に当選、5期目の時には細川護熙内閣で建設大臣(平成5年8月〜6年4月)、村山富市内閣で官房長官(平成6年6月〜7年8月)を務めた。
 五十嵐建設大臣は旭川(旧2区)選出の代議士としては石橋湛山内閣で労働大臣、池田勇人内閣で運輸大臣を務めた松浦周太郎、田中角栄内閣で運輸大臣を務めた佐々木秀世に次ぐ3人目の大臣に就任、引き続き自社さ連立政権では内閣官房長官にまでのぼり詰め、次の選挙には出馬せず「十分に燃焼し尽くした」と69歳であっさりと政界を引退した。
 国会進出時から「社会党が政権を取れば間違いなく大臣、総理大臣候補」と言われていたが、まさにその通りとなり、中央政界とは縁遠かった旭川市民にとっては保革の枠を超える感激的な一大事だった。
 旭川において長年の課題だった駅周辺開発に現実的な光を差し込ませたのが五十嵐建設大臣だった。駅周辺の広大な旧国鉄用地に転用の可能性が出てきた状況のなかで、旭川市に対し再開発の都市計画決定申請の提出を勧め、事業認可までの道筋をつけた。
 旭川市長として旭山動物園開園、買物公園造成、旭川医大誘致などなど、将来を見据えた数々の事業を実践した五十嵐が、建設大臣という立場を地元のために有効に活用した。五十嵐建設大臣が誕生していなければ、今日ここまで変貌した「北彩都」の姿は見られなかったかもしれない。

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この続きは月刊北海道経済2019年3月号でお読み下さい。