歴代旭川市長選を読み解く記事回想

 本誌「月刊北海道経済」は1966(昭和41)年11月に「月刊道北経済」として創刊号を発行した。現誌名に改題したのは1974(昭和49)年。創刊以来、政治・経済・文化と幅広い分野に及ぶ誌面づくりを行ってきたが、中でも「旭川市長選」の話題は、選挙戦を分かりやすく市民に伝えるものとして様々な反響を呼んできた。来月の600号発行にあたり、これまでの100号単位の区切りの誌面から「市長選ネタ」を拾い出し、来たる11月11日投開票の旭川市長選を読み解く参考としてもらえば幸いである。

100号-1977年4月号 革新市政16年の停滞吹っ飛ばせ
 記念すべき節目となった100号では、翌年11月に控えた旭川市長選に向けた話題の一つとして、自民党の道議会議員だった藤井猛氏が、それまで前例のなかった1万円という高額の会費でパーティーを開いたことを掲載している。このパーティーは今で言う政経パーティーなのだが、案内状では「事務所新築披露」をうたい、市内川端町4条9丁目に住宅兼用の事務所が完成したことを祝うという趣旨のものだった。
 集まったのは旭川政財界のそうそうたる顔ぶれの約650人。ニュー北海ホテルの一番広い凌雲の間が人いきれでムンムンする熱気だった。
 当時は、五十嵐広三氏からバトンを引き継いだ松本勇氏の革新市政で、連敗続きの自民党が松本氏の2期目の選挙に誰をぶつけるか、暗中模索の状態だった。記事ではこうした事情を踏まえたうえで次のような記述がみられる。
 「自民党道連の幹部クラスの間では『旭川は革新市長だが、これでよいのか。藤井君が立起し保守市政の座を確保する時期がきているのではないか』といったことがしばしば話題になっていると伝えられることから、政治関係者の間では『今回のパーティーは次期市長選出馬への反応打診ではないか』と勘ぐるスジも多い」
 記事では、藤井氏はこの点については「ノーコメント」であることも伝えているが、最後は次のように結んでいる。
 「何はともあれ、松本勇現市長の再出馬は決定的で、すでに後援会活動を展開している。一方自民党は保守市政奪還を叫びながらも、候補には小柳勝人市議会議長、森山元一病院長はじめ数人の名前が挙がっているものの、今なお決定打が出ていない矢先の華やかなパーティーだっただけに、自由な意見が飛び交っている」
 結局、この時の市長選は保守系の候補者選びがギリギリまでずれ込み、最終的には森山元一氏のひと声で、市議会副議長を務め、第10代市長・坂東幸太郎氏の息子でもある坂東徹(敬生園園長)が擁立されることになり、大方の予想を裏切り坂東氏が約4400票差で競り勝ち、奇跡の大逆転と言われた。
 100号に見る藤井氏のパーティー記事は、この頃の自民党の市長候補選びの混迷ぶりを物語るものとして興味深い。

200号-1985年8月号 敵に塩を送った旭川の保守陣営
 創刊19年目にあたる200号では、翌年11月の旭川市長選でV3を目指す保守陣営が受けた強烈な先制パンチの話題を取り上げている。
 100号発行時点からすでに8年以上が経っていたが、この時点での旭川市長は2期目の坂東徹氏。翌年に控える選挙では3期目への挑戦が当然視されていた。そんな時に、革新道政の旗手だった横路孝弘知事が旭川で政経パーティーを開き、2000人以上が集まった会場には旭川の経済界をはじめとする各界の大物がズラリ顔を見せたのである。
 このパーティーは道内初の政党政派を超えた政経パーティーとして早くから注目されていたが、発起人の中には明らかに保守系と見られる人たちも多く含まれ、あたかも旭川の保守全体が革新の横路知事に飲み込まれた格好だった。
 本誌は、「横路パーティーの大成功に焦りを見せる旭川保守陣営」とのタイトルで、政治家や経済人の誰が出席して誰が欠席したかを詳しく報じ、当日の会場の雰囲気もつぶさに伝えた。そして4ページに及ぶ記事は次のように結ばれている。
 「横路知事を励ます会は、旭川の革新陣営にとって確実に成功をおさめた。パーティー券の売り上げが1750万円にもなり、選挙資金の確保に実りがあったこともさることながら、保守陣営の大物を数人、発起人に加えたことが大きい。
(中略)
 端的に言えば旭川の保守陣営は敵に塩を送るようなことをしたわけであり、それが次の市長、道議、衆議などの各級選挙戦にどのような影響として現れるか。軽率な予測はできないが、何らかの弊害が出てくることは想像に難くない」
 結局、保守陣営にとっては心配や不安も徒労に終わり、翌年の市長選では坂東氏が、革新の星と言われた大敵・佐々木秀典氏を大差で退け3選を果たした。

300号-1993年12月号 市長選出馬前提の自民党支部長続投
 この号では「自民党旭川支部長の続投決めた(市長候補)菅原功一の注目される今後」という見出しの記事が3ページにわたって載っている。
 書き出しは「市長選、道議選、衆院選など各種選挙が微妙に絡み合って難航していた自民党旭川支部の支部長人事が、菅原功一氏(道議)の留任によって決着した。任期は再来年の3月末まで。これによって『自民党の看板が負担になり、菅原氏の市長選出馬はなくなった?』という見方もあるが、本人は『あくまでも来年5月までの続投』と話し、市長選出馬が視界から外れていないことを強調している」
 この当時は、次回の衆院選から選挙区制度が中選挙区から小選挙区比例代表制に変わることになっており、衆院選の候補予定者が支部長に就くための準備が進められていた。しかし自民党には今津寛、金田英行、上草義輝の3人がいたため、先を見越した支部長選びが難航していた。
 そこで、旭川支部長を1期(2年)務めていた菅原氏に続投を求める動きが出てきたのだが、このころ菅原氏は翌年11月の市長選を密かにねらっていたこともあり、市民党で戦う市長選に〝自民党〟の看板は邪魔になるとして、支部長続投には二の足を踏んでいた。やむなく引き受けることになった時点で『あくまでも来年5月までの続投』と周囲にくぎを刺したのはそのためだった。
 そして実際に菅原は翌年5月には支部長を辞任し、9月には革新系からも保守系からも市長候補の決定打を出せぬ状況を尻目に、市長選への出馬を決めた。結果その時の市長選は、保守分裂を覚悟のうえで助役の波岸裕光氏を担ぎ出し、さらに菅原、波岸両氏の立起に何の方針も立てられなかった社会党の姿を見て、市議の高原一記氏が革新候補として立起し、共産党の遠藤英徳氏を含めた4人による熾烈な選挙戦となったのである。
 旭川市長選の歴史に残る4人出馬の選挙戦は、本誌が菅原氏の自民党支部長続投を報じた1年前からすでに動き始めていたわけである。

400号-2002年4月号 市民アンケートで現職否定派が49%
 300号では市長選始まって以来の4人立起を報じたが、それから100号を発行する間に、菅原功一氏が2選を果たし、8ヵ月後には3選を目指して立起することが確実な情勢を迎えていた。
 本誌では独自の市民アンケート調査を行い、菅原市政7年間の評価や次期市長選への期待感などを聞いた。質問には「市長が交代することを望みますか」という項目もあったが、これについては49%が「適任者がいれば交代を望む」とし、26%が「交代を望む」と強い不満を示していた。
 菅原氏、波岸氏と自民党が分裂した7年前の選挙で保守亜流の菅原氏が勝ち上がり、その4年後の選挙では、自民・民主・公明による保革相乗り態勢が組まれ、強力な対抗馬も現れず菅原氏の信任投票のような選挙で2選を果たしていた。
 この間、菅原氏は自身の政治資金問題、市役所内のエコ・スポーツパーク疑惑、不退転の決意で臨んだものの頓挫した新信組設立構想、ずさん過ぎた江丹別ごみ処理場問題など一連のトラブルで、オール与党に近い体制を築いていながら決して順風満帆ではなかった。
 しかし、次期市長選へ向けての有力な対抗馬は現れず、本誌では「今のところ具体的市長候補の名前はゼロ。一部には、いたずらに名前を羅列しただけの報道も見られるが、世論を築くほどのものにはなっていない」と報じている。
 そして「市長選挙は、戦いが熾烈であればあるほどしこりが残り、街の発展を阻害するという意見もあるだろうが、選挙はまちに活力をもたらし、新しい風土と人材を生む。くれぐれも無競争、あるいは無競争同然の選挙にだけはしたくない」と結んでいる。
 そうした空気が実際の行動につながったのが、道議1期目だった東国幹氏の挑戦だった。当時34歳の若い東氏を担いだのは、保守系の若手グループだった。東氏は自民党籍を持つ道議だったが、自民党には相談らしい相談もなく一人で立ち上がったため、菅原氏3選に協力的な姿勢を見せていた自民党も困惑を隠せなかった。
 当時の今津寛自民党支部長は菅原・東両選挙事務所の出陣式に顔を出し、保守市政の資金団体だった希望都市21世紀市民の会の髙丸修会長(旭川商工会議所会頭)は〝さわらぬ神にたたりなし〟と、どちらの陣営にも関わらなかった。
 結果は稀に見る大接戦で、なんと227票差という市長選始まって以来の僅差で菅原氏が競り勝った。それから16年後の今回の市長選は、誰も出ないなら自分が出ると保守系若手グループの後押しを受けて立起を決めた今津寛介氏の姿と、当時の東氏の姿が重なって見える部分もある。

500号-2010年8月号 安住氏の再出馬でまたもや保守分裂
 西川氏が3選を目指す市長選まで残り5ヵ月のこの号では、前回の市長選に出馬するため自民党を離脱し無所属になっていた安住太伸氏が、再挑戦を視野に渡辺喜美氏の「みんなの党」から推薦を受けたことを報じた。安住氏は4年前の市長選初挑戦で敗れた後、翌年春には旭川市議に返り咲いていたが、「最大の目標は市長になること」と公言していた通り、5ヵ月前には市議を辞職し市長選の準備に入るなど、西川市長への挑戦を諦めなかった。
 この年の6月18日、安住氏は後援会事務所で開いた記者会見で「みんなの党の推薦はありがたく受けるが、いろいろな政党も含めた市民の代表を目指す立場から党籍を持つことは考えていない」と語っていた。
 選挙戦は当初、民間サイドが担ぎ出しを図ろうとしていた元旭山動物園園長の小菅正夫氏が強い意欲を見せながらも、なぜか急に出馬を取りやめる事態となり、候補見送りはメンツにかかわる問題とする自民党が告示1ヵ月前に党の役員でもあった経済人の佐々木通彦の擁立にこぎつけ、結局、西川氏、安住氏、佐々木氏の3人による選挙戦となり、保守票の2分化もあって盤石の西川氏が悠々と2選を果たした。
 みんなの党の党籍は持たないとしていた安住氏だったが、その3年後の参院選北海道選挙区にみんなの党公認で出馬し、落選はしたものの26万票以上集める健闘ぶりをみせ、その後は道議選に鞍替えし、保守新勢力を築きつつある。

いよいよ次号は600号
 さて、いよいよ次号は通巻600号。市長選の投開票が11月11日のため本誌の印刷日12日に合わせるためには制作時間がなく、選挙結果の詳報を載せるのは難しい。
 現在の情勢は立憲民主党と国民民主党の推薦を受けた西川氏が4選を目指し、自民党、新党大地の推薦を受けた今津寛介氏が挑む一騎打ちの構図。
 本誌が創刊した1966(昭和41)年11月は五十嵐広三市長の革新市政1期目の時代。その後2度の選挙戦を制し、それから松本勇氏、坂東徹氏、菅原功一氏、西川将人氏と5人の市長が誕生しているが、本誌はそのつど市長選と深い関わりをもって市民に様々な情報を発信し続けてきた。
 今号では100号の区切りごとに、その時点での市長選情報を紹介してきたが、それぞれを回想することで今回の市長選を読み解くヒントが得られたのではないかと思う。今後も本誌のご愛読をお願い致します。

表紙1811
この記事は月刊北海道経済2018年11月号に掲載されています。

石垣電材進出に旭川電材業界の〝戦々恐々〟

 パナソニックの連結子会社で優良企業の石垣電材㈱(本社・札幌)がこの7月、旭川秋月2の2に営業所を開設した。突然の旭川進出で、旭川市内に3社あるパナソニック代理店の電材卸しだけでなく、シェアを競う東芝、三菱系の代理店も戦々恐々となっている。

突然の進出
 家電メーカーのパナソニック、東芝、三菱は「電材」の分野でもシェア争いを続けている。「電材」とは、電気に関係する材料のことで、身近なところではコンセントや照明器具、スイッチ。さらにはコンセントの裏側、電線、ケーブル類やそれを保護する管、配電盤、アンテナ、太陽光パネルなどなど幅広い。
 旭川には電材卸しが6社あって、それぞれパナソニックか東芝、三菱のいずれかの代理店となって電気工事業者に資材を販売している。
 6社ともに業績は安定し堅実経営を続けているが、そこに今夏、札幌の有力卸しが〝参入〟してきた。札幌市中央区北6西13に本社を置く石垣電材㈱で、滝川にあった営業所を閉めて7月2日に旭川市秋月に旭川営業所を開設したのだ。地元旭川の〝電材業界〟にとっては予期せぬ道内大手の進出だった。
 電材業界関係者によると「旭川市内にはパナソニックの代理店となっている電材卸しが3社ある。今年5月1日に石垣電材の社長と取締役営業部長が連れだってこの3社をまわり、その時の話で旭川営業所開設が明らかになった」という。石垣電材進出のウワサは事前になく、旭川の電材業界にとっては〝寝耳に水〟だった。

空知エリア限定
 関係者に聞いた話を総合すると、石垣電材の社長と取締役営業部長はパナソニック代理店3社に次のような話をしたようである。
 「滝川営業所が入っている建物が改修されることになり、転居を迫られた。滝川市内や深川市内で移転先を探したが、営業所立地に適した賃貸物件がなかった。そうした事情から滝川営業所を閉鎖し旭川への営業所開設となった。旭川に営業所を移したが、営業活動は、これまでに引き続き空知エリアの顧客であり、営業所の人員も増やす考えはない」。既存の旭川の市場は荒さないという、紳士的な説明だったといわれる。
 滝川営業所の家主は末廣屋電機㈱で、年間売上額29億円を超える空知エリアの有力企業。もともとはパナソニックの代理店として電材卸しも行っていたが数年前に電材卸しから撤退し、石垣電材がその分野を引き継いで滝川に営業所を開設したという経緯。
 滝川営業所が入っていた末廣屋電機の建物は耐震問題で改修が必要になり、退去を申し出られたのは事実のようである。しかし、人口減が続いているとはいえ、滝川市は4万人が住む市であり、移転先に適した賃貸物件がなかったというのはにわかには信じられない話である。空知エリアを管轄とする滝川営業所機能を旭川に移し、営業活動はこれまでの範囲にとどめるというのも、すんなりとは受け止められない説明である。旭川から滝川や深川へ打ち合わせのたびに行き来するのでは時間も経費も大きなロスになる。

全道制覇の一環 
 石垣電材は、札幌に本社と物流センターを構えるほか、函館に支店を開設し、小樽と釧路、室蘭などに営業所を置く。その地区のパナソニック代理店の経営不振、あるいは電材卸し部門からの撤退などのたびに取引先を引き継ぎ小樽、釧路などへ出先を開設してきた。 同社の年間売上高は150億円を超えるが、順次全道展開を推し進めて売上高を伸ばしてきたわけだ。
 〝未進出地〟は、旭川、帯広、北見エリアで、その未進出地の一つである旭川エリアへの旭川営業所開設は全道制覇の一環ということになる。旭川の後は北見、そして帯広。そうなれば全道制覇は完了する。
 旭川地区の〝電材市場〟では、東芝が優位で、パナソニックは東芝の後塵を拝する格好。「営業活動を空知エリアに限るとしているが、それは開設当初の話で、やがては、旭川市内だけでなく士別、名寄、富良野と道北一円に営業攻勢をかけるのは間違いない。第一の目標に掲げているのはシェアを拡大しトップとなることで、東芝や三菱系の代理店との競争が激化する」(電材業界関係者)。

パナ同士の競合も
 さらに「旭川エリアで営業攻勢をかければ身内である3社のパナソニック代理店ともバッティングするのは避けられないが、パナ代理店との競合も厭わないだろう」とも付け加える。ライバル関係にある電材卸しだけでなく〝身内〟の電材卸しも加わったガチンコ勝負となると見るのだ。 
 電材業界にとっての今年の大規模事業は旭川市発注の武道館などで、相変わらず公共工事が主体で、民間の建築工事は少ない。最近の民間建築工事で大きかったのはケーズデンキやホーマックだったが、建築本体受注が市外大手ということで付帯する電気設備工事も市外業者。電材も札幌の業者が納品し、旭川の電材卸しに恩恵はなかった。
 石垣電材はパナソニックが97・8%の株式を所有するパナの連結子会社であり、直系の電材卸し。前述したように売上高は150億円を超え、市内の電材卸し6社を合わせたほどの企業規模を誇る。石垣電材進出で始まる競争は、地元資本の6社にとって厳しいものになりそうだ。

表紙1810
この記事は月刊北海道経済2018年10月号に掲載されています。

全日空の産みの親、中野勝義物語

 1945年8月。第二次世界大戦の終結から程なくして、旧大日本飛行協会(東京・芝田村町)跡の瓦礫の山にたたずむ一人の男がいた。旭川市(東旭川村)出身で〝空に生き、空に殉じた男〟中野勝義(写真)。後に全日空の前身となる日本ヘリコプター輸送㈱を、美土路昌一(全日空初代社長)とともに設立した民間航空の先駆者だ。「ケタ外れの社員」と美土路に呼ばしめた、その破天荒な偉人が刻んだ足跡は多彩なエピソードに彩られている。(敬称略)

東高でのあだ名は「村長」
 東旭川村で1904(明治37)年に屯田兵の三男として生まれた中野は、旧旭川尋常高等小学校時代から優秀な成績で、愛情と正義感が強く特異な存在だった。良くも悪くもボス的な存在で、周囲が彼を自然に持ち上げた。その行動は教師らの注目の的となり、しばしば話題にのぼった。
 学校の児童劇では楠木正成・正行父子の「湊川の別れ」やカチカチ山の童話など、教科書に出てくる内容が主にストーリーとなっていたが、中野はどの劇でも主役に選ばれた。中野と少年時代をともにした加藤精一は、寄稿誌「中野勝義の追憶」(中野勝義追憶録刊行会編)の中で「彼の企画センス、独創的な演出力は、すでにこの頃から芽生えていた。どうしたら見せ場をアピールできるか、セリフや演技には少年らしい頭を使って、場内を沸かせた」と語っている。
 東旭川地区は、中野が少年のころ、水質が悪く鉄分を含み飲料水としてあまり適さなかったため150㍍離れた井戸への水汲みと水運びの仕事が、中野少年の日課になった。成人してからは山葡萄やコクワの実で酒を作る名人となったが、山葡萄やコクワの実に親しんだのも少年時代からだった。
 15歳を過ぎた中野は、「見事な発育ぶりで、腕自慢の彼は、よく級友に力こぶをふくらませて、『米の一俵や二俵かつげなくて男といえるか』と小鼻をふくらませ楽々と俵を持ち上げた」(加藤)。
 旧制旭川中学校(現・旭川東高校)に入学し、付いたあだ名が「村長」。
義に厚く親分肌で、ズボンのポケットに両手を突っ込んで胸をそらし悠々と歩く姿は、村長然としていたようだ。相手を威圧するのではなく、いつも微笑みをたたえていたという。
 後に「空の軍神」と呼ばれる加藤建夫とは同期生だった。シベリヤ事変でいち早く偵察飛行に出征したことでも知られた海軍少佐の赤石久吉が、同校を訪れ、飛行機の話をした際には、とりわけ中野と加藤が熱心に聞き入ったと伝えられる。

「神風号」でロンドンへ
 旭川中学校を卒業すると一時、旭川米飯第一小学校の代用教員となったが、当時ネガティブな内容の歌詞で人気を集めていた流行歌「船頭小唄(枯れすすき)」を教えて辞職を余儀なくされたことは、さすがの中野も苦い経験になったようだ。
 だが、その後、法政大学に進むと、他の大学にはない「航空研究会」を発足させ、時代の最先端を歩むことになる。学生ストライキを組織し暴れん坊ぶりを発揮したり、日本で初めての大学通信教育にも力を尽くした。
 卒業後、朝日新聞社に入ると、社内に「航空部」を創設、民間航空の発展に情熱を燃やす。美土路(全日空初代社長)は、中野について前出の寄稿誌の中で、こう回想する。「入社当時からガラガラ声で、野人そのままの風貌の上に毎日、大酒は飲む、乱酔はする。酔えば必ず先輩に議論を吹っかけ、さらには頭から罵倒するという誠にケタ外れの社員であった」。

表紙1810
この続きは月刊北海道経済2018年10月号でお読み下さい。

旭川ラーメンの基礎 加藤ラーメンの低加水麺

 醤油味の「旭川ラーメン」は20年以上前から全国区の人気を誇る。それを支えているのが麺の加水率。この率の高い低いで製造コストが変わってくるが、「旭川ラーメン」はあえてコストのかかる低加水率の麺を採用している。この基本を作ったのは旭川の老舗製麺所㈱加藤ラーメン。低加水率麺と同社のこだわりから「旭川ラーメン」の魅力を再発見してみる。

麺の特徴決める粉と加水の比率
 全国のラーメン情報を発信する新横浜ラーメン博物館のホームぺージに掲載されている「旭川ラーメン」の項には次のような説明がある。
 「旭川ラーメンの基本は、加水率の低い縮れ麺に、トンコツと海産物(鯵の煮干し等)で取るスープ。(中略)麺の加水が少ない縮れ麺のため、スープの絡み、吸い込みがよく、麺とスープの一体感が味わえる。(後略)」
 旭川ラーメンの特徴をよく言い得ているが、少し説明を加えると、麺の太さは〝中細〟で、スープは豚骨と海産物の他、鶏ガラや野菜でダシを取ったWスープであるということ。
 旭川ラーメンの研究で知られる旭川大学経済学部の江口尚文教授によれば「W」とは海の素材と陸の素材の2種を使うという意味で、このどちらが欠けていても旭川ラーメンとは言えない。
 さて、旭川ラーメンの基本とされる「加水率の低い縮れ麺」だが、まずはこの加水率についてひも解いてみる。
 加水率とは簡単に言えば小麦粉に加える水の割合。水と言っても塩分を含んだ塩水だが、この量が多ければ多いほど〝水増し〟した生地が作れる。従って、同じ量の小麦粉を使っても加水率の高低によって出来上がる麺の量が変わってくる。
 一般的に加水率が高い麺(40〜50%程度)はツルツル、モチモチ感が強く、食感が柔らかくなる。もともと水分が多いのでスープが絡みにくく、麺がのびにくい。
 逆に加水率の低い麺(20〜30%程度)は水気が少ないので歯ごたえがあり、小麦粉の割合が多いので香りが強くなる。水分が少ないのでスープを吸収しやすくなり、麺がのびやすい。
 どちらも、好き好きだから優劣をつけることは避けるが、低加水率のラーメンの方が小麦粉をたくさん使い、製造コストも高くなることは確かだ。旭川ラーメンはこの低加水率の麺を使って全国区へ羽ばたいた。

70年前に生み出した旭川ラーメンの基礎
 低加水麺が旭川ラーメンの特徴というが、その原点が製麺会社の加藤ラーメン(旭川市4条21丁目右6号、加藤紀社長)にあることは紛れもない事実だ。同社は1947(昭和22)年7月創業。創業時から低加水率の麺を製造、普及させ、現在の「旭川ラーメン」の確立に大きな影響を与えてきた。
 加藤ラーメンの神髄を知りたいと同社を訪ね、低加水麺への執念、麺製造にかける情熱を3代目の加藤社長に聞いた。
 ─加藤の麺は代々、加水率を抑え、小麦の味や香りを大事にしていますね。
 私は3代目なので、正直、昔のことは全然わからないのですが、70年続く昔ながらの製法で作っていて、それは一切変えていません。だから今でも加水率は低い。
 札幌は加水率が36〜38%と高く40%くらいのところもあるようです。低加水の旭川でも一般的には30%か32%くらいでしょうか。うちは29%くらいですからかなり低い。
 小麦粉1袋が25キロで、それに対してかん水を何キロ入れるかで加水率が決まりますが、季節によっても、その日の湿度や温度でよってもかん水の量は変わります。
 朝工場に入ったら、職人の勘でまずミキサーを1回まわして、5分くらい経って粉が花咲くようになったら自分で触り、固さの確認を取りながら水の量を変え、その日の加水率を決めます。
 朝5時に回し始めても7時、8時になるとまた加水率が変わっていく。工場の中も気温が上がっていくので、粉の温度も変わってくる。小麦粉は1袋ずつ15段に積んでいるので、下と上では温度が違うからです。それも計算していかなければならない。だからうちの麺は自分では繊細な麺だと思っています。
 ─低加水率の麺の特徴は?あえてコストのかかる低加水麺にこだわるのはなぜですか。
 加藤 加水率の低い麺は固くて、引っ張ったら切れやすい。品質が一定でなければならないのでロスも多く出る。ロスを翌朝打つ時に使いまわししているところもあるかもしれませんが、うちではすべて廃棄しています。結構な量になります。
加水率を増やすと、延びて麺を多く作ることができますが、痛みやすい。それで防腐剤やアルコールを入れて日持ちするようにしている。加水率の低い麺は何も入っていないので管理が難しい。香りをかいでも小麦粉の香りしかしない。だからうちの麺はスーパーには一切置いていません。スーパーに置けるのはそれなりの添加物が入っているからだと思います。
 添加物を入れた麺は胃に悪いと思います。うちの麺は何も入っていないので消化が速い。どのくらい速いか、自分で食べて後で吐き、消化時間の実験したこともあります。それを何度もやったため入院する羽目になったこともあります。
 加水率を増やすと麺の量が多くなり、重くなります。その点うちの麺は軽い。軽いから同じグラム数でも麺が多いと言われます。
 また、うちの麺は加水率の関係もあり、ひと玉の卸値が他の工場より2円ぐらい高いかもしれません。しかし小麦粉の仕入れ値が高くなっても麺の値段はもう10年以上は上げていません。他では上げているようで、昔はうちより5円安かったところでも、今ではその差は1円あるかないかだと思います。でも、多少高くてもうちの麺に変えたいと言ってきたところもあります。
 ─低加水率と高加水率の麺では、スープとの関係も変わってくるようですね。
 うちの麺を使ったラーメンは、最初に飲んだスープの味が最後まで変わりません。他の麺だとスープがすっぱくなっていることがあります。それは麺の一本一本からアルコールや防腐剤が出ているためです。うちの麺は固くて余分なものが入っていないので、逆にまろやかにおいしくなっているとさえ言われます。
麺はただ作ればいいというものではありません。毎日毎日きちっと作っていけばお客さんも分かってくれる。安い麺、儲かる麺を作ろうとするのは逆発想です。コストがかかってもいいからいい麺をつくる。これが私の信念。「旭川ラーメン」の基礎を作った加藤ラーメンを、代々受け継いできた3代目の使命だと思っています。

かつて、加水率を巡る騒動もあった
 加藤ラーメンの2代目加藤明定氏から「麺は生きものだ。大事に扱え」と教えられた3代目の、麺に対する情熱をたっぷり聞いたが、麺をめぐるラーメン専門店の事情も少し紹介しておく。
 25年以上前、本誌が「旭川ラーメン大賞」を企画し、市内にラーメンブームが到来していた頃、ラーメン店をチェーン展開していた本部企業が、それまで使用していた製麺工場の麺を中止し、自社で新設した製麺工場の麺を使うことにした。
 自社工場を設けた理由は「多様化する消費者ニーズに応えらえる麺を作るため」ということだったが、実際のところは従来の加水率が低くコストのかかる麺をやめ、加水率の高い低コストの麺を作って一杯のラーメンの原価を下げるねらいがあったとされる。
 このため、低加水率の麺こそ旭川ラーメンだと主張する加盟店の半数近くがチェーンを脱退し、従来の製麺工場の麺を使い続けた。分裂したそのチェーンは現在、どちらも健闘を続けているが、これは低加水率が決め手となる旭川ラーメンの特徴をめぐる騒動でもあった。
 麺の加水率は人それぞれ好みが違う。低い加水率こそ麺の神髄と言えるものではないかもしれないが、「旭川ラーメン」が現在のような人気を維持できている理由の一つが「低加水率の麺」にあるとだけは言えるのではないか。

表紙1810
この記事は月刊北海道経済2018年10月号に掲載されています。

低迷する女性の就業率─道内第2の都市なのに

 「北海道の女性」というと、本州に比べてしがらみが少なく、社会でバリバリ働くイメージを抱きがちだが、直近の国勢調査で、全国9地域の中で北海道の女性の就業率が最も低いことが分かった。その中でも旭川は35市中15位と就業率が低迷。道内第2の都市ながら、女性の就労の場が少ないことが原因のようだ。

道内15位
 右下のグラフは、全国9地域の女性の就業率を示したもの。直近の「平成27年国勢調査」をもとに、15歳以上の人口に対する就業者数を算出したものだ。
 最も就業率が高いのが中部地方で49・21(単位は%。以下同じ)。このエリアの9県すべてが全国平均(45・44)を超えており、富山(50・13)、石川(50・47)、福井(51・70)、長野(50・65)は50%を超える高い就業率となった。
 エリア内で最も就業率が高い福井は、3世代同居が多く、祖父母が子供たちの世話をするケースが多い街として知られている。内閣府が発表した「2017年版男女共同参画白書」では、子育て期の女性が最も活躍している県として紹介されており、特に20~40代前半の女性就業率が高い。
 2位は中国地方(46・52)で、3位が東北地方(46・38)。さらに4位九州(45・91)5位四国(45・54)と続く。首都圏や関西圏から離れた地域の方が就業率が高く、ようやく6位に関東(44・53)がランクイン。のんびりマイペースな印象が強い沖縄(44・07)が7位で、8位が近畿(43・28)。最もランクが低かったのが北海道(42・86)だった。
 こうなると旭川の状況が気になるところ。同じく平成27年度国勢調査のデータを基に、道内34市の女性の就業率を調べてみた。
 左ページの表はその結果を示したもの。上位5市は①富良野(50・88)②根室(48・59)③紋別(46・37)④北斗(46・18)⑤名寄(45・73)。主要都市はランクインせず、小さな街が名を連ねる。旭川は15位(42・96)。道内平均(42・86)を若干上回ったものの、全国平均を2・58ポイント下回る結果となった。

〝隠れ差別〟も原因?
 旭川の女性の就業率はなぜ低いのか。経済的に余裕があり、女性が働く必要がないのか。または専業主婦として家庭を守りたいという女性が多いのか、それとも働きたくても就労の場がないのだろうか。
 ハローワーク旭川の武田龍寿次長は「旭川では以前から男性よりも女性の求職者数の方が多く、18年4月から6月までの新規求職者の累計数も男性1936人に対して、女性は2603人と女性が上回った」と説明する。
 このデータと低い就業率を考えると、旭川では就労を望む女性は多いものの、なかなか就職には結び付かないという図式が見えてくる。
 この理由について、市内の公的機関の就労支援担当者は、「〝隠れ差別〟が一因ではないか」と指摘する。「求人を出す時には年齢や性別で差別をすることが禁じられている。そのため企業は女性の求職者の面接は形だけするが、最終的には男性しか採用しない、いわゆる〝隠れ差別〟が存在している」。
 保守的な企業体質も女性の就労機会を奪っているようだ。雇用問題に詳しい人は次のように指摘する。「女性の場合、子育てや介護などで働く時間が限られるケースが多く、本州では約5割の企業が、女性が自分の都合に合わせた時間帯で働くことができるシステムを導入しているのに対し、道内ではそうした企業は全体の5%に過ぎない。システムを大幅に変更することを嫌がる、保守的な企業体質が女性が働く機会を奪っているのではないか」

柔軟な働き方
 少子高齢化が進み、労働人口の減少が予測される中、女性の労働力は潜在成長率を高めるカギとされている。市内でも様々な業界で人手不足が加速しており、道北・道東地域における企業の雇用人員の過不足を示す「雇用人員判断DI」(※人員が「過剰」と答えた企業の割合から「不足」の割合を差し引いた数値)からも明らかだ。日銀旭川事務所が6月に発表したデータでは、この数値がマイナス45となり、人手不足感が依然として強いことを印象づける結果となった。
 では職を望む女性に雇用の機会を創出し、労働力として有効に活用するにはどうしたらよいのだろうか。旭川市総合政策部調整課男女共同参画の矢萩恵課長は、「働くことを望む女性が就業し、能力を発揮できるようにするためには、短時間勤務やテレワークなどの柔軟な働き方の導入や長時間労働の是正など,男女ともに働きやすい環境づくりが重要」と話す。
 もちろん女性の就業率が高ければ高いほど良いという訳ではなく、夫の収入が高いほど既婚女性の就業率が減少するというデータも存在する。しかし夫婦共働きによるダブル収入の効果は大きく、女性の就業率が高い福井県は、1人あたり県民所得のランキングで上位に位置している。
 そうなるとやはり、女性の就労の場が増えて、旭川でも就業率が向上することを期待したい。

表紙1809
この記事は月刊北海道経済2018年9月号に掲載されています。

災害の要因は無落雪屋根?

 7月2日から3日午前にかけて猛烈な雨が降り、旭川市内では24時間で195㍉を超える観測史上最高の降水量を記録した。このため市内全域の汚水管が集まってくる忠和地区では3ヵ所のマンホールから大量の水があふれ出し、十数戸が床上浸水する被害が発生した。一見、豪雨による自然災害と見られがちだが、実はその要因をつくった責任の一端が市内全域の住民にもあることを知っておきたい。「忠和の災害は、天災ではなく人災だ」の声も聞こえてくる。

旭川は汚水管と雨水管の分流式
 おいしいと評判で、ペットボトルに詰めて販売までしている旭川の水道水。市民の「上水道」に対する関心は高いと思われるが、「上下水道」とひとくくりにされる、一方の「下水道」に対してはどうだろう。重要性では上水道と同等、あるいはそれ以上なのだが、汚水管が地中深くに埋まっていて普段目にすることがないため、一般的な市民生活の中ではほとんど意識されない存在になっている。
 旭川市内の場合、各家庭のトイレや風呂、台所などの生活排水は、地域にくまなく張り巡らされている汚水管を流れて忠和にある下水処理センターへ運ばれる。また旭川は広域圏下水道として周辺の東神楽、鷹栖、比布、当麻、東川の5町の汚水管ともつながり共同処理をしているため、下水処理センターへ流れていく汚水の量は相当なものとなる。
 つまり旭川市内及び周辺5町の汚水は、直接下水処理センターへつながる台場と神居の一部を除いてすべて、忠和へ忠和へと流れていきそこで合流しているのである。下水処理センターでは実に1日に16万㌧以上の汚水を処理し、石狩川へ放流している。現状の処理能力はギリギリのところにあるという。
 旭川の下水道は、汚水と雨水を別の水路で集め、汚水は浄化処理して川へ放流し、雨水はそのまま川へ放流する、いわゆる分流式を採用している。このため、誤って雨水が汚水管へ流れてしまうと、汚水処理場は想定外の事態となり定量オーバーになってしまうのである。
 汚水管と雨水管の分流式。市民はまずこのことをしっかり意識しておかなければならない。

雨水が大量に汚水管へ流入
 7月2日から3日にかけての豪雨による災害を総括した旭川市は、忠和地区の浸水について、その理由として「汚水管への大量の雨水侵入」を挙げた。通常の汚水以外に雨水が大量に混ざり込んだことにより、全市の汚水が集まってくる忠和地区でマンホールの蓋が破壊し、そこから汚水が道路に流れ出し、近くの忠和体育館駐車場や住宅街が浸水したというものである。
 そして、なぜ汚水管へ大量の雨水が流れ込んだのかの理由として、地下に染み込んだ雨水が汚水管のつなぎ目から管の中に侵入したり、マンホールの蓋の穴から雨水が汚水管に流れ込んだり、さらにそれ以上の大きな可能性として、本来、雨水管へつながっているはずの融雪槽からの排水や、無落雪屋根の上に降った雨水を雨水管へ流すスノーダクトが、市内の多くの家庭で汚水管につながっている状況を挙げた。
 通常の汚水の他に大量の雨水が汚水管に入ってくると、流れる量は通常の2倍から3倍ほどに膨れ上がり、下水処理場の能力の限界を超えてしまう。それが処理場近くのマンホールの蓋の破壊につながってしまう。今回の忠和地区の浸水事故はその典型ともいえるのである。

雨水、融雪水は必ず雨水管へ
 旭川市水道局のホームページを見ると、豪雨当日の7月3日に「大雨による下水道への影響について」として次のような発信を行っている。
 「大雨のときには、汚水管にも大量の雨水が入り込むことから、マンホールから水が溢れ出たり、トイレが一時的に流れにくくなったり、ゴボゴボと音がして水が噴き出す現象が発生することがあります。
 これは下水道施設の不具合によるものではなく、大量の雨水が汚水管に流れ込むため、汚水管が満杯となり流れづらくなることと、汚水管の中の空気が上に押し出されることが主な原因です。ほとんどの場合は天候の回復及び時間の経過とともに収まりますが、降雨量が多い場合は上流から流れ込んでくる水量も増えるため、下流側の地域では雨が止んだ後もしばらくこうした現象が続く場合もあります」
 大量の雨水が汚水管に流れ込むことによって生じる状態を説明し、市民に注意を促す内容のものだが、実は同じ水道局のホームページ上では2年以上前から「雨水・融雪水等の放流先について」として次のような発信もしている。
 「雨水、融雪水などは、必ず雨水桝(雨水管)、側溝に流すか、地下に浸透させてください。
 スノーダクト、融雪機などの排水(雨水、融雪水など)は、汚水桝(汚水系統)に接続しないでください。
 汚水桝は、水洗トイレ、台所、風呂などの生活排水を流すための施設です。汚水桝から下水処理場までの一連の施設(公共下水道)は、使用者のみなさまからの使用料によって管理しており、雨水、融雪水などを流されますと、維持管理に支障をきたします。
 なお、雨水・融雪水などの排水管を水道局で管理する雨水舛(雨水管)に接続される場合は、市役所への道路占用申請のほか、水道局への手続をお願いいたします」
 ホームページ上で呼びかけられている二つの内容をつなぎ合わせて読み解くと、つまりこういうことになる。
 「豪雨で上流から大量の雨水が流れ込むと、下流の汚水管が満杯となり、マンホールから水が溢れ出ることがある。だから雨水や融雪水は必ず雨水管か側溝に流すようにして、決して無落雪屋根のスノーダクト、融雪槽などからの排水を汚水管に接続しないようにしてほしい」
 水道局では、汚水管を流れる水の量が増えるのは旭川市内の無落雪屋根、融雪槽の排水管が、本来つなぐべき雨水管でなく、違反行為にあたる汚水管に接続されている可能性が強いとみているのだ。

無落雪屋根の雨水が汚水管へ
 旭川市水道局では、市内の無落雪住宅の屋根からの排水が、正しく雨水管につながっているかどうか、ほとんど把握できていない。また調査する方法もない。住宅敷地内の地下を掘り起こし、排水管がどうなっているのか確認すれば分かることなのだが、市内だけでも何万戸もある個人の住宅でそれを実施することは事実上不可能。
 雪を屋根に乗せたまま自然に溶けるのを待つ無落雪屋根は、道内を中心にここ20年ほどの間に著しい普及を遂げている。旭川でも近年の新築住宅の大半はこの方式で建てられている。
 無落雪屋根にもいくつかの種類があるが、一般的に普及しているのはスノーダクト方式。屋根の形状を緩やかなM字型にし、中央部分に排水溝(スノーダクト)を設け、雪が溶けた水をそこに集め、排水管を通って雨水管に流すという仕組み。
 これは雪が降り積もるシーズンの話だが、雪のない時期には無落雪屋根は大量の雨を受け止め、雨水管へ流すことになる。しかしその雨水が雨水管でなく汚水管の方へ流れる仕組みになっていると、大雨が降れば下水処理場へ流れていく汚水管があふれてしまう。
 水道局では市内の無落雪屋根からの雨水がかなりの量で汚水管に流れ込んでいるのではないかと見ている。その理由として「本来の雨水管へつなぐと凍結する可能性が高くなるので、生活排水のため1年を通して水温が安定している汚水管の方へつないでいるのではないかと思う」と推測する。

違反行為による災害天災ではなく人災?
 無落雪屋根住宅の新築工事の際、建築確認申請では正しい配管の図面を提出するが、実際の工事にあたっては汚水管につないでしまう。建築業者が勝手にやるのか、建て主が要望を出すのか、ケースはいろいろあると思われるが、結果として雨水管につなぐべき雨水を汚水管の方へつないでしまう。このようなことが相当数あるものと想像される。また、新築の際には正しくやっていても、凍結事故の修理の際に〝改造〟してしまうケースもあるようだ。
 行政はそうしたことを承知していながら、現場を掘り返し、確認する作業ができないでいる。その間に忠和地区の汚水管があふれ出し、住宅に被害をもたらしたのである。天災ではなく人災だと言われても仕方ない。
 人災とするならその責任が誰にあるのか難しいところだが、いずれにしてもなんらかの改善策は見出したい。また、使用料金が生じるはずの下水道の無断使用は、発覚すれば詐欺行為に相当する可能性もある。

表紙1809
この記事は月刊北海道経済2018年9月号に掲載されています。

異常だった 7月の天気

 旭川の天気がおかしい。大雨が降り、夏としては記録的な冷え込みを記録したかと思えば、7月後半は本州を思わせる暑さ。エアコンを設置していない家が珍しくないだけに、猛暑にぐったりしている人も多いはず。気になるのはこうした高温多雨の傾向が年ごとのデータだけでなく、長期的な傾向にも現れているということだ。今年よりも来年、来年よりも再来年と、旭川の天気は「熱く」なっていくのだろうか。

過去100年間の「7月」だけに注目
 気象台のホームページにアクセスすれば、条件を指定して気象に関するさまざまな数値をダウンロードできる。本誌では1919年から2018年に旭川地方気象台で観測されたデータのうち、7月観測分だけに注目して、その変化の傾向を探った。
 まず、今年の7月初旬には台風から変わった温帯低気圧の影響で、短時間のうちに大量の雨が降り、旭川市内で発生した住宅地の冠水被害が全国ニュースで伝えられた。天人峡温泉では一時131人の観光客が足止めとなる事態も発生した。
 旭川の348㍉という月間降水量は過去100年間の7月で1953年(418㍉)、2000年(382㍉)に続いて3番目の多さだった。これは宮前東にある現在の旭川気象台で観測した数値。東旭川瑞穂にあるアメダスによる観測では、2日9時から5日24時までで225㍉という数字が記録されている。
 中旬をすぎると一転して暑い7月となった。25日からは7日間連続で最高気温が30度を突破。本州と九州を襲った台風に伴う気圧配置の関係で、この地域としては猛暑の34度超えも2日あった。ただ、月の前半は悪天候続きだったことから、7月を通してみた平均気温は21・3度。過去100年間では29番目と、顕著に暑かったとは言えない。ちなみに、今年7月5日に記録した一日の最高気温11・6度は、7月としては旭川地方気象台が観測を始めてから最も低かった。

10年間の平均値から長期傾向探ると
 こうした気象データの変化は、年ごとの乱高下が激しい。折れ線グラフを描いてみると急な山や谷が連続し、長期的な傾向は読み取りにくい。そこで、過去10年間の平均値(2018年なら2009~2018年の7月だけの数値を足して10で割ったもの)を計算してみると、一定の傾向が読み取れた。まず過去10年間の7月の平均気温は、2008年の20・4度から2018年の21・39度へと、ほぼ「着実」に上昇し続けた。より長い目でみれば時代によって上昇したり下落したりしているものの、少なくとも1926年、つまり昭和初期から現在に至るまで21度を突破したことは一度もなかった。
 ただし、ここで注意しなければならないのは、2004年8月と同年9月の観測の間で、観測地点が旭川東高付近から宮前東の合同庁舎に移転し、ベースが変わったということだ。周辺の環境の変化が測定される温度にも影響をもたらした可能性がある。観測地点移転の影響がなくなってからの5年間でもこの平均値は上昇を続けているが、今後も同様の傾向が続くかどうか、しばらく注目を続ける必要がありそうだ。
 10年間のタイムスパンで見た平均値の変化がもっと顕著なのは降雨量だ。降雨量は気温よりもさらに1年ごとのばらつきが大きいが、それでも7月の雨が100㍉以上の年が増えているのは明らか。過去10年間の平均値も2018年には169㍉に達した。1974~1999年のいずれの年も、過去10年間をさかのぼった平均値は一貫して100㍉以下だったから、旭川で7月の雨がかなり増えたのは数字の上からも明らかだ。もはや「旭川の夏はそこそこ暑いが、雨が少ないので過ごしやすい」と自慢することはできなくなっている。
 しかし、1974年よりも前に注目すれば、降雨量の長期的な変化にも「うねり」があることがわかる。10年間の平均値は、1960年代には概ね100㍉を上回っており、1962年は164㍉と、現在とほぼ同じ水準だった。見方を変えれば、70年代の中盤から90年代は比較的雨が少なかったとも言える。

「旭川のほうが暑い」と関西人ぼやく
 7月末、旭川市内で開かれたある会合に参加するため、関西地区からやってきた人たちが異口同音に語っていたのは「涼しいと聞いていたのに、こっちのほうが暑いのではないか」との驚きだった。
 プール、ビアホール、かき氷店など、猛暑を追い風に賑わうビジネスはある。しかし体の負担を考えれば、今年以上に暑い7月はもう来てほしくないというのが多くの市民に共通する思いだろう。本稿で指摘した「7月の高温多雨化」の傾向が、今後さらに進むのか、それともどこかで「低温少雨化」へと転じるのかに注目したい。
 ちなみに、旭川地方気象台が観測を始めてからの7月で旭川が最も寒かった日は1890年7月7日で、その日の最低気温は1度だった。もしも旭川が同じ気候に戻れば、農業や産業、市民生活への打撃はともかく、猛暑に苦しむ日本全国の人々が涼を求めて旭川に殺到するのは確実だ。

表紙1809
この記事は月刊北海道経済2018年9月号に掲載されています。