旭川医大吉田晃敏氏 本誌に激白50分間!

 旭川医大では次期学長予定者の選考が粛々と進んだが、形式的には吉田晃敏氏がいまも学長を務めている。これまで約半年間、ほぼ完全な沈黙を守ってきたその吉田氏が本誌の電話取材に応じた。これまで溜めてきた思いを吐き出すかのように、約50分間にわたり語った。(記事は12月9日現在)

半年ぶりの反応
 12月2日夜、記者の携帯電話が鳴った。画面に表示された発信者名は「吉田学長 旭川医大」。吉田氏は約半年前に辞意を表明して以来、沈黙を守ってきた。次期学長予定者に選ばれた西川祐司氏が記者会見を開いたのは前日のこと。記者はこの半年間、何度か吉田氏へのコンタクトを試みたが、反応はなかった。同日の昼に電話を入れてメッセージを残したものの、半ば諦めていたため、吉田氏からのコールバックには驚いた。
 「吉田ですが」
 元気な口調に記者は思わず尋ねた。
 「久しぶりです。お元気ですか」
 「元気ですよ。めちゃくちゃ元気です」
 記者は十数年前から何度も吉田氏に取材している。まず近況を尋ねようとしたのだが、吉田氏のほうから切り出した。
 「学長選考について聞きたいんじゃないの?」
 そこから50分間、吉田氏はおそらくこの半年間、心の中にためていたであろう思いを吐き出すように本誌に語り続けた。以下はその概要だ。
 ─学長選考の結果が出たがどう思うか。
 吉田 あの僅差で学長を決定してしまうのは無謀。上位2人の間で決選投票をすべきだった。再投票をしなかったのは民主主義的でない。周囲からは「なぜ決選投票しないのか」と尋ねられるが、私は学長選考会議の委員ではないのでしょうがない。
 西川氏は副学長だったが、あの人は基礎研究で顕微鏡を覗いていた人。学問の世界では秀でているかもしれないが、大学の経営者として、小さなことから大きなことまで手を打つ能力があるかは疑問だ(以下、西川氏について厳しい言葉が続いたが、学長選考会議で西川氏が果たした役割が評価に影響していると思われること、西川氏を副学長に選んだのが他ならぬ吉田氏であることから、詳しくは触れない)。
 私が学長を務めた15年間、いろいろなことがあった。巨額の赤字を出したこともあったし、情報システムをめぐる訴訟に負けたこともあった。しかし、どれも乗り越えて、経営を安定させた。それが学長の仕事。経営能力は研究能力とは別の話だ。
 ─西川氏の記者会見を見たか。
 テレビや新聞で見た。吉田体制をまったく否定していた。これでは民主党と自民党の間で起きたような「政権交代」ではなく、従来のあり方をすべて否定する革命のようなものだ。

「地域医療に関わる」
 ─本誌を含め、多くの人が吉田氏に連絡を取ろうとしたが、反応がなかった。個人の近況を教えてほしい。孤立していたのではないか。
 とんでもない。大学教授、経済界、政界、多くの人がいまも支えてくれている。旭川医大の学長は15年間もやったのだからもう満足。これからは地域医療に関わりたい。眼科だけでなく、医療全体の話。いま地域医療は大きな課題を抱えている。具体的構想は近日中に明らかにする。
 ─酒や睡眠薬の問題は克服したのか。
 (笑って)辞表を出したらストレスが無くなったので酒は飲まなくなった。学長に選ばれた瞬間から15年間、強いストレスにさらされてきた。後任の学長も同じだと思う。
 ─注目を集めることが多かったが実は孤独だったのでは。
 もちろん孤独。学長に華やかさなんてなにもない。
 ─いまも時々キャンパスに姿を見せているとのことだが。
 私は辞表を提出したが、受理されていないからまだ学長。私の考えで迎えた「国際医療人枠」の学生の今後を考えないといけないし、また私個人の仕事もあるので、時々は大学に行っている。
 ─文部科学省の調査には応じているのか。
 もちろん応じている。「旭川医大はどうあるべきか」といった文科省の問いに答えている。私は「中央直結型」。学長になる前から東京の研究者や学者と関係を築いてきた。これから医大を率いていく人たちにこうした人脈がどれだけ大切なのかわかっているのか。
 ─北大医学部を含む他の大学との統合の可能性についてはどう思うか。
 正直に言えば、北大学長を名和豊春氏が務めていた頃(編集注=2017~2018年在任)、統合に向けて音頭を取るよう依頼されたことがある。私も賛成したが、まずは北大医学部と旭川医大にそれぞれどんな得意分野があるのか見極める必要があると考えていた。
また、私は八竹学長時代、他大学との統合に向けた交渉を任されており、北見工大には何度も通った。結局実現しなかったのは「旭川と北見では離れすぎている」との反対論のためだが、いま北見工大、帯広畜大、小樽商大が一つの国立大学法人を設立して統合しようとしている。当時の反対論はナンセンスだった。
 ─吉田氏も統合には反対だったはずだが。
 それは、首脳部で検討した結果、大学としては統合に反対ということになったから。文科省にもそう伝えたが、私は好条件なら合併もありうると考えている。

「独立」への関心薄れ
 吉田氏の一連の発言の中で最も注目すべきは、他大学との合併に反対ではなかったという点だろう。記者が医大の関係者や、医大を卒業した開業医に話を聞いても、統合やむなしと考える人が多く、強く反対する人は少数派。過去数年間に行われた医局再編で、かつて所属した医局が消滅した医師の中には、その時点で母校の今後への関心が薄れた人もいる。西川体制のもとで存在価値を示せなければ、旭川医大が北大医学部または北見工大など3校連合との統合に進む可能性もある。
 電話取材の最後に、吉田氏は念を押した。「ぼくはまだ終わっていない。これははっきり書いておいてくれよ」

表紙2201
この記事は月刊北海道経済2022年01月号に掲載されています。

医科大学あるのに旭川の〝精神科〟なぜ不足?

 ストレスフルな現代社会では、誰でも統合失調症、気分障害など精神的な病気のリスクを抱えている。ところが旭川市内では精神病の治療機関が他の道内都市と比べて不足しており、受診するまでに時間がかかることもある。その一因が精神科医の供給源となるはずの旭川医大の研究体制。本号が書店に並ぶころ、旭川医大では新しい学長が決まるが、新しい精神医学講座教授の人選も大切な仕事になる。

帯広苫小牧下回る
 旭川市内の精神障がい者の数は7854人。病類で分ければ統合失調症がこのうち2279人、気分障害(うつ病、そう病、双極性障害)が2527人に達する(2019年度)。コロナがまだ上陸していなかったこの年の旭川市内におけるインフルエンザの感染者数5470人と比較すれば、精神的な病気が市民にとり「身近な」問題であることがわかる。ちなみに、同年のうちに新たに報告のあった精神障がい者の数は、合計1034人。このうち統合失調症が132人、気分障害は296人だった。
 ところが、旭川ではこうした精神的な不調に対応する医療機関や医師の数が不足している。タウンページ2021年版(掲載データは同年2月現在)で旭川市内の病院・医院から「精神科」のジャンルに掲載されているものを探すと、その数は9ヵ所(近隣市町村の医療機関除く)。道内のほぼ同じ規模の都市と比較すれば、函館は8ヵ所、帯広市内は7ヵ所、苫小牧市は7ヵ所。これら4都市のなかで人口10万人あたりの精神科の数は旭川が2・7で最低、帯広の4・2に遠く及ばない。本誌は過去に何度か、個人や企業の平均所得で旭川がこれらの都市に追い抜かれたと報じてきたが、精神医療でも旭川は立ち遅れているようだ。
 ある市民が、旭川市内における精神医療機関の不足を物語るエピソードを紹介してくれた。「2年ほど前のことになるが、知人が精神的な不調に見舞われ、死にたいという衝動に駆られるようになった。すぐ精神科の受診を薦めたが、結局受診できたのは2週間経ってからだった。電話では、それまでは予約が入っているので来ても診ることができないと言われた。幸い、その知人はピンチを乗り切りいまも元気で暮らしているが、希死観念があっても順番待ちしなければならないのかと驚いた」
 基幹病院も精神科は手薄だ。旭川医大附属病院、市立旭川病院には精神科があるが、旭川赤十字病院と旭川厚生病院の精神科は休診中となっている。(独法)国立病院機構旭川医療センターには精神科がない。このうち厚生病院のウェブページには「医師不在のため休診中」と記されている。
 旭川は「医師のまち」と呼ばれる。旭川医大が附属病院で医療サービスを提供するだけでなく、旭川市内や道北・道東一円に対する医師の供給源となっている。他の地域よりも有利な位置にいるはずの旭川で、なぜ精神医療機関が不足しているのか。「その一因」と市内の医師が指摘するのが、旭川医科大学精神医学講座の研究体制だ。

前任は睡眠の専門家
 この講座では精神医学のエキスパートを多数養成しているのだが、一口に精神医学といってもその守備範囲は広い。現在、この講座は教授が不在なのだが、2020年度末まで講座を率いた元教授は睡眠障害の専門家だった。附属病院には道内唯一の「睡眠クリニック」も設けられている。講座の業績一覧を見ても、睡眠関連のものが目立つ。眠らない人は一人もいないから、この研究には学術的な意義があったのだろうが、問題はストレスフルな現代社会では、統合失調症、気分障害、そして高齢化社会で深刻化する認知症に対する医療サービスのニーズのほうがはるかに大きいということだった。
 では、いま精神医学講座はどうなっているのか。教授不在となり、昨年11月には後任教授の公募が行われた。ところが、当時は吉田晃敏学長が学内人事について絶対的な権限を握っており、(学長が興味を持たない分野を除き)学長のお気に入りになることが教授就任の第一条件だった。コロナとパワハラ問題で教授選考どころではなくなり、公募に応じた人がいたにもかかわらず新教授は選ばれなかった。医大関係者は「学長には何度も人選手続きを進めるよう進言したが聞き入れられなかった」と語る。
 その後、学長にからむ問題が進展したことから、仕切り直しで教授の公募が行われ、10月29日に公募が締め切られた。今後選考手続きが行われ、来年2月1日に新教授が着任する予定。今回の再公募を告知する文書の冒頭には、前回はなかった「超高齢社会における認知症対策やがん緩和医療等の社会ニーズに応えるための精神科領域の診療及び研究を指導し…」との文言が加えられている。社会ニーズに向き合う必要性を旭川医大としても認識しているということだろう。

中心街で増加の兆し
 なお、旭川医大では基礎研究部門の重要な一環であり、感染症の流行で注目が集まる微生物学講座でも教授不在の状態が続いている。精神医学講座と同様、微生物学講座でも昨年公募が行われたが、その後の選考手続きは進んでいなかった。こちらの講座についても仕切り直しで新しい教授の再公募が行われることになっている。
 旭川市内の中心部では今年、複数の精神科クリニックが誕生した。実は前述した人口あたりの比率は現時点ではやや高まっている。いまや統合失調症、気分障害といった心の病気は特別なものではなく、自身や家族が患う可能性は誰でもある。内科や耳鼻科と同様、気軽に受診できる環境を整えるためにも、精神医療機関の増加が待たれる。

表紙2112
この記事は月刊北海道経済2021年12月号に掲載されています。

衆院選道6区 勝利呼んだ東の農協対策

 候補者個人よりも、与党か野党かで投票先を決める政党選挙の色合いが強かった今回の衆院選道6区では、自民党公認の東国幹氏が圧勝した。この自民党の大勝利は、昭和の自民3派の時代から懸案とされてきた、旭川における「保守一本化」の課題に取り組む作業の総仕上げとも映るものだった。元来、保守勢力が根を張ってきた旭川だが、その根からようやく1本の太い〝幹〟が顔をのぞかせてきた。自民党の東氏が立憲民主党の西川将人氏を予想以上の大差で振り切った「東西決戦」を振り返ってみる。

自民勝利の結果は士別・旭川から伝染
 10月31日夜、投票箱のふたが閉まる午後8時を待っていたかのように全国の大手報道機関は、競って東の「当確」を打ち出した。もちろんまだ開票作業は何一つ進んでいない。それでも〝結果〟を予想できるのは緻密な取材・調査活動の賜物と敬意を表すところだが、陣営の動きを見て情勢をつかむことぐらいしかできない弱小の地元雑誌の見立てでも、この6区の新人対決の情勢を判断し優劣をつけることは難しいことではなかった。まずは得票結果から。

東 国幹(53) 128,670
西川 将人(52) 93,403
斉藤 忠行(30) 9,776

 自民公認の東は、立憲民主公認の西川に3万5000票以上の差をつけ振り切った。選挙区内有権者の約7割が集中する旭川だけで見ても、その差は約2万6000票で、得票数はほぼ6対4の割合だった。
 ひと月ほど前に行われた自民・今津寛介、立憲・笠木薫による旭川市長選でも、自民の今津は立憲の笠木に2万8000票以上の差をつけて勝利しており、この時も6対4の割合だった。また、旭川市長選より2週間早かった士別市長選でも自民の渡辺英次が立憲の松ヶ平哲幸を破り、得票の割合は渡辺5・5、松ヶ平4・5だった。
 この時期、伝染という言葉は不適切かもしれないが、今年9月に上川管内で行われた二つの市長選の結果がそのまま衆院6区の選挙戦に伝染したかのようにも感じられる。そしてその伝染はかなり高い確率で予知できた。それは、過去の選挙データによって示される歴史の波というか、人心のバイオリズムである。
 士別も旭川も6区も新人同士の戦いで、有権者が投票先を決める判断材料は少ない。いったいどの波に乗ればよいのか、それを判断する基準は自民か立憲かの二者択一しかなく、今回は自民が勝つ順番だった。それは地方選挙でよく見られる〝流れ〟のようなものである。

「いじめ問題」軽くみていた?
 政策を戦わすことが基本であるはずの選挙戦に、政策とは違った〝道具〟が使われていた。一番目立ったのは旭川市におけるいじめ問題を取り上げた西川候補への追及。この問題1点に絞って立候補したNHK党の斉藤忠行が街頭演説やSNSで前旭川市長の辞職を〝投げ出し〟と批判するのはわかるが、東陣営でも政策を訴えるのと同じくらいの時間を使い「いじめ問題の早期真相解明を」と今津寛介新旭川市長とともに訴え続けたのは紛れもなく西川批判ととれるものだった。
 確かに西川前市長には、追及される要素はある。しかし西川がこの問題に対して無策だったわけでもなく、市長として当たり前のことはやっていた。ただ、第三者委員会の調査の結論が出る前に市政を離れることになったのは、時機としてまずかった。旭川大学公立化、優佳良織工芸館に目が向きすぎたこともあって、社会問題になっていた女子中学生のいじめ問題を軽くみていたのかもしれない。
 他候補からの投げ出し批判が選挙結果にどう影響を与えたのか何とも言えないが、先の旭川市長選でNHKが行った出口調査では「いじめ問題も投票に考慮したか」を尋ねたところ、「大いに考慮した」が37%、「ある程度考慮した」が39%あったといい、実に7割を超える有権者が投票する際の判断材料の一つとしていたようだ。
 5週間前の市長選では西川の後継者となった笠木が、西川の残していったいじめ問題未解決という逆風にさらされていたことは明らかだが、衆院選でもその流れがより勢いを増して続いていたと言えるのではないか。選挙中の西川は「国において教育界のあり方、学校現場のあり方、教員の採用の問題など様々な面で検証し、改善していく」と抵抗するだけで精一杯の様子だった。
 敗北が決まった夜、西川選対本部長の佐々木隆博は「政策以外の選挙戦になったことが残念だった」と悔しさをにじませていた。

選挙巧者の東 農協対策が奏功
 東の大勝利にはいくつかの要因が考えられるが、冒頭にも書いた候補自身の要素もさることながら、政党を選ぶ「政党選挙」であったことの効果が大きかった。また、大票田旭川における保守一本化の実現、さらに今津時代にはあまり頼りがいのなかった選挙区管内23市町村の農協を完全に押えたことも計り知れない実利となった。
 上川管内の主要産業である農業。その農家関係者を束ねる農協は、革新系の農家組織とは異なる関係にあるものの、選挙戦では絶大な力を持つ存在となる。昨年8月から6区の自民党候補者となった東が最も力を入れて手掛けたのが農協の取り込み。ふらの農協組合長で上川地区13農協の束ね役でもある植﨑博行を連合後援会長に担ぎ上げた効果は結果を見れば明らかである。
 東のターゲットは初め、現職の衆議で周囲に「次もやる」と漏らしていた佐々木隆博だった。道議から国政転出をねらう東にとっては、長年にわたり農家との信頼関係を築いていた佐々木の牙城を切り崩すことが勝利を得るための必要条件でもあった。
 「佐々木さんはいい人だけど、野党だからね」という農民感情に、東は巧みに食い込んだ。途中で相手候補は都会派の西川に代わったが、西川が農協に入り込む余地はすでに残ってなかった。立憲民主が党農労の3軸の一つとして挙げる〝農〟の組織力も管内に張り巡らされた農協組織には及ばなかった。植﨑連合後援会長が唱える「上川管内から与党の代議士を」の声は農家はもちろん経済界からの共感も呼んだ。
 選挙中には「日が昇る東と日が沈む西、あなたはどちらを選びますか」といった東西決戦を茶化したようなフレーズも見かけたが、結局のところ、道議選3連続トップ当選の選挙巧者の東と、旭川経済界の保守一丸体制を実現させた陣営がつかみ取った大勝利だったといえるのではないか。
 「解散のある衆議院はいつ選挙があるかわからない。常在戦場のつもりで活動していく」─東の選挙戦は果てしなく続いていきそうだ。

表紙2112
この記事は月刊北海道経済2021年12月号に掲載されています。

創刊55周年 本誌の出版物

 株式会社北海道経済は月刊誌の制作に加え、適宜、単行本の発行も行ってきた。大手出版社のような全国発売はできないものの、地元の出版社として地域に根差した本を数々送り出してきた。出版物の内容とともにそれにまつわる人々、出来事などを紹介しながら55年間を振り返ってみる。

創刊20周年記念で観光ガイドブック発行
 1966(昭和41)年11月にスタートを切った当社は、まずは月刊誌の発行に専念した。もっとも、社内にはそれ以上のことができる余裕はなく、資金的にも自転車操業だった。誌面には企業紹介シリーズや連載小説も掲載しており、連載の区切りで単行本として発行することも考えられた。しかし、毎月1回の月刊誌を発行することで精一杯の状態が続き、、出版社に求められる幅広い文化事業の面ではきわめて不十分だった。
 昭和50年代に入り、本誌が通巻100号を越えたころからはいくらか余裕が出てきたこともあり、頼まれて「自費出版」のお手伝いをすることはできるようになっていた。とはいえ、会社が資金を出して単行本を発行し販売するというところまではいかなかった。
 初めて出版元となって制作、販売したのは1986(昭和61)年に月刊北海道経済創刊20周年記念として発行した旭川観光ガイドブック「ぐっと・るっきんぐ あさひかわ」だった。B6版サイズ(本誌の半分の大きさ)のコンパクトな作りで、全面カラー200ページのボリューム。
 旭川市内の歴史、文化、観光、味どころなど、マチの魅力を最大限に楽しむためのガイドブックで、市内の広告代理業者、印刷業者と協力しながら半年がかりで制作した。正直なところ編集作業は委託業者に丸投げしたようなものだったが、本誌創刊20周年記念という信用度も加味され、販売面では当時市内に40店以上あった書店が力を入れて店頭に並べてくれた。
 インターネットがまだ普及されていなかった時代で、この種の本の需要が高かったこともあり、出版事業としてはそれなりの成功を収めた。その後、定期的な発行も考えられたが、残念ながらそれっきりになっている。
 その代わりというわけでもないが、2006(平成18)年からは、年1回発行の「旭川グルメマップ」を出版している。市内で月刊旭川春秋を発行していた会社(檜山修社長)が手掛けていた出版事業を第20号から引き継いだもので、飲食店、みやげ品店を中心に旭川観光の手引きとなる内容を掲載、市内のホテル、旅館などに無償配布し、それを観光宿泊客にサービスで配布してもらうというシステムを取り入れた。
 その後、掲載範囲を美瑛、富良野にまで広げ現在に至っているが、今年発行するはずだった第34号はコロナ禍の影響もあり、出版を見合わせた。観光客の入り込みが戻り、発行を再開できる日が近いことを願っている。

旭川人名年鑑・人名録 いまや貴重な歴史本に?
 1980(昭和55)年、1992(平成4)年、1997(平成9)と3度にわたり発行したのが「旭川人名録」だった。最初のものは旭川開基90周年を記念して「旭川人名年鑑」のタイトルで発行した。主に政財界の旭川在住の人物を顔写真付きで掲載し、出身校や家族構成、趣味、公職を紹介した。
 そのころ、月刊あさひかわを発行していた会社(渡辺三子代表)が先発で小規模な紳士録を出していたが、当社のものはそれをさらに充実させた内容で、掲載人物も幅広い分野に及び、マチを動かしている人々がよくわかると好評を博した。
 2冊目、3冊目は「旭川人名録」と名称を変え、5年に一度改定する構想で、日ごろの資料集めを欠かさなかった。制作手法は、官公庁を含む各種団体、企業の役員ら約3000人に案内状を発送し、自分の履歴書を書くつもりで所定の項目に記入してもらい、顔写真を添えて送り返してもらうようにしたが、2000人近くから回答があり、きわめて内容の濃い人名録となった。
 月刊誌の発行を続けながらの制作作業で、少ない社員が悲鳴を上げる日々が半年間ほど続いたが、他都市では例を見ない中身の濃い人名録を作ることができた。
 マチは常に動いており、活躍する人々の顔ぶれも変わる。5年に一度は改訂版を発行する計画だったが、生年月日から自宅住所、電話番号、家族構成まで掲載されることに危険性を感じていた人もおり、さらに個人情報保護法の成立によって、個人の情報を集めて紹介することができなくなり、旭川人名録の制作は断念せざるを得なくなった。
 そのため、現存する最新の個人情報は25年前に発行したものとなり、その中身を見ると少なくとも5人に1人は他界されている。いまとなっては旭川市の貴重な歴史本と言えるかもしれない。

教育委員会と協力 旭川の歴史まんが
 当社出版物の中で、販売を目的に制作したのが「歴史まんが旭川100年」だった。旭川市が開村100年を迎えていた1990(平成2)年に、次代を担う子どもたちに旭川の生い立ちを知ってもらおうと、読みやすく、わかりやくするため、あえてまんが本にして発行した。いわば「旭川市史」の簡略漫画版である。
 対象とする読者を市内の小学生とし、社会科の副読本のようにして使ってもらいたいとの思いを込めて制作した。作・大沼克之、画・幡野由枝で、ともに旭川在住の人にお願いした。同時に教育委員会を通じて学校の先生方にも監修を依頼した。当時は、大手出版社が学習まんが「日本の歴史」シリーズの発行を始めていたこともあり、学校側も当社のまんが本の制作には強い関心を示してくれた。
 準備から完成まで1年近い期間を要したが、結果は予想を超える反響で、正式な副読本としての採用はならなかったが、各学校やPTAの理解を得て、大半の小学生が定価1200円の本を購入してくれる結果となった。
 その後、学校関係者の勧めもあって6年後には改訂版を出し、12年後の2002年には旭川市教育委員会が編集・監修する「歴史まんが 旭川物語」と体裁を変えて発行することになった。
 旭川で育った35歳くらいまでの市民なら、必ず一度はどこかでこのまんが本を読んでいるはずだ。もちろんその親たちも目を通しているはずで、手前みそで恐縮するが、読者数は、旭川で出版された本の中で最大のものと言えるのではないか。

販売好調だった「旭川周辺の生きものたち」
 月刊誌制作の合間を縫って出版の仕事も行っていた当社が、社内に出版事業部を設け、本気になって取り組んだのが1997(平成9)年1月に出版した「旭川周辺の生きものたち」だった。著者は旭川市立末広北小学校校長を最後に教員生活を終えた建脇宏安さん。
 建脇さんは長年にわたり市内や上川管内の小中学校で教鞭をとりながら、自ら野山を歩いて培った植物や昆虫の豊富な知識を子どもたちに伝えていた。撮りためた写真は膨大な数にのぼり、それを生かして一冊の本にまとめたいという依頼を受け、教育分野の出版をいくつか手掛けていた当社(出版事業部)が全力で発行の手助けを行った。
 A5版310ページで全ページカラーの体裁。旭川周辺で見られる植物(山菜・キノコ)や昆虫、動物を中心とする数多くの生きものを写真と解説文で紹介し、野山を歩く子どもたちが手に持ちながら身近な自然を学べるように工夫を凝らした。
 「野山がもっともっと楽しくなる本」として市内の書店に並べると、定価2000円のものが飛ぶような売れ行きで、2000部の在庫は発売から1年もたたないうちに品切れとなった。当時、山菜やキノコの全国対象の図鑑はいくつか出版されていたが、旭川周辺に絞ったものは初めてだったことも売れ行きに拍車をかけたようだ。
 その後何年も「あの本はもうないのか?」といった問い合わせが絶えなかったが、著者の意向もあって残念ながら再販は行っていない。

旭川の課題に切り込んだ「西田勲の10年100論」
 月刊北海道経済の巻頭言でもあった当社の西田勲社長(当時、現会長)が毎号執筆していた「自由論壇」(その後『今月の視点』と改題)の中から選りすぐったものを一冊にまとめて出版したのが「西田勲の10年100論」だった。
 1980(昭和55)年2月号の「100万人も夢ではない旭川市の人口」から始まり10年後の「負けて悔いあり五輪招致運動」までの100編を取り上げており、その中身は旭川や近郊のその時々の関心事を著者なりの切り口、語り口で提言しているものばかりを集めた。
旭川市が革新市政時代から保守市政に変わり、人口も35万人を超え、まだまだ成長が見込める時代だっただけに、行政や経済、医療、文化など各界にわたって考えるべきことが多かった。そうした身近な課題や問題を取り上げて張った論陣は、読者から喝采を浴びることも多かった。それらを集約したのがこの本で、当社の記録としての意味合いもあったが、書店に並べると予想以上の反応だった。
 当時の旭川商工会議所会頭の小檜山亨氏と優佳良織工芸館織元の木内綾氏が推薦文を寄せており、「取り上げる話題の適切さと掘り下げ方の鋭利さに驚く。全部の都市にみられる共通の課題を旭川に準用するという形ではなく、旭川に住む市民がわが街を変えるという視点が現実味のある提言となっている」(小檜山氏)、「私は北海道経済誌をいつも自由論壇から読み始める。読んだ後の爽快な気分は気持ち良いものである。イキのよさを支えているのは旭川を思う真情だと思う」(木内氏)。
 このお二人の寄せ書きが「西田勲の10年100論」の内容を物語っている。昭和時代の「徒然草」ともいえる内容で、出版した当社にとっても貴重な記録の一つである。

亀畑義彦教授の珠玉の名編3冊
「北の物語」「オリンピックの戦士たち」「小説旭川の百年」

 月刊北海道経済に連載した記事を連載終了後に一冊の本にしたものがいくつかある。代表的なものが「北の物語~戦後の旭川経済を築いた人々」(1988年3月)、「オリンピックの戦士たち~旭川冬季五輪招致に挑戦した市民たちのヒューマン・ストーリー」(1990年6月)、「小説旭川の百年~時ときめいて」(1994年10月)の3冊。いずれも著者は北海道教育大学旭川校教授(退職後に名誉教授)の亀畑義彦氏。
 亀畑氏は同校助教授時代から本誌へ数々の投稿を続けてくれた。経済学博士であり、主に旭川の経済界での動きを中心に執筆活動を展開したが、教育者の立場をいかんなく発揮し、実例をもとにした「若者の育て方」についても珠玉の作品が多かった。
 「北の物語」は戦後の旭川経済発展の礎となった旭一旭川魚菜市場(現キョクイチ)初代社長の筒井英樹氏、ホクト電球工業(現東芝ホクト電子)の創業者山本英一氏、旭川信用金庫初代理事長の西山勲氏の3人を中心に、時代を駆け抜けた経済人の姿を描いた実話をもとにした歴史小説。
 「オリンピックの戦士たち」は、1992年の冬季五輪を旭川で開催しようという全市民が一丸となった5年以上に及ぶ市民運動の様子を詳細に描いたもので、1984年2月に発足した旭川冬季オリンピック招致を考える会(西田勲会長=当社社長)がその後期成会へと規模を増し、さらに旭川市や市議会、商工会議所などを巻き込んだ招致委員会へと発展した市民運動の経緯をつぶさに記録した。
 1988年6月の国内候補都市一本化を図るJOC総会で長野に敗れ夢はかなわなかったが、旭川始まって以来の保守も革新もない、一つの共通の目的に向かって突き進む、正真正銘の市民運動があったことを後世に伝えようと亀畑氏が本誌に連載し、終了後に出版した。
 「小説旭川の百年」は、旭川の開拓期以来の歴史上の人物に焦点をあてたもので、亀畑氏が50歳のころから研究の合間を縫って書き進め、58歳で完成した。
 上川アイヌの首長クウチンコロから始まり、歴代の旭川市長(町長・区長)、商工会議所会頭はじめ、各界で功績を残した人物の姿を小説風につづった。市が発行する旭川市史とは違った読み物語で、旭川人の魂を感ずる内容。亀畑氏はあとがきの中で次のように書いている。
 「私が、売れもしないこの小説を書いた目的は何だったのか。最初は、生き生きと時めいて旭川を作り上げた人たちの大まかな百年の歴史を知りたいという漠然とした気持ちだった。それが次第に『会期百年を迎えた旭川が、開基二百年に向って歴史を刻む時に、やがて忘れ去られるであろう開拓期から今日の旭川を築き上げた人たちの真情を残しておきたい』というものに変わっていったのです」
 亀畑氏は当社の出版物以外にも数々の学術論文、啓蒙的著作を世に送り出しており、旭川医大の吉田晃敏学長との共著「遠隔医療」も残している。2012年5月30日に逝去され、遺作には「旭川西高3年B組」もある。

機会あれば今後も
 当社ではここに挙げた出版物のほか2008年に幕を下ろした㈱アサヒビルの54年間の歴史を振り返る記念誌などいくつかの企業の社史の編集にも携わってきた。旭川の政治、経済、文化と半世紀以上にわたり歩みを共にしてきた当社ならではの社会貢献と言ってもよいのではないか。
 インターネット全盛の時代に入り、紙文化の衰退傾向は目に見えているところだが、なくなることはないと思う。今後も適宜、紙の出版事業を続けていきたい。

表紙2112
この記事は月刊北海道経済2021年12月号に掲載されています。

市議補選で蝦名余裕のトップ当選

 3議席をめぐって4人が出馬した旭川市議会議員補欠選挙は自民党公認と推薦の2人、立憲民主党公認の1人が当選し、市議会会派の空席を元通りに埋めた。共産党は初の5議席目をねらったが夢はかなわなかった。これにより旭川市議会の会派構成は辞職した3人に代わるメンバーが元通りの数で決まり選挙前の状況を維持することとなった。

高橋・石田の3位争いだった
 旭川市議会自民党・市民会議の木下雅之、林祐作、民主・市民連合の宮崎アカネが道議補選への出馬を決めたことから市議会に3つの空席ができ、自民党公認の蝦名安信(38)、同党推薦の高橋英俊(53)、立憲民主党公認の野村パターソン和孝(37)、共産党公認の石田尚利(52)の4人の新人が出馬した。
 正式な立起表明は野村(8月11日)、蝦名(同17日)、石田(同23日)、高橋(9月10日)の順だったが、蝦名は2019年にはすでに次期市議選への出馬を決意し、補選の実施が濃厚となった今年7月には、勤務していた旭川空港ビルを辞職し、いち早く戦闘態勢に入っていた。
 候補者の顔ぶれが確定した時点で選挙の焦点は3位争いだった。大物政治家の秘書経験が長く、自民党旭川支部の期待を背負った蝦名と、組織選挙がお手の物の立憲民主が送り出した唯一の候補・野村の1位、2位は確実な情勢で、3位、4位を自民の高橋と共産の石田が争う構図となっていた。石田の得票目標は、過去の道議選で共産候補が獲得していた票数をどれだけ上回るかで、最大で2万9000票は可能な数字と考えていたようだ。過去には、共産の怪物と言われた萩原信宏(現銀座通内科クリニック院長)が道議選で2万5000票を超えたことがあったが、萩原の後を受けた真下紀子は2万票を超えられず、潜在的に共産は2万票が上限とみられていた。自民の高橋がこれを超えることができるかどうかが3位、4位争いの焦点となっていた。
 ある程度票が読める石田に比べ、高橋の得票は全くの未知数。現役の弁護士という特異な存在で話題性はあったが、一番遅い立起表明に加え、俗に選挙の〝三ばん〟といわれる三つの条件、地盤(組織)・看板(知名度)・かばん(資金力)もなく、自民党推薦という肩書だけが票集めのプラス材料だった。
 結果は高橋が当選。単純なことだが、石田の上限とみられていた2万票を上回る得票だったことが勝ちにつながった。しかし2人の勝敗の行方は投票箱のふたを開けてみなければわからず、勝った高橋、負けた石田、ともに開票日の夜中には天国と地獄のようなドラマがあった。

自民期待の星 蝦名の存在感
 蝦名のトップ当選は大方の予想通りだった。自民党旭川支部にとっても期待の星であり、将来的には政治家としてさらに上をねらえる大器。183㌢の長身でどこにいても存在感がある。政党のテコ入れに加え、JCやPTA、町内会など市民参加の活動にも取り組み、父親(信幸=旭川市議7期)が培ってきた選挙地盤からの応援も受け、隙のない選挙戦だった。1年半後の正規の市議選ではどういう体制づくりになるのか注目される。
 2位当選の野村パターソン和孝の得票は、立憲民主から1人だけの出馬だった割には予想を下回る結果だった。しかし、政党関係はなんとかまとめられたものの、自分の後援会組織はにわか作りで未成熟だった。それを考えれば、まずまずの得票だったといえるのかもしれないが、野村にとっては1年半後の本戦が本当の挑戦となる。

投票先決まらず際立った無効票
 今回の市議補選を総括すると、特徴的なのは無効投票の多さで、選挙戦における市民への浸透が足りなかったことがよくわかる。通常の市議選では白票などの無効票はせいぜい1000票なのだが、今回は5639票と際立った。
 投票率こそ前回2019年の本戦の41・30%を大きく上回る49・42%だったが、これはあくまでも市長選との相乗効果。3つの選挙が同時投票だったため、投票所へ足を運んだものの市議補選についてはだれに投票してよいものかわからず、何も書かずに投票箱に用紙を入れた人が100人中4人もいた。道議補選も同様の傾向だったが、市議補選については突出した。
 本来最も市民に身近なはずの市義会議員選挙。今回は市内全域が対象で、地域密着型の選挙戦でなかったことが白票の多さに見て取れる。

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この記事は月刊北海道経済2021年11月号に掲載されています。

旭川市長選で今津寛介氏当選

 西川将人(52)氏の国政転出に伴い、後継笠木薫前道議(立憲民主・国民民主・社民党推薦=64)と、再挑戦の今津寛介元衆院議員秘書(自民・公明党、維新、大地推薦=44)による一騎打ちが繰り広げられた旭川市長選(9月26日投開票)。激戦を制し「旭川新時代」の扉を開いたのは、今津氏だった。(文中敬称略)

 午後8時過ぎに早くも「当選確実」が報じられると大きな拍手に包まれ、沸き立つ今津選挙事務所(8条通7丁目)。その後、事務所内には続々と来賓が詰めかけ、今津が佳子夫人(47)を伴って9時35分ごろ姿を現わすと、支持者らとグータッチを交わしながら喜び合った。
 旭川商工会議所副会頭の荒井保明選対本部長は自身、15年前に行われた市長選で幹事長を務めたことに触れ、「西川市政の始まりのきっかけを作ってしまいましたが、雪辱を果たすことができました」と晴れやかな表情で語った。その上で、今津には公約をしっかり実現させ、旭川市政が抱える未解決な課題をクリアするため「見える形で実行に移してほしい」と呼びかけた。
 これに対し今津は深々と一礼し、「奇跡が起きました」と感極まった表情を浮かべながらも、「当選が目的ではありません」。選挙戦で訴えた公約を、スピード感を持って市民と共に進める決意を新たに、「これからが、本当の戦い」と気を引き締めた。公明党の寺島信寿道議は「公明党以外の選挙でこんなに力を入れたのは初めて。千載一遇のチャンスをものにした本当に嬉しい大勝利。新しい旭川の夜明けが到来しました」と熱く語った。
 投票が午後8時で締め切られた後、程なくして「今津当確」のニュースが笠木選挙事務所(1条通7丁目)内に流れると、居合わせた支持者50人ほどが呆気にとられ、沈痛な空気に包まれた。そして9時35分ごろに、落選が決まった笠木本人が登場。表情に悔しさをにじませながらも毅然とした姿勢を崩さなかった。
 中村彰利選対本部長は冒頭、「笠木さんに一票を投じていただいた方々に残念な結果を報告しなければならなくなったことをお詫びします」と深々と頭を下げ、こう結んだ。「結果は真摯に受け止め、50日間、多くの力強い支持をいただいたことに、お礼を申し上げます」。
 来たる衆院選に立候補を表明、笠木を後継指名した西川将人前市長は、「このような結果になったことを申し訳なく思っています」と言葉に覇気のない声で語った。
 これらを受け、笠木は開口一番、「お晩でございます」と支持者に呼びかけた。その上で「自分の力及ばず、こうした結果となったこと、申し訳なく思っています。ありがとうございました」。その後の記者会見では政策を争うのではなく、極端な「継続か変革か」という選択選挙になってしまったことを憂う様子だった。

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この記事は月刊北海道経済2021年11月号に掲載されています。

道内企業経営者の高齢化進む

 社会の高齢化が進むにつれ、企業経営者の平均年齢も右肩上がりに上昇している。「企業業績は社長の年齢に反比例する」との分析が気にかかる。

最高齢・学校教育
 厚労省が敬老の日にちなんで昨年9月20日に発表した日本の人口構成によると、65歳以上の高齢者数は3617万人で総人口に占める割合は28.7%となっている。今後の見通しでは、2025年に3657万人30.3%、2055年に3626万人39.4%に達する。都市部で急速に増加し、もともと高齢者の多い地方では緩やかに増加するとの予測が出ている。
 高齢化が進み労働人口が減少するのは日本の産業界にとって深刻な問題だが、企業経営者(理事長、組合長などを含む)もまた高齢化が進んでいる。
 東京商工リサーチ北海道支社情報部がこのほどまとめた「北海道社長の年齢」によると社長の平均年齢は62.60歳だった(20年12月31日時点)。調査を開始した2009年以降、右肩上がりで高齢化が進んでいる。年齢分布では、60代が31.91%、70代が30.43%。合わせて62%を超え、北海道の企業の3社に2社の社長が60代以上だ。
 同社では都道府県別の社長の平均年齢も集計しているが、それによると平均年齢が最も高いのは高知県の64.61歳で6年連続のトップ。次いで秋田県64.53歳、山形県63.96歳、岩手県63.90歳と続く。対して最も平均年齢が低かったのは広島県の61.23歳で、次ぐのが大阪府の61.25歳。厚労省が算出している「65歳以上の人口比率」をみると、高知県は全国2位、秋田県は1位、広島県は34位、大阪府は41位となっており、人口の高齢化と社長の平均年齢はリンクしている。
 62.60歳の北海道は47都道府県中 29位に位置している。
 北海道の社長の平均年齢を業種別にみると、幼稚園から大学、専修学校まで含む「学校教育」が最高の68.25歳だった。次いで農協や漁協など「協同組合」の67.18歳、「織物衣類身の回り品小売」の66.79歳。
 70代以上の社長が占める割合が最も高いのも「学校教育」で、半分以上の52.47%となっている。
 対して、社長の平均年齢が最も低いのは「無店舗小売業」の54.00歳。「情報サービス業」の57.76歳、「電気業」の58.93歳、「飲食店」の58.96歳と続いている。

高齢化で事業断念
 「北海道社長の年齢」の調査には気になるデータもまとめられている。社長年齢別増収比率だ。
 それによると、「増収」は社長30代以下の企業で59.88%と最も多く、年齢と反比例する形で、60代46.91%、70代以上45.25%と下がってくる。「減収」は、30代以下で34.58%、40代41.61%、50代45.68%、60代48.06%、70代以上47.59%だ。「70代以上は、赤字や連続赤字の割合が全世代で最も高く、社長の高齢化と業績不振には関連性がうかがえる」(東京商工リサーチ)。
 20年の北海道の新設法人数は4512社で、0.5%減とわずかだが前年を下回った。新型コロナウイルス感染拡大で経済活動が停滞したのが要因。一方、休廃業.解散は2225件。休廃業.解散の年齢分布では70代以上が57.66%と約6割を占める。代表者の高齢化が事業継続を断念する理由の一つと見られる。
 「北海道後継者不在率」の調査(20年12月発表)では、道内59.1%の企業で後継者が不在というリアルな実態が明らかになっている。「高齢社長に時間的猶予は少ない。ただし、ビジネスモデルや将来性によっては承継が難しいケースもあり廃業支援も必要になる。事業継続を断念した企業の退出と並行して、新規ビジネスを創出して起業が活発になれば地域経済の活性化がのぞめる」と東京商工リサーチでは話している。

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この記事は月刊北海道経済2021年10月号に掲載されています。

旭川医大病院 少年の死は防げなかったのか

 人間が担う医療に完璧を求めることはできない。時として人的なミスのために命が失われることもあるのも事実。大切なのは過ちを人として真摯に受け止め、再発を防ぎ、医療の安全性を高めるための努力だ。しかし、8月1日、旭川医大病院で15年間の短すぎる人生に幕を下ろした少年の家族が本誌に語った経緯から判断して、旭川医大が真摯に再発防止に取り組もうとしているのかは疑問だ。

病気に負けたわけじゃない
 K君が入院していた旭川医大付属病院の病室から、CT撮影のためにベッドに乗ったままの状態でエレベーターに載せられ降りていったのは8月1日(日曜日)の夜7時20分ごろのこと。心配な状況ではあったが、前日からのひどい痛みの理由を探る検査をようやくしてもらえることになったこと、それまで何度も「死ぬ病気ではない」と医師たちに太鼓判を押されていたことから、10分か20分すれば戻ってくるはずだと、両親は考えていた。予想に反して、30分、40分が経過しても、何の知らせもなかった。1時間が経とうとするとき、エレベーターの扉が開いた。中から出てきたのは沈痛な表情の担当医師。別室に案内した後、医師は淡々と両親に告げた。
 「心肺停止しました。いま蘇生を行っています」
 この時点で心肺停止から少なくとも30分の時間が経過しており、蘇生の見込みはゼロに近かった。夜11時11分に死亡宣告が行われた。
 前日の7月31日が15歳の誕生日だった。退院して中学校に再び通うことも、親友たちと再会することも、バスケットボール部に戻ることもかなわなかった。遺骨となったK君を見つめながら、両親は言う。「息子はがんばっていました。病気に負けたわけじゃない。それをみんなにわかってほしい」。

髄膜炎からは回復したが…
 今年の4月まで元気に中学校に通っていた。学校の健康診断で、尿から蛋白が検出され、検査のため入院した厚生病院で「SLE(全身性エリテマトーデス)」であることがわかり、設備や人材のそろっている旭川医大病院の小児科に5月10日に転院した。担当したのはN医師(講師)、Y医師(助教)、I医師(医員)の3人からなるチーム。不安を感じる両親を、医師たちは笑みを浮かべながら「SLEは死ぬ病気ではありません」と勇気づけた。

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今津vs笠木 保革伯仲の旭川市長選

 保革が拮抗する旭川の選挙情勢が、慌ただしくなってきた。現職市長の西川将人(52)氏の国政転出に伴う繰り上げ市長選では、後継笠木薫(64)元旭川市議会議長・前道議と、元衆院議員秘書の今津寛介氏(44)による一騎打ちの公算が濃厚だ。秋までに行われる衆院選からの玉突きで、市長選、道議補選、市議補選へと連なる前代未聞の「四重選挙」。その第一弾選挙が市長選で、笠木が「旭商OB3代目市長」誕生となるか。新生・自公で今津の保守市政奪還が実現するのか。(文中敬称略)

日本一「緑の回廊」構想
 「政治は動いている。しかも、生き物」。立憲民主党北海道第6区総支部の旭川ブロック定期大会(8月2日)の終了後、旭川市長選対策本部発足総会で支部代表を務める佐々木隆博衆議が語った。事に臨み、千変万化する政治情勢を実感を込めて、こう形容。西川の後継になることを決断した笠木薫に謝辞を送り、「現時点で最良最強の候補を選定した自負があり、新たなリーダーとして政治空白をつくることなく行政の長になってほしい」とも述べた。

笠木氏(左)と今津氏
 これを受け、勝負ネクタイを身につけた笠木は、「困った人を助けるのが、私の政治の原点」と襟元を正し、コロナに終止符を打ち、日常を取り戻さなければならないという気持ちの強さから出馬に至った経緯を説明した。約33万人の旭川市民には「33万通りの生き方があり、その全てが街の宝」。来年は市制施行100年の記念すべき年を迎え、攻めの市政をモットーに、旭川の新時代を切り開く。
 笠木の口癖は「旭川をいい街にしたい」。公立化される旭川大学の開学と運営、優佳良織工芸館の再活用、市立児童相談所の設置ほか、旭川空港の国際化といった西川市政が積み残した課題を継承する決意を示す。守りの市政にとどまらず、「緑の回廊・さんぽ道」と名づけた日本一の空間創造に思いをはせる。
 この「緑の回廊」とは、北海道遺産外国種見本林から旭橋まで5㌔ほどのベルト地帯を緑でつなぐチャレンジプロジェクト。見本林から愛の道(三浦綾子文学関連)、氷点通り、北彩都を経て、緑橋ななかまど通りや買物公園、さらに7条緑道から常磐公園、そして旭橋を結ぶ〝緑のシルクロード〟を構築しようというものだ。笠木は「この空間を散歩しながら、彫刻や文化に触れ心や体を癒し、地元ならではの美味しい食を味わうことができる空間を創造していきたい」。
 市役所の大胆な改革を進め、女性活躍の促進にも力を入れ、女性管理職の割合を増やし、象徴的な存在として旭川で初の女性副市長を実現させる考え。国政をめざす西川とスクラムを組み、市民目線で描く旭川の新たな未来図の合言葉は「ワンチーム旭川」。母校の旭川商業高校時代にハマったサッカーや、国鉄時代に培った「一人はみんなのために、みんなは一人のために」の精神で挑む。

政権与党と直結する政治
 これに対し、前回2018(平成30)年市長選に立候補し、現職の西川を相手に5万5302票を獲得したものの、善戦及ばず苦杯をなめたのが、今津寛介。敗戦後、ひたすら市民の声を聞くため、街頭に立つこと600回を超え、その間、「旭川を何とかしてほしい」との要望を受け止め継続中だ。
 防衛庁副長官を務めた父の今津寛元衆議、経済産業副大臣経験者の西銘恒三郎衆議(沖縄4区)の秘書をトータル20年にわたり携わってきた。地元有権者と国政をつなぐ窓口として奔走しながら、国会議員をはじめ、中央省庁、道内各首長などと直接やり取りできる人脈を築いてきたことは、大きな糧になっている。現在、まちづくり団体の一般社団法人「旭川ひとまちコミュニティ」代表理事。自民党旭川支部内の選考作業、党員投票を経て推薦候補に決まった。
 「今度こそ、保守市政を奪還させようじゃありませんか」。今津ひろすけ後援会事務所開き(7月27日)の席上、岩田谷隆会長(元旭川歯科医師会長)が支援者約250人に対し呼びかけた。公明党旭川総支部の寺島信寿支部長(道議)は「地域をつぶさに回れば回るほど今、コロナ禍で本当に政権与党と直結する政治の力が必要と実感」。さらに力を込めたのが、「旭川市が道北地域のリーダーとして新しい時代の新しいリーダーシップのため、保守市政を奪還する重要な選挙」との位置づけだ。
 経済界からの強い推薦で選対本部長に就任した荒井保明旭川商工会議所副会頭は、コロナ禍での選挙戦ならではの工夫の必要性を指摘。それでも、実効性ある方法の第一は〝お声がけ〟で「思いをしっかり伝えて下さい」と支援者らに諭すように告げた。かつて加藤礼一が西川に市長選で敗れた(2006年)際、選対の幹事長を務めた荒井の言葉には実感がにじむ。
 今津は街頭演説を通じて受けた声を市政に反映すべく、市民や専門家と話し合い政策をまとめる「旭川未来会議」の設置を公約に盛り込む。政策実現のため「国と歩調を合わせ地方創生交付金や補助金を獲得し、旭川を活性化したい」との思いからだ。国政、道政との情報共有や連携強化には、市役所内に「市政補佐官」(部課長級)を新設する考え。国や道から人材を受け入れる案も模索する。

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旭川に熱波「アサヒサウナ」

 サウナをこよなく愛する市民グループ「アサヒサウナ」(桐原和弘代表)。2019年に放送され、サウナブームの火付け役になった人気TVドラマ「サ道」(テレビ東京)には、この旭川市がサウナシティとして登場し話題となった。そんな時代の追い風を受け〝サウナ道〟をブームにとどまらず、サウナ文化として確立し、温浴施設の底上げやマチおこしにまで発展させたい思いを抱くのがアサヒサウナプロジェクトだ。

「蒸し風呂の日」に発足〝旭川の下町〟活性化へ
 サウナ好きを一般公募し、サウナに関する情報を共有したり、その魅力を普及する市民グループ「アサヒサウナ」。旭川を中心に帯広、札幌のほか、東京、長野など道内外にメンバーが点在し、増加傾向にある。昨年の6月4日、語呂合わせにちなんだ「蒸し風呂の日」に発足。買物公園通りに面した十字屋ビルの屋上、十勝岳温泉郷などでフィンランド式テントサウナで「ロウリュ」(フィンランド語で「蒸気」)を体験できる期間限定イベントを随時行ってきた。

桐原代表(右)と田中さん
 イベントでは「#ソラトサウナ」と称し、テント式のサウナを楽しんだり、旭川市内の寺院とのコラボ「#テラトサウナ」など、開催場所ごとに好評を得た。そんな取り組みが一つの形に結実したのが、6月に銀座商店街にオープンした「銀座サウナ」(3条通14丁目)。空き店舗を活用しマチおこしも兼ねた試みで、施設整備費はクラウドファンディングを通じて集まった金額(325万円)で賄った。
 その運営を担うのが、アサヒサウナのメンバー、田中朗嗣さんだ。7月に行われた北海道を元気にする粋な男子「エゾメン」を発掘するイベントの「エゾメンコンテスト」ヤング部門のグランプリ受賞者。アサヒサウナとしては銀座サウナを起点とし、銀座商店街だけでなく、周辺の高砂酒造や、旭川ラーメンの元祖ともされる蜂屋などの老舗、高架下の四条駅界隈などレトロで魅力的な場所が近隣に点在することから、これらを〝旭川の下町〟ととらえ、エリア一帯の活性化も目指している。
 田中さんは元々、八条プレジャー(昨年廃業)の常連だったが、馴染みの温浴施設への喪失感は大きく、その思いが銀座サウナ誕生の原動力にもなった。ドラマの「サ道」からは、「サウナと水風呂に繰り返し入るだけではなく、途中で休憩することで、よりサウナを楽しめることも知った」と実感を込める。「目標としているところは、サウナというキーワードを通じて好きな人はもちろん、サウナに興味がない人に向けて熱波を送りたい」。熱波師(日本サウナ熱波アウフグース協会公認)の資格も持ち、一過性で飽きられてしまいがちなブームに終わらせず日常の中に溶け込み定着する文化として、サウナ道の追求に意欲を燃やす。

旭山動物園にラーメン、これにサウナどころ?
 そんな熱波師のそばで、サウナ道の奥義を語ったのが、アサヒサウナ代表の桐原さんだ。「水風呂が苦手な方は多いですが、サウナで芯まで温めた後に水風呂に入ると、温度の膜が生成されて意外に入れますよ。たとえるなら〝水の羽衣〟を着たかのような感覚。これが出来れば、『ととのう』(神経が研ぎ澄まされた状態)は、すぐそこに。ストレスから解放され、頭がすっきりしますよ」。
 そもそも、桐原さんがサウナ道に開眼したのが、「ととのえ親方」と呼ばれサウナタレントとして名をはせるサウナ好きとの出会いから。桐原さんは元々水風呂も苦手だったが、ととのえ親方からサウナの入り方を伝授され、「こんな気持ち良くいいものがあるなら、この魅力を広げたい」と一念発起。アサヒサウナを設立することになった。
 昨年10月にはサウナ行脚とばかりに田中さんと5泊6日の日程で1都5県(東京、埼玉、千葉、神奈川、静岡、愛知)にまたがる名物施設めぐりを決行。途中〝サウナ界のゴッドファーザー〟が造る施設などをめぐりながら、サウナ親交を深めた。サウナ通の間では、サウナに目覚めるきっかけとなった最初の施設のことを「産湯」といった表現を用いているが、田中さんにとってサウナ行脚は、産湯の連続体験になったという。
 ちなみに、札幌には〝北の絶対王者〟とサウナーの間で呼ばれる名物サウナがあるそうだ。それぞれ熟練の熱波師が客のリクエストに応じ、「1、2、サウナー!」とタオルを使って」熱波を送る。
追加の〝おかわり熱波〟も、サウナーにとっては無上の一撃。その後の水風呂で体感する水の羽衣は、やがて「天使の羽衣」へとサウナーの間で称される至福の装備になる。
 血行がよくなり、全身に酸素と栄養が行き渡り、身体の細胞を元気づける日本由来の温泉とフィンランドが由来のサウナ。こうした至福のひとときを桐原さんは「ヒュッゲ」(デンマーク語で「自分を見つめ直す時間」)ともとらえ、観光面で「旭山動物園にラーメン、これにサウナを加え、認知をはかるための取り組みを進めていきたい」と語る。
 リラックスした状態で仲間と語り合うことも、サウナの楽しみ。フィンランド式のサウナハットをかぶり、サウナマットをお尻に敷き「ととのう」気分を満喫してみるのも、サウナどころならではの味わいだ。十勝岳温泉郷の白銀荘は〝北の聖地〟。旭岳や層雲峡の伸びしろも大で、アサヒサウナは旭川の温浴施設をめぐるサウナパスポートを近く作成する見通しだという。

表紙2109
この記事は月刊北海道経済2021年09月号に掲載されています。