「何だろう?」─。道行く多くの人は、そう思っているに違いない。旭川市宮下通4丁目辺りの忠別川河川敷にポツンと。木の碑らしいが、欠け・穴あき・傾ぎが甚だしく、碑文は剥(は)げて判然としない。両脇の大木が、傾ぐ無惨な木碑を支え守るかのようにスッと立つ。《古跡義経台》と碑面にあり、もう一方の碑面には微かな文字で《上川神社発祥之地》と記されている。北海道の警備と開拓に入植した屯田兵の心の拠り所となるよう現旭川・上川地方の守護の神・鎮守として創建された上川神社の発祥の地を示す木碑であった。義経台って? 素朴な疑問とともに、あまりにもみじめな姿でたたずむシルエットに衝き動かされるに任せ、顧みられることのない碑について記す。

明治中期創建の社とアイヌの人たちの遺跡
明治の開拓期にさかのぼる。
1891(明治24)年と翌年、各400戸(計800戸)が極寒の地・旭川に屯田兵として入植している。ヒグマとの遭遇におびえながら、人力で大木を伐り倒し根株を取り除く過酷な労働だったことが伝えられている。
寒風・冷気を十分にさえぎることが難しい木造板張りの粗末な兵屋に暮らしながら、開拓・農作業・軍事教練に明け暮れた屯田兵の心の礎の一つに、と創建されたのが上川神社であった。1893年(明治26年)とされている。
《旭川村市街地における神社創始も、(中略)明治二十六年(一八九三)七月十五日とされている》。「新旭川市史第二巻 通史二」(2002年発行)は、そう記し、こう続ける。
《その創建された神社の場所は、旭川村市街予定地の「に通り」四丁目より七丁目の地先(後の宮下通五丁目より八丁目に接する忠別川沿いの地域)の小台地であって、義経台と通称されていた(このように呼ばれたいわれはつまびらかでないが、あるいはここにチャシ(砦状の遺構)があったといわれていることと、義経伝説とを関連づけて称されたものであろうか》
義経台は、先住民族であるアイヌの人たちが集う場所・チャシであったらしい。忠別川流域を見下ろすように当時は小高い丘陵で、全国各地に伝わる「源義経は〇〇〇に渡った」という伝説に由来して義経台と命名された、と巷間伝わる。
場所は義経台だが創始時期に二つの説
上川神社の創始の時期を巡っては二つの説がある。1893(明治26)年7月15日、神号を記した「標木」を建てて奉祀した日と、同年9月17日に仮社殿を建てて奉祭した日の二つだ。
「新旭川市史第二巻 通史二」は、この二つの説が併存することを認めた上で、こう結論付ける。1893年7月15日に9人の有志で標木を建立して奉祀したことを創始とし、同年9月17日に10人を発起人としてあらためて同所に仮社殿を建立して奉祭するに至った─と。
いずれにしても、場所は義経台に変わりはない。
1896(明治29)年、官設鉄道上川線の敷設が決まり、義経台はその路線敷地内となることから、上川神社は移転することになった。
1898年、上川神社は、現6条通・7条通の7.8丁目辺りに移転した。
わが世の春謳歌する中、惻隠のベクトル働く
鉄道工事に伴い、上川神社は移転し、義経台は崩され、ならされた。アイヌの人たちが、ときに祭祀の場として集う大切な丘陵でもあったろう。夢追い渡道し、厳しい開拓作業と軍事教練に明け暮れた屯田兵とその家族にとっても心の拠り所としての社(やしろ)があった。
何もなかったかのようにときは過ぎ、打ち捨てられた、かのように思えた。
高度経済成長真っ只中の1972(昭和47)年、全国初の恒久的歩行者天国「平和通買物公園」がオープンする。北都・旭川は〝わが世の春〟を謳歌する中で、旭川駅の裏手のかの地は、静かにたたずむかのようにひっそりとしていただろう。
そうした中、記者の想像だが、視界の隅に追いやられたとらえにくいものを見よう、かすれがちな小さき声に耳傾けよう─と惻隠のベクトルを働かせようという人たちが集い思いを一つにする。
坂東幸太郎・野村権作 有志たちが建立した
惻隠のベクトルは形あるものになったが、半世紀のときが過ぎ、今は無惨にも欠け・穴あき・傾いだ姿をさらす。
地上高2メートほどの四角い木碑の4側面に次のような文字が判読できる。
側面ごとに判読できる文字を以下に記す。▽古跡義経台 坂東幸太郎▽上川神社発祥之地 野村権作▽昭和四十八年五月 神楽自然保護会 旭川義経研究会▽由緒 ここ忠別川一帯四丁目より七丁目にわたり高台あり。義経台と称し古いチャシコツ(城跡で)、和人来旭以前は先住民族特にアイヌ集会の場所(一文字分判読できず)上川神社発祥の処(宮下通りの語源)でもあり鉄道駅建設のため高台は崩しならされ、その北端の現在地に明治三十一年七月十六日旭川駅が開かれた─。
文字は所々が風雪で薄れ見づらい。側面の一部は欠け、キツツキ類の野鳥の仕業と思われる穴があく。
記されている坂東幸太郎は、旭川市議会議長をを経て1924年の衆院選(当時・道4区選出)で初当選し、衆議院議員を連続9期務めたほか、1951年の旭川市長選で初当選し、旭川市長を1期務めた。旭川名誉市民(第1号)であり、勲二等旭日重光章を受章している。
野村権作は、神楽町長(当時)や道議会議員を務めた神楽地域の有力者として知られていた。
民の声に耳傾け、公的仕事を成してきた当時の旭川を地盤とした政治家坂東・野村の名前があることから見て、上川神社発祥と義経台の痕跡を残したい、という神楽地域住民らの強い願いが木碑建立へのベクトルになった、と考えるのが自然だ。
「木碑は河川法の専用許可を受けていない」
木碑から少し離れた忠別橋寄りには、2002年にあった旭川彫刻フェスタの出品作品を展示した彫刻公園がある。その中の山谷圭司氏の作品「三つの柱二つの門一つの場」の説明板(銘石)は▽~チャシコツ▽義経台▽1893 初代上川神社創建▽1898 官設鉄道上川線開通▽1920年代頃より通称サムライ部落▽1985 忠別橋公園整備─と記載する。山谷氏は、特別な何か、をこの地に感じたのかもしれない。
木碑は、一級河川の河川敷にあることから国土交通省旭川開発建設部の所管する土地にあると見るのが自然だ。木碑に記されている坂東・野村両氏はすでに故人であり、神楽自然保護会・旭川義経研究会の存否も定かではない。
河川敷を所有する国交省・旭川開建は「問い合わせの木碑は、河川法の専用許可を受けているものではないことが分かりました。存在自体を承知しておりませんでした。今後、設置者・設置の経緯を調査していきたい」と話している。
市内の文化財を所管する旭川市教委文化振興課も「旭川市が管理する木碑ではありませんが、どのような経緯で建立されたのかを含め調べることを検討したい」との考えを示す。
「もう少し日の目を見るようになれば」
「せっかく建てたのにほとんど一般の人の目につかない。気づいてもらえない。もう少し日の目を見るようになれば」
旭川の郷土史に深い関心を寄せる旭川市内に住む70代男性は、木碑のそばにある河川敷遊歩道から見えるようになれば、と願っている。
木碑を新しく整え、公園遊歩道を散策する人たちが気づきやすいように遊歩道脇に視線誘導標を設けてもいい。
費用対効果・経済効率を過剰に優先しがちな世の中は、華やかなものに目がいき、大きな声がとおりがちだ。53年前、忘れ去られたかのようにひっそりとたたずむかの地への惻隠のベクトルを働かせ坂東・野村両氏と神楽自然保護会・旭川義経研究会が建立した木碑は半生記を経て、欠け・穴あき・傾いた無惨な姿となって顧みられることもない。
無惨と感じるのは空間上に目に見える物質としての木碑ではない。見えにくいものに目をしばたかせ、かすれる小さき声に耳傾けようとする惻隠のベクトルを失った証しとしての心象が眼前に突きつけるからに違いない。

