旭川市でも入札不調の異常事態

 公共工事の入札不調という異常事態が全国で多発しているが、旭川市でも8月27日に予定されていた「(仮称)旭川市立中央中学校A─2新築工事」が直前になって辞退者続出で不調に終わった。また同日予定されていた土木工事2件も応札者無しで不調。先行きの資材・労務費高騰リスクを抱える建設業界の「選別受注」の姿勢は今後の公共工事執行にも深刻な影響を与えそうだ。

躯体に続く内装
工事名は「旭川市立中央中学校A─2新築」。中心部3中学校─常盤、北都、聖園─統合計画の新校舎建設工事だ。
入札不調−画像02 旭川市立中央中学校の全体計画は、現常盤中の北側10条11丁目敷地面積約1万9500平方㍍に、今年度と来年度の2ヵ年計画で校舎と屋内体育館を新築するもの。総工費約28億円。2014年12月に完成、15年4月開校を目指している。
校舎、屋体ともに、すでに今年6月に躯体(本体)工事は入札を終えている。落札業者は、校舎A新築が高・廣野・多東共同企業体で落札金額3億7100万円、校舎B新築が新谷・畠山・小森共同企業体で3億2900万円。屋体A新築は荒井・東成・石田・永興共同企業体が4億5750万円で落札し、屋体B新築は橋本川島・吉宮・旭栄・宗田共同企業体が3億7700万円で取っている。業者の受注機会を増やすため、構造的に分離が可能なところで分けて発注しているためAとBとなっているが、校舎も屋体も建物は1棟。
8月27日に入札が行われたのは躯体工事に続く校舎内装のA、Bである。規模はAが鉄筋コンクリート4階建て(一部塔屋)3245平方㍍で、Bが鉄筋コンクリート4階建て3208平方㍍で、こちらは塔屋無し。

内装Bは高・廣野
内装A(工事名は中央中学校A─2新築)、内装B(工事名は中央中学校B─2新築)ともに設計金額が2億円超。1億5000万円を超える工事は、市の建築格付けA、B、CのうちA格付け業者が対象で、また見積もりに必要な日数も最低20日間必要となっている。このため市は1ヵ月前の7月26日に「市内業者による共同企業体での入札参加」の条件で公告を行った。
名乗りをあげたのはA、Bともに「荒井・東成」「新谷・畠山」「高・廣野」「タカハタ・田中」「橋本川島・吉宮」「盛永・谷脇」の6つの共同企業体。つまり、同じ顔ぶれ。業者の受注機会を増やすという考え方から校舎は分割発注されており、2つの工事を同一業者が受注することはできないが、両方の工事に入札参加するのは可能だ。
入札参加は郵送方式で、旭川市契約課宛に届いた各社見積もりを開札して落札業者が決定する。2つの工事のうち内装Bの方は入札日前に6共同企業体すべての見積りが到着。開札の結果、高・廣野が2億4230万円で落札した。

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旭川エクスビルが解体・売却を検討

 市内買物公園通りに面したファッションビル「旭川エクス」(1条通7丁目)が、今年11月に予定される改正耐震改修促進法の施行でビルの改修を迫られている。建物の老朽化でテナントが減少し、耐震化工事に必要な多額の費用の捻出は困難とみられ、ビルの解体・売却に向けた検討が進められている。2015年にはJR旭川駅直結のイオンモールが開業を予定しており、エクスビルの今後も合わせ、駅前の様相が一変する可能性も出てきた。

大型施設に激震
1981年5月以前に建設された商業施設やホテル、病院や学校など公共の施設の中で、3階建て以上および延べ床面積が50エクス00平方㍍以上の建物を対象にした改正耐震改修促進法が、今年11月から施行される。
対象となる建物の所有者に対しては、まずアンケート調査を行い、必要な場合に耐震診断を行う。この診断は対象となる建物に義務付けられており、診断の結果次第では建物の改修など必要な措置が求められる。所管行政庁から構造耐力上、主要な部分の地震に対する安全性について保安上著しく危険であると認められる建築物については建築基準法第10条第3項の規定に基づく命令が、損傷や腐食など劣化が進んで放置すれば保安上著しく危険となる恐れがあると認められる建築物については、同条第1項の規定に基づく勧告や、同条第2項の規定に基づく命令が下されることになる。
仮に、耐震改修の必要があると診断された場合、「改修方法として、鉄筋の柱で建物を強化するのが一般的だ。旭川市内でも、この方法で建物の外側や内側に柱を入れている建物はある。だが、不特定多数の人が出入りする商業ビルの場合、建物内外に柱を入れれば景観を損なう上に人の通行にも不便を感じる造りになってしまう。従って、現実問題として建物を解体する方向になってしまう。もちろん、エクスも耐震強化が必要となれば、解体するしか方法がないのではないか」(市内のある設計会社幹部)という。

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戦後の混乱期を象徴 旭川の「サムライ部落」

 かつて旭川市街と神楽町を結ぶ忠別橋上流の河川敷に「サムライ部落」と称される住宅群があった。住宅と呼ぶのもはばかられるような粗末な建物が多かったが、昭和20年代には最高で53世帯、約200人が暮らしていたという。先ごろ亡くなった歌手の藤圭子さんの一家も一時、ここで雨露をしのいでいたと言われるが、その〝集落〟ではどんな生活が営まれていたのか─。

記録に残っていない〝集落〟
初めに断っておくが、「サムライ部落」とはあくまでも当時の通称。役所では「厚生部落」と呼称されており、関西のいわゆる被差別部落とはまったく性格を異にする。今風に言えば、粗末ながらも居を構えるホームレスたちの小さな集落と言えるかもしれない。
サムライ部落と称されるものは、旭川のほか札幌や函館、小樽にもあった。一番知られているのが札幌白石地区の河川敷にあったもので、昭和初期から札幌冬季五輪が始まる40年代中頃まで150世帯ほどの集落を形成していた。
サムライ 歴史の中に現実に存在していながら、どこの街でも記録としてはほとんど残っていない。旭川でも旧旭川市史に若干触れられているだけで、本誌が今回この記事を書くために、市に「サムライ部落に関する記録はないか」と問い合わせてみたところ、「関根さんの著書に書かれているくらいで、その他の記録はない」との回答だった。
その「関根さんの著書」とは、元旭川市議会議長の関根正次氏がまとめた「旭川の橋」(旭川叢書、1991年刊)のことで、「忠別橋」の項には次のように記されている。
─(サムライ部落は)大正末期か昭和初期には既に相当数の人家があったようで、さらに戦後は引き揚げてきて住居に困った気の毒な人たちも住みつき、昭和29年には38世帯が生活を営んでいたようで、ちょっとした町内会並みであった。
河川改修や美観上の問題から昭和39年5月に、旭川市の斡旋で17戸が他の地区へ移転、残りは新築等自力で転居していった。しかし、その直後から2軒の自動車部品販売業者が住みつき始め、ポンコツ車を山積みしていた時期が続いた。
昭和58年7月に、忠別橋(4代目)の拡幅工事着工に伴い、この2業者も行政指導に従って移転していった。山積みのポンコツ車は、粗大ごみ扱いで河川管理者の北海道開発局によって処分された。
今は見事な河川公園となっている河川敷であるが、実に今昔の感に耐えない─
著者の関根氏に話を聞いてみたが、この記述は主に忠別橋の近隣に住む人への聞き取りでまとめたもので、その時もやはり記録らしいものは残っていなかったという。なぜか、行政にさえ文献はないというサムライ部落。このまま旭川の歴史から忘れ去られていくのだろうか。

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藤圭子さん、旭川で過ごした少女時代の光と影

 清楚なルックスと「恨み節」とも呼ばれるハスキーな歌声で人気を集めた歌手の藤圭子さん(旧姓・阿部純子、享年62)が8月22日、衝撃的な死をとげた。「圭子の夢は夜ひらく」などのヒット曲で1970年代に一世を風靡した彼女は、多感な少女時代を旭川で過ごした。薄幸の女性のイメージで、独特の哀愁をにじませた昭和の歌姫に、この旭川の地はどんな影響を与えたのだろうか。

美談はない
藤圭子さんは8月22日朝、東京・西新宿にある28階建て高層マンションの13階の一室から、黒っぽいTシャツに短パン姿で飛び降り、搬送された病院で亡くなった。現場の西新宿は、デビュー当時、藤さんが活動拠点にしていた思い出の地でもあった。
近年、表舞台から遠ざかっていた藤さんは今年3月、藤さんを世に送り出した育ての親でもある作詞家の石坂まさをさん(享年71)が亡くなった際にも葬儀に姿を見せず、消息が不明。奇しくも、8月23日に都内で「石坂さんを偲ぶ会」が開かれる、その前日に旅立ってしまった。
故人の遺志により、知人、友人の面会は受け付けず、葬儀は営まれなかった。火葬のみを行い、親族だけで荼毘(だび)に付す形となった。
藤さんの訃報をテレビのニュースで知った旭川市神居町の長井孝之さん(70)は次の日、神居神社の境内に一人たたずんだ。「誰が何と言おうと大ファン」という長井さんは、藤さんが小学生のときに、神社で行われた歌謡大会で見事優勝を飾った際の彼女の面影を求めて「あの日」と同じ場所に立った。
「神居祭り」の一環として実施された歌謡大会は、土俵の上に設置されたステージで繰り広げられ、藤さんは継ぎはぎだらけの服装で美空ひばりの「りんご追分」を熱唱。その姿を境内のトドマツに寄りかかりながら、じっと見ていた長井さんは「この子は絶対にプロの歌手になる」と、その場で確信したという。
神居祭りは平成に入ってから、「ふるさとカムイふれあいフェスティバル」と名前を変えているが、毎年9月1日に実施。ここ10年以上、祭りの日に雨が降ったことはなかったというが、今年その日、イベントの終盤に雨が降り始め「圭子の涙雨か?」と話題になった。
同フェスティバルの実行委員長、石坂辰義さんは「藤圭子がここで育ったことは、地域の自慢で尊敬の念もあるが、あの子のことを語り出すと、美談といえるものはなく、同情心ばかり湧いてくる。小さなときから大人の顔をしており、歌はピカイチだったが、祭りの浴衣は模様なんだか、汚れの染みなんだか分からないような粗末な恰好をしていた」。
祭りに参加したある神居町の住民は「周りから持ち上げられ、サムライ部落で育った日銭生活から、いっぺんに花形スターになってしまったため、そのジレンマに陥り自ら命を絶ってしまったのではないか」と今回の訃報をとらえる。
神居中の同窓会長、上楽(じょうらく)隆利さん(71)は、藤さんが中学生のときに神居神社の踊り場で歌った姿が印象的で「顔もきれいだし、歌も上手だったから、しっかり見た」。父親の国二郎さんは、浪曲歌手としてだけでは食べていけず左官の仕事もしており、農閑期には「私も一緒に仕事をしたことがある」と当時を振り返る。

7歳から流し
藤圭子 藤さんは1951年、岩手県一関市で地方まわりの浪曲歌手だった父・松平国二郎さん(本名・阿部壮)と、目が不自由な三味線奏者の母・竹山澄子さん(同・阿部澄子)との間に、巡業の途中、3人きょうだいの末っ子として生まれた。
一家は、藤さんが生後まもなく渡道。3歳のときに旭川に移り住んだ。生活は苦しく、道内や東北を中心に旅回りをし、祭りや炭鉱、寺の本堂、旧家の大広間などで歌をうたい、その日暮らしをしていた。
仕事がないときは、長女に乳飲み子の藤さんを背負わせ、澄子さんは三味線を抱え、国二郎さんは長男・博さん(のちの歌手・藤三郎)の手を引き風呂敷包みを背負いながら、一軒一軒営業のために農家をまわった。
忠別橋たもとのサムライ部落で生活していた際には、「冬、下駄で忠別川の氷を割って、おしめを洗っていた」と当時の様子を知る人は話す。
やがて藤さんも家族を支えるため、7歳ごろから両親と一緒に演歌の流しを始めた。マイナス20度の厳寒の折でも、膝まで雪に埋もれながら、何時間も歩き、寺の軒先や床下で寝ることもあった。
藤さんは小学校を何ヵ所か転校したが、大有小4年のときの担任だった小田栄一郎さん(81)は、同校に編入してくる際、在学証明書を一度に4、5枚も重ねて提出してきたことにまず驚かされる。
旭町にあった住まいは、畳もなく、床がむき出しになった状態で、裸電球が一つぶら下がっていたにすぎない。それでも家族5人寄り添いながら暮らしていた。
近くに住んでいた小林芳子さん(87)は、長男の三郎さんと藤さんが納豆や豆腐を売り歩いていた姿を記憶。殿村真紀子さん(64)は「自分から明るくあいさつしてくることもあれば、声をかけても何もしゃべらないことがあり、あのころから躁鬱の気があったかもしれない」と振り返る。
貧しさのせいか、ある年のクリスマス、近くの菓子店で姉妹2人そろってケーキをごっそり「拝借」してしまったことは、知る人ぞ知る語り草になっている。
遠足など費用のかかる学校行事はすべて欠席。服装は一年中、穴のあいた同じものを着てくるほど生活が困っていた様子で、靴もゴムの底が「カッパカッパ」と音を立て、取れそうだった。

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宝くじ「幸運の女神」が堂前宝くじ店を訪問

宝くじファンへの幸運と夢の橋わたし役として活躍する「幸運の女神」が7月19日に来旭。高額宝くじの名所として全国的に知られる堂前たばこ店(旭川市5条通14丁目)でキャンペーン活動を行った。
幸運の女神は初代から数えて34代目。今年度は1192人から6人の美女たちが選ばれ、全国各地で行われている宝くじに関する各種イベントや抽選会での司会アシスタントを務めている。
この日、同店を訪れたのは兵庫県出身の宇野名都美さん。宇野さんはドリームジャンボ宝くじのキャンペーンでみずほ銀行和歌山支店を訪れ、同支店始まって以来の1等当選者を出したラッキーガール。大安吉日のこの日は、1等・前後賞合わせて5億円が当たる「サマージャンボ宝くじ」と宝くじ史上最多の2000万円の当選本数が450本という「2000万サマー」を購入する人たちが次々と訪れ、白地に鮮やかなマリンブルーのラインが入ったキャンペーン衣装に身を包んだ宇野さんは一人ひとりに「当たりますように」と笑顔で声をかけながらPR。
キャンペーンは午前9時半から同11時までの1時間半にわたって行われ、この機会にあやかろうと幸運の女神目当てに訪れる宝くじファンも大勢来店し、握手や写真撮影を求めたり、購入した宝くじを宇野さんに撫でてもらう人たちの姿で賑わった。

北彩都花火大会、後援認めなかった市の「不可解」

 人材派遣業道内大手の㈱アスクゲート(札幌市、斉藤三寛社長)が中心になり、8月上旬開催を計画していた旭川花火大会が中止になった。旭川市観光課が公共性に乏しいことと、関係機関との調整が不十分として後援名義の使用を不承認したことが中止の理由だが、大会に使用する予定だった土地を所有する旭川河川事務所と旭川市駅周辺課や、旭川中央署、JRなど関係機関は、開催に向けて前向きな姿勢だったことから、市の対応にいらぬ噂が飛び交っている。

いきなり「不承認」
アスクゲートが中心になって開催を計画していた旭川花火大会は、JR旭川駅南側を流れる忠別川の両岸を利用する予定だった。この土地は、駅側を旭川市、神楽側を国が所有する。管理するのは、市が駅周辺課、国は旭川開発建設部公物管理課。国の場合、今回のように短期間の使用は、旭川河川事務所が使用許可を出す決まりになっている。そのほか、開催に向けて花火の使用や観客の安全性が基準に満たしているかどうかを判断する警察と、混雑する駅を管理するJRも開催の是非を問う役割を持っている。
旭川花火大会実行委員会は、手始めに今年2月から8月3日に開催する予定の計画案を関係機関へ提出した。その後、関係機関との調整を進め6月上旬、市や旭川開発建設部、旭川中央署、JR、旭川商工会議所、警備会社、花火業者らが旭川中央署に集まり、大会開催に向けた協議を行った。実行委は改めてその場で、忠別川河川敷で花火大会を開催したいことを関係機関に伝えた。
ところが7月上旬、今度はアスクゲート旭川支店で先ほどの関係機関を集めて行なわれた会合で、協議を始める前に市観光課の職員から「市は、実行委から依頼のあった8月3日開催予定の花火大会の後援名義使用に対して、不承認とする」との発表があった。その理由はさておき、協議を始める前に市が不承認としたことで、協議するまでもなく解散となり、集まった面々は面食らってしまった。
市が不承認とした理由を要約すると、花火大会の日時と予定している場所は、旭川夏まつりの開催期間中で既存の催しへの影響がある。また、実施に向けた関係機関との調整が不十分であるためとしている。この判断は、会合の2日前(7月1日)に、市駅周辺課と旭川開発建設部と協議した上で下したとしている。それに異議を唱えた実行委は「協議した関係機関に、JRと警察が含まれていないのはおかしいのではないか。両者とも重要な役割があるはずだ。この文書は訂正して改めて提出してほしい」と詰め寄った。それに対し観光課の職員は「両者に意見を聞かなかったことは反省している。ただし、この文書は公文書のため、改めて書き換えることができない」と苦しい説明をしたという。

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ダイイチ、ヨーカ堂提携でどう変わるスーパー勢力図

 道内中堅食品スーパーのダイイチ(帯広)と総合スーパー・イトーヨーカドーを展開するイトーヨーカ堂(東京)が資本・業務提携した。低価格競争がどこよりも熾烈な旭川で苦戦を強いられていた両者のタッグでスーパー勢力図は塗りかわるのか。撤退、転出のうわさが絶えないイトーヨーカドー旭川店はどうなるのか、気になるところ。

驚きだが不思議ではない
「十勝を地盤とする食品スーパー中堅のダイイチが、イトーヨーカ堂と資本・業務提携する。道内最大手のアークスを軸に大手の市場寡占化が進むなか、全国大手との連携で生き残りを図る」─7月24日の第一報は一般市民にとって初耳、驚きの情報だったが、スーパー業界では、ダイイチを核にどんな組み合わせの提携が実現しても不思議ではない、想定内の出来事だったようだ。

というのは、1年ほど前、芦別に本社を置き道央圏で店舗展開するフードD(㈱豊月が運営)と札幌圏中心の北雄ラッキー、それにダイイチの3社が提携する、合併へ向けた話し合いが進んでいるとの情報がスーパー業界に流れた。実際、3社の間で前向きな検討がなされたようである。しかし、それぞれが描くビジョンが合わずに〝破談〟となった。するとその直後、今度はもっと大きな提携話、ダイイチが大手と話し合いに入ったといわれていたのである。その相手はイトーヨーカ堂だった。
1958年に㈱帯広フードセンターとして創業したダイイチは、㈱第一スーパーを経て01年に現社名となっている。帯広市やその近郊を主に旭川市、札幌市などに出店。2000年にジャスダック店頭公開、09年㈱オーケーを連結小会社化し、11年には同じ帯広のスーパーいちまると資本・業務提携をしている。

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詐欺事件で犠牲になった上宮寺が10年かけて再興

 03年4月に発覚した市庁移転問題(サンライズビル問題)をきっかけに設置された旭川市議会百条委員会で、市内神居にある聖徳山上宮寺の敷地内に高齢者優良賃貸住宅(高優賃)を建設する計画が問題視された。画策した首謀者らの失敗によりその計画は頓挫したが、その後、同寺の堀切尚道住職が死去して10年以上も廃寺同然の状態が今日まで続いていた。ところが今年に入り、尚道氏の妻や檀家らが協力して移転に向け動き出した。長く納骨堂に放置されていた遺骨も、ようやくきちんと供養されることになりそうだ。

見るも無残な有様
聖徳山上宮寺は、1922年(大正11年)8月、堀切広道氏が市内10条10丁目に聖徳太子鑽(さん)仰の目的で上宮教会を設立したことから始まっている。その後、市内宮下通、現在ある市内神居1条1丁目へと移転を繰り返してきた。
ところが、13年前に先代の堀切尚道住職が死去した。その妻、堀切千恵子氏が住職として寺を管理していたが、女手ひとつではままならず、ほとんど廃寺の状態になっていた。本堂の納骨堂に納められていた遺骨およそ50体(現在は檀家が減り20数体程度)も、放置された状態が長く続いていた。年々少なくなっているとはいえ檀家からは、その行く末が不安視されていた。
同寺の近くを走る国道12号に架かる旭川大橋の欄干から見ると、寺の屋根はトタン板が剥がれ、見るも無残な姿をさらけ出している。屋根中央にそびえたつ相輪も心なしか寂しさを漂わせている。「寺本体が古くなり、相輪を支える土台も心配。もし倒れるようなことがあり周辺の方々に迷惑をかけることがあったら大変だ」(堀切千恵子住職)
寺の境内も普段から人の出入りがない様子で、本堂に入る崩れた階段や、締め切ったままの庫裡はみすぼらしい。
そこで、今年に入り現住職の堀切千恵子氏が、この寺の本山、真宗誠照寺派誠照寺(じょうしょうじ・福井県鯖江市)へ、移転を含めた寺の再興を申し出た。誠照寺によると「千恵子氏は、前住職の尚道氏が亡くなった後、得度して住職を引き継いだ。そして、今年に入り何度か移転を含めた相談を受けていた」という。

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黄色いリンゴ 有望品種に位置づけ

 旭川市は、今年度から「果樹産地強化支援事業」をスタートさせた。黄色い品種をはじめ8種のリンゴなどを〝有望品種〟と位置づけ、その導入を市が支援するというものだ。助成の対象を果樹に絞ったのは今回が初めて。「果樹には人を呼び込める魅力があり、まちのイメージアップにもつながる」と生産者の取り組みをバックアップする試みで、「『果樹のある街・旭川』として市民に愛される産地づくり」を目指す。

有望品種をピックアップ
旭川における果樹栽培は1892年、上川御料地内に設けられた果樹園で各種果樹が試験的に栽培されたことが始まりとされる。
その後、神居、神楽地区に開拓者がリンゴを植えたものの、凍害のために実を結ばなかった。1907年に入り、神居古潭に植えたリンゴの中に適した品種があったため栽培面積が拡大し、しだいに産地が形成された。ピーク時の昭和20年代には、旭川市内に果樹園が40数軒あった。
現在、旭川における観光果樹の中心品目とされるのがサクランボ。もともとは自家用で、防風林代わりに植えられていたが、昭和40年代に販売用として植栽が進んだ。とりわけ神居産サクランボは知名度があり、関西方面で人気だ。
一方、市内における果樹の栽培面積は減少の一途をたどり、現在、リンゴの24㌶をはじめ、サクランボが23㌶、ナシ5㌶、ブドウ1㌶、プルーン・スモモが1・2㌶、その他(ブルーベリー、ウメなど)で合わせて57・8㌶。
 深川や増毛、余市などの例が示すように、果樹はまちおこしの一翼を担い、まちの魅力を高める農産物として評価されている。しかし、旭川では他の農産物に比べ、産地規模が小さいだけでなく、市民からの認知度も低い。
旭川の果樹生産農家は、それぞれ独自の品種を植栽しており、「旭川はこれ」という特徴的な品種がないのが実情。まとまった収量を確保できず、若木が多く、栽培面積あたりの生産量も少ない。
リンゴの生産農家は現在、神居町や東旭川など市内で7軒。1軒あたり20品種のリンゴを栽培し、多いところでは50種類も栽培している農家がある。それぞれ直売所やリンゴ狩りなどの軒先販売を中心に経営してきたが、JAを通じた市場出荷を一部行っているケースもある。
そんな中で、「リンゴの北限」をキャッチフレーズに、組織ぐるみで果樹生産事業に取り組む増毛町の気概にも触発され、旭川の果実生産者たちが「産地づくりに向けて共同で取り組み、品種を絞り込んで旭川ならではのブランドをつくっていこう」と一念発起した。
産地としての競争力を高めるべく、旭川市果樹協会(事務局・市農業振興課)が主体となり、着手することになったのが、今回の「果樹産地強化支援事業」だ。予算規模は約230万円と決して多くはない。ただ、市がこうした団体の事務局を担当するというのは異例の措置ともいえ、積極的な姿勢がうかがえる。

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生き残りかけ再開発に挑む銀座商店街

 郊外の大型商業施設に押され衰退している旭川市内の商店街。その中で、銀座商店街が生き残りをかけて再開発に向け動き出した。まだ再開発を支援するコーディネーターを招いた勉強会を2度行なったに過ぎないが、ほとんどの地権者は前向きな姿勢で、活力ある商店街の構築を模索している。

明治末期から栄えた老舗の商店街
 銀座商店街がある場所は、明治末期にはすでに街が形成され、1909年(明治42年)に現在、銀ビルがある場所に大黒座(後に錦座、松竹座、銀映座と改称)が建設された。18年には、市内で初となる市場、第一市場が開設され、市民の台所として親しまれてきた。都会性を強調する買物公園がある平和通商店街とは一線を画し、下町情緒を売り物として、鮮魚や青果を中心に新鮮な食材を求め、年末には買物客でごった返す。ただ、全国の商店街同様、近年は人通りが少なくなり、今では高齢者が利用者のほとんどを占める商店街となっている。
そこで、市内のある設計会社と建設業者が、同商店街の地権者を対象に全国組織の再開発コーディネーターを呼んで、今年3、5月の2度にわたり「3条・4条14丁目、15丁目周辺再開発計画勉強会」と銘打ったセミナーを開催した。3月25日に行われた1回目の勉強会には10人程度の参加だったが、地権者側からリクエストがあり、5月21日の2回目は50人余りの地権者のうち、31人が勉強会に参加する熱の入りようだった。
「すぐに再開発に取りかかるために行なったわけではないが、地権者の気持ちは前向きで、現状を何とかして変えたいという意気込みが伝わってきた」(市内のある設計会社幹部)という。

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