庶民の台所たくしょく市場が来夏にも消失

 旭川の一等地にあり、庶民の台所として長年親しまれてきた「たくしょく市場(正式名称・拓殖小売市場)」(2条通8丁目右5号)が、来年夏にも取り壊されることが明らかになった。かつて〝市場のまち〟と呼ばれた旭川から、市場がことごとく姿を消していく中、昔の面影を今に伝える貴重な存在でもあっただけに、大変惜しまれる話だ。

ここにいれば生活に困らなかった」
「たくしょく市場」は1930年に開業。その名は、当初向かいにあった「北海道拓殖銀行旭川支店」に由来する。敷地面積は200坪。建物は、土地の所有者でもある水上木材が建設し、木造2階建てで一部3階建て。屋根面には、ガラス窓を配した出窓タイプの、いわゆる〝明かり採り〟があるのも特徴の一つだ。
たくしょく市場01 建物内は、通路をはさんで片側10戸間口ずつ等間隔に仕切られ、両側合わせて20戸間口になっている。開業当初は両側すべて埋め尽くされ、20軒でスタート。生鮮食品をはじめ、惣菜、靴を取り扱う店や食堂、刃物研ぎ屋など、さまざまな業種が軒を連ねた。
さんろく街がそばに控えたほか、中心街には旅館が二十数軒立ち並び、旅館や寿司屋、八百屋、居酒屋、精肉店などが主な得意先になっていた。立地が駅に近く、周辺には銭湯もあったことから、「ここにいれば、生活に困ることはなかった」と、古くからの店子たちは口をそろえる。
1912年に創業した「今津商店」は、当初は大八車に魚や干物などを載せ、市内住宅街を「引き売り」していた。最初の店舗として拓殖市場に40年に入店。以来、戦中、戦後、高度経済成長期、そして平成とこの市場を中心に商売を続けてきた。今津実社長(64)は「この市場は商売の原点」と語る。
たくしょく市場は、戦後から昭和30年代にかけて全盛期を迎えた。郊外から馬そりで買い物に来る人も多く、2条本通り側には馬そりがズラリ並んだ。人出が多いだけに万引きも多く、今津社長の祖母のヒデさんがタチの悪い万引き犯を見つけ、常磐公園まで追いかけて行ったこともあるという。
毎年6月の護国神社招魂祭では、全道から貸切バスで大勢の遺族たちが旭川に訪れ、それぞれ中心街の旅館に宿泊。この際、市場は旅館からの注文への対応に追われた。当時少年だった今津社長は「あのころの記憶が鮮明に残っており、おふくろが割烹着を身につけ、ウロコにまみれて働いていた姿が目に焼きついている」と懐かしむ。
当時を知る常連客は「パリパリの数の子に本物のキンキ、それにマグロも一級品。瀬戸物の岡持ちに入れた刺身の出前もあった。果物などは箱売りが多く、ここに来なければないものというのがあった」と振り返る。

(この記事の続きは月刊北海道経済11月号でご覧ください)

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