北海道開発名誉作業班の足跡

 「名誉作業班」という言葉を聞いたことがあるだろうか。正確には「北海道開発名誉作業班」と呼ばれ、第二次大戦後の1948(昭和23)年から3年間、道内の開発事業に携わるため全国の刑務所から集められた受刑者たちのことを言う。本道開拓期の囚人労働は監獄部屋、タコ部屋といった過酷な環境を想像しがちだが、この名誉作業班は開放的な手厚い保護のもとに動員された受刑者たちだった。上川管内でも各地の労務作業に関わったが、旭川市内の近文地区では石狩川治水工事に携わり、住民たちとの交流もあった。

厳選された優秀受刑者
 札幌刑務所看守長で法務事務官を務めた日本の法制史研究の第一人者である重松一義氏が1970年に発刊した「北海道行刑史」の第三節に「北海道開発名誉作業班の活躍とその功績」という記述がある。
 そこでは「昭和23年から3年間にわたり大活躍した北海道開発名誉作業班は、戦前戦後を通じ、その名のごとく北海道に不滅の栄誉を残している」との書き出しで、北海道開発の一翼を担った名誉作業班の仕事ぶりが回顧されている。
 「北海道開拓に多くの功績を残しながら、脱獄逃走で住民の恐怖をあおった集治監時代の悪弊残影を払拭、本当に北海道の町や村に奉仕しようとする体制と教育方式ができあがったのである」
 北海道の住民にとって「集治監」、「監獄」という言葉には馴染み深いものがある。明治時代には樺戸(月形町)、空知(三笠市)、釧路(標茶町)網走、帯広に集治監があり、それらが監獄と呼ばれるようになってからも道内の各要所に存在し、受刑者はそこで開拓のための労働に従事した。
 身近なところでは、樺戸集治監や空知集治監の受刑者たちによって上川道路(現在の国道12号)の建設が進められたことは、今でもよく知られている。そしてまた、その時の過酷な労働が原因で多くの受刑者が命を落としたことも、北海道開拓に関する様々な歴史の中に刻まれている。
 ある時期から「集治監」「監獄」という言葉は消え、戦後はGHQの勧告もあり、受刑者労務を北海道開発事業に活用するという国の方針から、成績優秀な受刑者を中心に全国の刑務所から約3000人が北海道に集まってきた。
 この時の受刑者選抜にあたっては「厳選した優秀受刑者を派遣する」とし、「派遣する受刑者には名誉と誇りを持たせる」「処遇は中間刑務所的な要素をもたせる」「労務成績により刑期を短縮し、元の刑務所に戻った時に仮釈放する」など、ある意味〝恩赦〟のような含みを持たせていた。
 まさに「北海道開発名誉作業班」という言葉がぴったりの受刑者労務だったのである。

作業日数2日で刑期4日に換算
 名誉作業班は道内の札幌、旭川、帯広、網走、釧路、函館の6刑務所に振り分けられ、各地で河川改修、道路や土地の改良工事などにあたった。
処遇規定もあり「累進処遇(処遇の段階)の第1級に編入する」「作業賞与金は特別の基準で支給する」「作業日数2日を刑期の3日に換算する(顕著な功労があった者は4日に換算)」など、受刑者にとっては魅力的な〝特典〟もあったため、労働に対するまじめな取り組みは相当のものだったと推察できる。
 市内北門町の秋葉みどりさん(81)は、昭和23年当時、小学校3年生だった。家は農家で、自宅は曙町にあったが、農作業の期間中は家族そろって現在の近文町13丁目(近文清掃工場付近)にあった畑のそばに建てた小屋で生活した。秋葉さんはここで、石狩川堤防で工事に携わる名誉作業班の姿を毎日見ていた。
 秋葉さんが15年前に、この当時の記憶を書き残したものがあるので、その中から抜粋して紹介してみる。

「スイカやトマトを差し入れした」
 「昭和21年と22年に近文地区は台風による大洪水に見舞われました。その頃は川に堤防はなく、野菜畑と松岡木材新社宅が全滅しました。畑を失った親は収入もなくなり大変だったと思います。
 今は高い本堤防になり、清掃工場、プールなどがあり当時の面影はありませんが、水害の翌年、昭和23年には旭川刑務所が受け入れた北海道名誉作業班受刑者の人たちが苦労して仮堤防を作ってくれました。
 畑のそばに、受刑者が休憩したり食事をとる作業小屋と事務官の小屋がありました。私の家から食事用の水を汲んでいきましたので仲良くなりました。兄は受刑者に床屋をしてもらい、私は事務官に絵を描いてもらったり、兄妹とも話をしたり、作業現場へ遊びに行った妹はトロッコにも乗せてもらったそうです。
 刑務官が屋根のない高いやぐらの上で、手ぬぐいでほおかぶりした上から帽子をかぶり、見張っていましたが、暑いときは大変辛かったことと思います。時々、軍用犬として活躍し、凱旋後に旭川刑務所へ移管させられたシェパード犬も一緒でした。
 受刑者は朝、トラックに乗ってやってきます。近文小学校の前が道路でしたので、トラックが通ると生徒たちは手を振りました。校長先生は手を振ってはだめと反対しましたが、女性の先生は子供達には何も言いませんでした。
 受刑者たちが仮堤防を作ってくれたおかげで、家の畑は水害から守られるようになりました。畑では野菜を作っていましたのでよく、スイカやトマトを作業班へ差し入れしていました。
 堤防の外の河川敷地にも畑を作っていたのですが、工事の完了後に、この畑にも水が入らないよう仮堤防から川側への別口堤防を作ってくれました。受刑者たちが、食事用の水やスイカ、トマトなどを差し入れた両親への恩返しだったのではないかと思います。
 一切の工事を終え、引き上げていく受刑者の列が終わるまで、祖父、祖母、父、母は何度も何度も頭を下げ、お礼を言っていました。見送る家族の前にはリンゴ箱が3箱置いてありましたが、それは受刑者からの感謝の気持ちだったと思います。作業班の中には、出所後訪ねてきてくれた人もいました。翌年、父は法務大臣から感謝状をいただき、大変喜んでいたことを思い出します」

旭川刑務所西神楽 農場から通う毎日
 秋葉さんの記憶にある名誉作業班による近文地区の石狩川治水工事は1948(昭和23)年7月から10月にかけて、50名の受刑者たちによって行われた。
 全国から選りすぐられた数百人の受刑者は、当時市内8条13丁目にあった旭川刑務所(1968年12月東鷹栖3線12号に移転)に収監されたが、実際に寝泊まりしたのは現在も西神楽南16号にある「旭川刑務所西神楽農場」だった。
 ここは、元第7師団の演習地で、広大な山林と農地を持っていたことから刑務所が借り受け、受刑者の泊まり込み農作業場となった。事務所や食堂、浴場、倉庫、雑居舎房、味噌・醤油工場、畜舎などを備えていたため、多くの受刑者を収監するのに適した場所だった。
受刑者たちは夏場の約4ヵ月間、毎朝ここからトラックに乗せられ、近文地区の治水工事現場まで運ばれていた。小学3年生だった秋葉さんも、校舎の窓からこの光景を見ていたのだろう。
 記事の冒頭に書いた重松氏の著書によると、当時、旭川刑務所から作業に出ていた受刑者は、もともと旭川刑務所に収監されていた人を含めて延べ600名に及ぶ。工事の現場は旭川の近文はじめ和寒、東川村、美瑛、宗谷の声問など5ヵ所。それぞれの地域で土地改良、水温上昇工事、道路工事などに携わった。
 旭川で受刑者が作った仮堤防は、1992年から96年にかけて行われた近文清掃工場の新設工事にあわせて本堤防が作られたことから、今ではその痕跡もないが、70年前に、全国から集まった受刑者たちが住民と交流しながら成し遂げた仕事が、いまも川のまち旭川に息づいていることを忘れたくない。

表紙1909
この記事は月刊北海道経済2019年09月号に掲載されています。