旭川市庁舎建替えへ秒読み

 話が出るたびに「もっと市民要望が多い施設がある」などの意見が出て、先送りされてきた旭川市庁舎建て替え問題。今年7月に設置された西川市長の私的諮問機関「市庁舎整備検討市民懇話会」でもさぞやケンケンゴウゴウ、賛否が分かれるかと思われたが、意外やほぼ全員が建て替えに賛成で、新庁舎建設に前向きな論議が展開されている。市では市民アンケートの結果なども含めて意見集約を行う考えだが、建て替えの方針が正式決定するのは〝秒読み段階〟に入ってきたといえそうだ。

庁内結論「建替え」
市庁舎建替え01 市役所の主要部局が入居する総合庁舎は1958年の完成ということで、今年で〝満55歳〟を迎えた。誕生当時としては、建築技術の粋を集めた近代的な建物で、日本建築学会賞を受賞しており、歴史的・文化的価値も有しているが、老朽化と狭隘化は深刻だ。ただ、そんな付加価値もあってか、建て替え話が浮上するたびに「地震の少ない旭川市ではまだ使える。その前に建て替えるべき施設はある」との意見が出て新築計画が現実味を帯びることはなかった。
風向きが変わったのは1995年の阪神大震災。神戸という大規模地震の発生する可能性が限りなく低いといわれていた都市で、直下型の大震災が起きた。これを契機に旭川市でも総合庁舎の耐震診断を実施。結果、構造耐震指標(IS値)は3階部分で安全とされる0・6を大きく下回る0・004。最上階も0・288と判明し、万が一の大震災では倒壊の可能性があることが分かった。
これを受け、市では耐震や免震などの改修も含めた工事を想定し、旭川市庁舎建設整備基金を創設。しかし、市の懸案事項である駅周辺開発の事業費負担や、科学館(サイパル)、障害者福祉センター(おぴった)などの建設に多額の市費が必要になり、基金への積立は先送り。2011年度末の同基金の積立額は約4000万円にとどまっていた。
ところが、2年前の東日本大震災により、庁舎の崩壊が住民生活に多大な影響が出ることが分かった。特に、総合庁舎2階には、戸籍や税、国民健康保険などのデータが保管されているマシン室が設置されている。仮に庁舎が崩壊すれば、データが失われる可能性が高いため、耐震改修を含めた庁舎整備は緊急の課題として浮上してきた。
これを受け、市では庁内に検討グループを発足させて本格的な検討を開始。「現庁舎を改修する」、「他の建物を活用する」、「建て替える」の3つの手法について専門家からのヒアリングも実施した。結果、今年1月には庁内の意見として「建て替えが適当」とする判断を固め、最終報告とした。

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自民党の旭川市長選候補は誰だ?

 旭川市長選まで、あと1年。西川将人市長の3期目へ向けた出馬は確実とみられ、その対抗馬がささやかれる時期となった。中でも、自民党旭川支部(東国幹支部長)の動向が注目されるところ。11月1日に開かれた役員懇親会の席では、近く選考委員会を立ち上げ、市長選に向けて候補者を探る方針を明らかにした。(文中敬称略)

前回は三つ巴の戦い
現職の西川市長は、自治体のトップとしては物足りなさもあるが、可もなく不可もない手堅い市政運営が一定の評価を得ている。前回の市長選では、政権を担っていた民主党からの力強い後押しもあり、終始、有利な戦いを進めることができた。自民党では「不戦論」も出たことがあったが、急浮上したのが旭山動物園前園長・小菅正夫の立起話。ところが、小菅はまさかのリタイア、代わって自民は佐々木通彦を急きょ擁立し、土壇場で民主の西川、みんなの党の安住太伸を加えた三つ巴の戦いに持ち込んだ。
佐々木にとっては知名度の低さが弱点となった。結局は西川に大差をつけられて敗北。しかし、3年前の選挙は佐々木にとってはむしろ「顔見せ興行」のようなもの。次につながる選挙であって、開票日の敗北宣言でも「4年後を目指して頑張る」と決意表明している。
さて、注目されるのは1年後の選挙に向けて自民党旭川支部がどう動くか。この11月1日にロワジールホテル旭川で開かれた役員懇親会では、来年の市長選に向けた選考委員会を近く発足させ、候補者選びに力を入れていく意向を確認した。
同支部にとっての選択肢は3つ。「候補者を出す」「候補者を出さない」そして「相乗り」だ。

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贈収賄容疑で旭川市土木部課長と土木業者逮捕

 11月12日午後、贈収賄容疑で市土木部土木建設課の古川賢課長(51)と市内の土木業者、拓・飯沼建設㈱(永山7条17丁目)の加藤光一社長(41)の2人が逮捕された。市役所にとって1959年の部長、85年の係長、2001年の次長(いずれも現職)以来、4度目の不祥事発覚となった。任意の事情聴取から逮捕まで2週間以上かかったことから、噂される古川容疑者と現職のベテラン市議や市職員OB、複数の業者との関係など、今後、捜査が広範囲に及ぶ一大事件に発展する可能性もある。 (記事は11月12日現在)

Aランク目指し市幹部に接近
古川容疑者が旭川中央署で任意の事情聴取を受けたのは、10月下旬から。その後、11月上旬にかけて本誌が確認できただけで取調べは10回近くに及んでいる。当然、この課長は正常に職務を行なうことはできず、休んでいる状態。土木部幹部によると「10月28日、腰痛で有給を取りたいと電話があった。その後、逮捕される当日の朝まで、休日を除き毎日電話で『引き続き休む』と連絡が入っていた」という。
ある土木部OBは、今回の件で電話取材に応じてくれたが、「やっぱりか」とひと言つぶやき、少し間をおいて「彼はこれまで何度も業者との関係を疑われていた。ただ、同じ部署で働いていた職員だけにこれ以上は何も話せない」と電話を切った。
一方、金を贈ったと見られる加藤容疑者は、「10月上旬、警察が会社や社長の自宅へ家宅捜索に入り、かなりの資料が押収された」(同社をよく知る市内のある同業幹部)という。
拓・飯沼建設は市内永山に本社があり、主に道路の舗装工事を請け負っている。今年7月にはグループ内の拓建設工業と飯沼組を合併した。正社員と準社員を合わせると90人近い従業員を雇用しており、主な取引先は大手ゼネコンと、上川管内の中堅どころで、直近の年間売上高は約10億円。設立して10年余りの若い企業だが、千葉県市原市と福島県いわき市に営業所を持ち、道外にも進出している。一昨年には全国大手ゼネコンから震災で被害を受けた福島原発の汚染水処理事業を請け負い、2億7千万円の売り上げがあった。

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旭川市の「裏人事」 西川市長と加藤道議のパイプ役を配置

 「民主党が凋落する中で、自民党道政との太いパイプ作りが西川市政に必要だ」との声が、市役所、議会、そして市役所OBの間で渦巻いている。対応策として急浮上しているのが「道議会議長に就任した加藤礼一道議とのパイプ役の配置」。市役所内に 〝加藤番〟部長を置こうというものだが、すでに水面下でこの〝裏人事〟は進行している。

市長選で対決
西川市長は2006年、それまで衆院選、参院選を通じて挑戦し続けてきた国政への進出を方向転換し、市長選へと打って出た。それまでの選挙戦で知名度がアップしていたほか、前任の菅原功一市長に任期最終場面でさまざまな疑惑が浮上したことから、「クリーンな市政運営」を訴え、それが市民に支持された。
対抗馬となった加藤道議は、菅原市長が道議から市長へ転身したときに、市議から道議に鞍替え。つまり「菅原後継」として道議になったため〝菅原色〟を払拭できないまま市長選に突入。序盤は、市議・道議と政治経験の豊富な加藤道議が、政治経験のない西川氏より有利と見られたが、自民党の足並みの乱れのほか、「旭川出身の西川」に対し、「留萌出身の加藤」という微妙な市民感情も加わり、西川が千数百票差で初当選を飾った。
その後、加藤は道議に返り咲いた。市長選のしこりは少なからず残ったし、民主党を支持基盤とする西川市長とはその後もなにかと敵対関係にあるのが実情。市役所の幹部が加藤道議との関係修復に動いたこともあったようだが、目立った歩み寄りは見られていない。
それでも、民主党が国政で勢力を拡大し、自民党が〝傍流〟となっていた当時は、市政運営に大きな障害が出ることはなかった。
市民から多くの支持を得ている民主党をバックに、西川市長は選挙戦の公約でもあった市職員の法令遵守、いわゆる「コンプライアンス条例」を制定したほか、談合の噂が絶えなかった公共工事の入札を、従来の「指名競争」から「一般競争」へと変換を図ることで、公平性、透明性の確保へと舵を切った。また、市民との対話を重視し、市内各所で対話集会などを開催し、市政あるいは地域への住民要望を拾い集め、可能な限り実施する方向で対応した。これらの実績が評価されたのか、3年前の市長選では自民党候補を「ダブルスコア」で退ける圧勝。西川市政は順風満帆のなかで、再スタートを切ることになった。
市長人事で西川市長は、自民党を軸とする〝野党〟から、猛反撃を受けることになる。
副市長に抜てきしたのは、市職員組合の委員長出身で、民主党色を前面に打ち出したことが、自民党系市議などから〝総スカン〟を食うことになり、人事案件は撤回。西川市長の思惑は脆くも崩れ去った。

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ウッペツ川流域6地区で広がる水害懸念

 旭川市の市街地を縫うように流れるウッペツ川。この流域には、「雲龍柳(うんりゅうやなぎ)」の木が繁茂しており、さながらジャングル地帯。本州で今夏、相次いだ水害を受け、旭星西、北門、末広など流域6地区市民委員会の間で水害の懸念が広がっている。

花材として重宝
雲龍柳 ウッペツとは、アイヌ語で「肋骨、川」を意味する言葉。「ウッペツ川」はまさしく、嵐山の東側、近文市街地の西側を肋骨のような形を描いて流れ、石狩川に注いでいる。
これに対して雲龍柳は、中国原産のヤナギ科の植物。くねくね曲がった龍のような枝ぶりから〝ドラゴン柳〟とも呼ばれ、その野性味あふれる枝は、手を加えなくてもそれなりの造形になってしまい、水につける必要もないため、花材として重宝されている。
花を飾る際にも、力強さやボリュームを添えるのに役立ち、「まとめたり、丸めたり、いろんなことが出来るので幅広く楽しめる」などとガーデナーたちの間で好評だ。
大きいものになると、背丈が20㍍にもなる。水につけておくだけで発根し、生命力が強くて生長も早い。しかし、こうした特徴が逆に、今回のような水害の懸念材料になっている。

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庶民の台所たくしょく市場が来夏にも消失

 旭川の一等地にあり、庶民の台所として長年親しまれてきた「たくしょく市場(正式名称・拓殖小売市場)」(2条通8丁目右5号)が、来年夏にも取り壊されることが明らかになった。かつて〝市場のまち〟と呼ばれた旭川から、市場がことごとく姿を消していく中、昔の面影を今に伝える貴重な存在でもあっただけに、大変惜しまれる話だ。

ここにいれば生活に困らなかった」
「たくしょく市場」は1930年に開業。その名は、当初向かいにあった「北海道拓殖銀行旭川支店」に由来する。敷地面積は200坪。建物は、土地の所有者でもある水上木材が建設し、木造2階建てで一部3階建て。屋根面には、ガラス窓を配した出窓タイプの、いわゆる〝明かり採り〟があるのも特徴の一つだ。
たくしょく市場01 建物内は、通路をはさんで片側10戸間口ずつ等間隔に仕切られ、両側合わせて20戸間口になっている。開業当初は両側すべて埋め尽くされ、20軒でスタート。生鮮食品をはじめ、惣菜、靴を取り扱う店や食堂、刃物研ぎ屋など、さまざまな業種が軒を連ねた。
さんろく街がそばに控えたほか、中心街には旅館が二十数軒立ち並び、旅館や寿司屋、八百屋、居酒屋、精肉店などが主な得意先になっていた。立地が駅に近く、周辺には銭湯もあったことから、「ここにいれば、生活に困ることはなかった」と、古くからの店子たちは口をそろえる。
1912年に創業した「今津商店」は、当初は大八車に魚や干物などを載せ、市内住宅街を「引き売り」していた。最初の店舗として拓殖市場に40年に入店。以来、戦中、戦後、高度経済成長期、そして平成とこの市場を中心に商売を続けてきた。今津実社長(64)は「この市場は商売の原点」と語る。
たくしょく市場は、戦後から昭和30年代にかけて全盛期を迎えた。郊外から馬そりで買い物に来る人も多く、2条本通り側には馬そりがズラリ並んだ。人出が多いだけに万引きも多く、今津社長の祖母のヒデさんがタチの悪い万引き犯を見つけ、常磐公園まで追いかけて行ったこともあるという。
毎年6月の護国神社招魂祭では、全道から貸切バスで大勢の遺族たちが旭川に訪れ、それぞれ中心街の旅館に宿泊。この際、市場は旅館からの注文への対応に追われた。当時少年だった今津社長は「あのころの記憶が鮮明に残っており、おふくろが割烹着を身につけ、ウロコにまみれて働いていた姿が目に焼きついている」と懐かしむ。
当時を知る常連客は「パリパリの数の子に本物のキンキ、それにマグロも一級品。瀬戸物の岡持ちに入れた刺身の出前もあった。果物などは箱売りが多く、ここに来なければないものというのがあった」と振り返る。

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杉浦剛太郎氏の妻が道営団地でひと騒動

 2007年9月に完成した道営住宅宮下西団地(旭川市宮下通3丁目)。その団地の入居者で、10年前のサンライズビル問題で世間を騒がせた杉浦剛太郎氏の妻、みち代氏が、自治会運営で意見の食い違いがあった複数の入居者へ自治会役員を通じて圧力をかけ、退去要求を出す騒ぎとなった。これを不服とした入居者のひとりは旭川簡裁に調停を申し立て、最終的に入居者側に有利なかたちで和解したが、退去要求された別の入居者は心労で入院。自治会の異常な実態が明らかになった。

不可解な自治会の動き
宮下西住宅01 道営住宅宮下西団地は2004年、ユニバーサルデザインの視点を取り入れた内容に改訂された北海道営住宅設計指針に基づき、設計された最初の道営住宅。A、B、C(C棟は6階建、ほか2棟は12階建)の3棟からなる建物は、一体となり廊下を通じて行き来できるようになっており、エレベーターと階段を少なくしているのが特徴だ。戸数はA、B棟が各60戸、C棟は30戸で合計150戸になるが、中心市街地に近いことが評価されてか人気が高く、空きが出ることはほとんどない。
さて、今回の騒動の発端は、昨年10月下旬に行なわれた同団地の自治会臨時総会にさかのぼる。総会の前日、入居者のポストへ総会の内容が記された文書が投げ込まれた。その中身は「人命にかかわる重大な事件が発生した。明日はわが身と感じて欲しい。委任状を提出した方もなるべく出席していただきたい」という穏やかならぬ内容だった。
総会当日、出席した40人ほどの入居者の前では、冒頭で「重大な事件」について報告があった。それは、「ある入居者の車のタイヤのナットが緩んでいた。それに気がつかずに運転していると大事故につながる」というもので、それ以上詳しい話はなかった。そのあと、いくつかの報告を経て臨時総会は終了した。
次の臨時総会は11月4日に開かれたのだが、その総会前の10月30日、総会の内容を示す文書が全戸に配布された。その中に、「迷惑行為の常習犯」として入居している2世帯に退去を要求する書類が入っていた。さらに、退去要求に関しては、全戸の85%から賛同を得たことも記されていた。
自治会が住民を「追放」するのは異例だが、問題の2世帯は追放処分に値するような悪質な行為を働いたのだろうか。
本誌の取材に対し、ある入居者は声を潜めながらこう語る。「強いて理由を上げるとすれば、ひとりは一身上の都合により期半ばで役員を降りたこと、もうひとりは自治会に対して改善策を提案したことが、自治体の一部役員の逆鱗に触れたのではないか。改善策を提案した方は、自治会の集会では筋の通った話をするが、聞く人によってはややきつい感じがする話振りだった。しかし、それが気にさわったとしても、退去を求めるというのはひどすぎる」

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旭川市でも入札不調の異常事態

 公共工事の入札不調という異常事態が全国で多発しているが、旭川市でも8月27日に予定されていた「(仮称)旭川市立中央中学校A─2新築工事」が直前になって辞退者続出で不調に終わった。また同日予定されていた土木工事2件も応札者無しで不調。先行きの資材・労務費高騰リスクを抱える建設業界の「選別受注」の姿勢は今後の公共工事執行にも深刻な影響を与えそうだ。

躯体に続く内装
工事名は「旭川市立中央中学校A─2新築」。中心部3中学校─常盤、北都、聖園─統合計画の新校舎建設工事だ。
入札不調−画像02 旭川市立中央中学校の全体計画は、現常盤中の北側10条11丁目敷地面積約1万9500平方㍍に、今年度と来年度の2ヵ年計画で校舎と屋内体育館を新築するもの。総工費約28億円。2014年12月に完成、15年4月開校を目指している。
校舎、屋体ともに、すでに今年6月に躯体(本体)工事は入札を終えている。落札業者は、校舎A新築が高・廣野・多東共同企業体で落札金額3億7100万円、校舎B新築が新谷・畠山・小森共同企業体で3億2900万円。屋体A新築は荒井・東成・石田・永興共同企業体が4億5750万円で落札し、屋体B新築は橋本川島・吉宮・旭栄・宗田共同企業体が3億7700万円で取っている。業者の受注機会を増やすため、構造的に分離が可能なところで分けて発注しているためAとBとなっているが、校舎も屋体も建物は1棟。
8月27日に入札が行われたのは躯体工事に続く校舎内装のA、Bである。規模はAが鉄筋コンクリート4階建て(一部塔屋)3245平方㍍で、Bが鉄筋コンクリート4階建て3208平方㍍で、こちらは塔屋無し。

内装Bは高・廣野
内装A(工事名は中央中学校A─2新築)、内装B(工事名は中央中学校B─2新築)ともに設計金額が2億円超。1億5000万円を超える工事は、市の建築格付けA、B、CのうちA格付け業者が対象で、また見積もりに必要な日数も最低20日間必要となっている。このため市は1ヵ月前の7月26日に「市内業者による共同企業体での入札参加」の条件で公告を行った。
名乗りをあげたのはA、Bともに「荒井・東成」「新谷・畠山」「高・廣野」「タカハタ・田中」「橋本川島・吉宮」「盛永・谷脇」の6つの共同企業体。つまり、同じ顔ぶれ。業者の受注機会を増やすという考え方から校舎は分割発注されており、2つの工事を同一業者が受注することはできないが、両方の工事に入札参加するのは可能だ。
入札参加は郵送方式で、旭川市契約課宛に届いた各社見積もりを開札して落札業者が決定する。2つの工事のうち内装Bの方は入札日前に6共同企業体すべての見積りが到着。開札の結果、高・廣野が2億4230万円で落札した。

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旭川エクスビルが解体・売却を検討

 市内買物公園通りに面したファッションビル「旭川エクス」(1条通7丁目)が、今年11月に予定される改正耐震改修促進法の施行でビルの改修を迫られている。建物の老朽化でテナントが減少し、耐震化工事に必要な多額の費用の捻出は困難とみられ、ビルの解体・売却に向けた検討が進められている。2015年にはJR旭川駅直結のイオンモールが開業を予定しており、エクスビルの今後も合わせ、駅前の様相が一変する可能性も出てきた。

大型施設に激震
1981年5月以前に建設された商業施設やホテル、病院や学校など公共の施設の中で、3階建て以上および延べ床面積が50エクス00平方㍍以上の建物を対象にした改正耐震改修促進法が、今年11月から施行される。
対象となる建物の所有者に対しては、まずアンケート調査を行い、必要な場合に耐震診断を行う。この診断は対象となる建物に義務付けられており、診断の結果次第では建物の改修など必要な措置が求められる。所管行政庁から構造耐力上、主要な部分の地震に対する安全性について保安上著しく危険であると認められる建築物については建築基準法第10条第3項の規定に基づく命令が、損傷や腐食など劣化が進んで放置すれば保安上著しく危険となる恐れがあると認められる建築物については、同条第1項の規定に基づく勧告や、同条第2項の規定に基づく命令が下されることになる。
仮に、耐震改修の必要があると診断された場合、「改修方法として、鉄筋の柱で建物を強化するのが一般的だ。旭川市内でも、この方法で建物の外側や内側に柱を入れている建物はある。だが、不特定多数の人が出入りする商業ビルの場合、建物内外に柱を入れれば景観を損なう上に人の通行にも不便を感じる造りになってしまう。従って、現実問題として建物を解体する方向になってしまう。もちろん、エクスも耐震強化が必要となれば、解体するしか方法がないのではないか」(市内のある設計会社幹部)という。

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戦後の混乱期を象徴 旭川の「サムライ部落」

 かつて旭川市街と神楽町を結ぶ忠別橋上流の河川敷に「サムライ部落」と称される住宅群があった。住宅と呼ぶのもはばかられるような粗末な建物が多かったが、昭和20年代には最高で53世帯、約200人が暮らしていたという。先ごろ亡くなった歌手の藤圭子さんの一家も一時、ここで雨露をしのいでいたと言われるが、その〝集落〟ではどんな生活が営まれていたのか─。

記録に残っていない〝集落〟
初めに断っておくが、「サムライ部落」とはあくまでも当時の通称。役所では「厚生部落」と呼称されており、関西のいわゆる被差別部落とはまったく性格を異にする。今風に言えば、粗末ながらも居を構えるホームレスたちの小さな集落と言えるかもしれない。
サムライ部落と称されるものは、旭川のほか札幌や函館、小樽にもあった。一番知られているのが札幌白石地区の河川敷にあったもので、昭和初期から札幌冬季五輪が始まる40年代中頃まで150世帯ほどの集落を形成していた。
サムライ 歴史の中に現実に存在していながら、どこの街でも記録としてはほとんど残っていない。旭川でも旧旭川市史に若干触れられているだけで、本誌が今回この記事を書くために、市に「サムライ部落に関する記録はないか」と問い合わせてみたところ、「関根さんの著書に書かれているくらいで、その他の記録はない」との回答だった。
その「関根さんの著書」とは、元旭川市議会議長の関根正次氏がまとめた「旭川の橋」(旭川叢書、1991年刊)のことで、「忠別橋」の項には次のように記されている。
─(サムライ部落は)大正末期か昭和初期には既に相当数の人家があったようで、さらに戦後は引き揚げてきて住居に困った気の毒な人たちも住みつき、昭和29年には38世帯が生活を営んでいたようで、ちょっとした町内会並みであった。
河川改修や美観上の問題から昭和39年5月に、旭川市の斡旋で17戸が他の地区へ移転、残りは新築等自力で転居していった。しかし、その直後から2軒の自動車部品販売業者が住みつき始め、ポンコツ車を山積みしていた時期が続いた。
昭和58年7月に、忠別橋(4代目)の拡幅工事着工に伴い、この2業者も行政指導に従って移転していった。山積みのポンコツ車は、粗大ごみ扱いで河川管理者の北海道開発局によって処分された。
今は見事な河川公園となっている河川敷であるが、実に今昔の感に耐えない─
著者の関根氏に話を聞いてみたが、この記述は主に忠別橋の近隣に住む人への聞き取りでまとめたもので、その時もやはり記録らしいものは残っていなかったという。なぜか、行政にさえ文献はないというサムライ部落。このまま旭川の歴史から忘れ去られていくのだろうか。

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