医科大学あるのに旭川の〝精神科〟なぜ不足?

 ストレスフルな現代社会では、誰でも統合失調症、気分障害など精神的な病気のリスクを抱えている。ところが旭川市内では精神病の治療機関が他の道内都市と比べて不足しており、受診するまでに時間がかかることもある。その一因が精神科医の供給源となるはずの旭川医大の研究体制。本号が書店に並ぶころ、旭川医大では新しい学長が決まるが、新しい精神医学講座教授の人選も大切な仕事になる。

帯広苫小牧下回る
 旭川市内の精神障がい者の数は7854人。病類で分ければ統合失調症がこのうち2279人、気分障害(うつ病、そう病、双極性障害)が2527人に達する(2019年度)。コロナがまだ上陸していなかったこの年の旭川市内におけるインフルエンザの感染者数5470人と比較すれば、精神的な病気が市民にとり「身近な」問題であることがわかる。ちなみに、同年のうちに新たに報告のあった精神障がい者の数は、合計1034人。このうち統合失調症が132人、気分障害は296人だった。
 ところが、旭川ではこうした精神的な不調に対応する医療機関や医師の数が不足している。タウンページ2021年版(掲載データは同年2月現在)で旭川市内の病院・医院から「精神科」のジャンルに掲載されているものを探すと、その数は9ヵ所(近隣市町村の医療機関除く)。道内のほぼ同じ規模の都市と比較すれば、函館は8ヵ所、帯広市内は7ヵ所、苫小牧市は7ヵ所。これら4都市のなかで人口10万人あたりの精神科の数は旭川が2・7で最低、帯広の4・2に遠く及ばない。本誌は過去に何度か、個人や企業の平均所得で旭川がこれらの都市に追い抜かれたと報じてきたが、精神医療でも旭川は立ち遅れているようだ。
 ある市民が、旭川市内における精神医療機関の不足を物語るエピソードを紹介してくれた。「2年ほど前のことになるが、知人が精神的な不調に見舞われ、死にたいという衝動に駆られるようになった。すぐ精神科の受診を薦めたが、結局受診できたのは2週間経ってからだった。電話では、それまでは予約が入っているので来ても診ることができないと言われた。幸い、その知人はピンチを乗り切りいまも元気で暮らしているが、希死観念があっても順番待ちしなければならないのかと驚いた」
 基幹病院も精神科は手薄だ。旭川医大附属病院、市立旭川病院には精神科があるが、旭川赤十字病院と旭川厚生病院の精神科は休診中となっている。(独法)国立病院機構旭川医療センターには精神科がない。このうち厚生病院のウェブページには「医師不在のため休診中」と記されている。
 旭川は「医師のまち」と呼ばれる。旭川医大が附属病院で医療サービスを提供するだけでなく、旭川市内や道北・道東一円に対する医師の供給源となっている。他の地域よりも有利な位置にいるはずの旭川で、なぜ精神医療機関が不足しているのか。「その一因」と市内の医師が指摘するのが、旭川医科大学精神医学講座の研究体制だ。

前任は睡眠の専門家
 この講座では精神医学のエキスパートを多数養成しているのだが、一口に精神医学といってもその守備範囲は広い。現在、この講座は教授が不在なのだが、2020年度末まで講座を率いた元教授は睡眠障害の専門家だった。附属病院には道内唯一の「睡眠クリニック」も設けられている。講座の業績一覧を見ても、睡眠関連のものが目立つ。眠らない人は一人もいないから、この研究には学術的な意義があったのだろうが、問題はストレスフルな現代社会では、統合失調症、気分障害、そして高齢化社会で深刻化する認知症に対する医療サービスのニーズのほうがはるかに大きいということだった。
 では、いま精神医学講座はどうなっているのか。教授不在となり、昨年11月には後任教授の公募が行われた。ところが、当時は吉田晃敏学長が学内人事について絶対的な権限を握っており、(学長が興味を持たない分野を除き)学長のお気に入りになることが教授就任の第一条件だった。コロナとパワハラ問題で教授選考どころではなくなり、公募に応じた人がいたにもかかわらず新教授は選ばれなかった。医大関係者は「学長には何度も人選手続きを進めるよう進言したが聞き入れられなかった」と語る。
 その後、学長にからむ問題が進展したことから、仕切り直しで教授の公募が行われ、10月29日に公募が締め切られた。今後選考手続きが行われ、来年2月1日に新教授が着任する予定。今回の再公募を告知する文書の冒頭には、前回はなかった「超高齢社会における認知症対策やがん緩和医療等の社会ニーズに応えるための精神科領域の診療及び研究を指導し…」との文言が加えられている。社会ニーズに向き合う必要性を旭川医大としても認識しているということだろう。

中心街で増加の兆し
 なお、旭川医大では基礎研究部門の重要な一環であり、感染症の流行で注目が集まる微生物学講座でも教授不在の状態が続いている。精神医学講座と同様、微生物学講座でも昨年公募が行われたが、その後の選考手続きは進んでいなかった。こちらの講座についても仕切り直しで新しい教授の再公募が行われることになっている。
 旭川市内の中心部では今年、複数の精神科クリニックが誕生した。実は前述した人口あたりの比率は現時点ではやや高まっている。いまや統合失調症、気分障害といった心の病気は特別なものではなく、自身や家族が患う可能性は誰でもある。内科や耳鼻科と同様、気軽に受診できる環境を整えるためにも、精神医療機関の増加が待たれる。

表紙2112
この記事は月刊北海道経済2021年12月号に掲載されています。

衆院選道6区 勝利呼んだ東の農協対策

 候補者個人よりも、与党か野党かで投票先を決める政党選挙の色合いが強かった今回の衆院選道6区では、自民党公認の東国幹氏が圧勝した。この自民党の大勝利は、昭和の自民3派の時代から懸案とされてきた、旭川における「保守一本化」の課題に取り組む作業の総仕上げとも映るものだった。元来、保守勢力が根を張ってきた旭川だが、その根からようやく1本の太い〝幹〟が顔をのぞかせてきた。自民党の東氏が立憲民主党の西川将人氏を予想以上の大差で振り切った「東西決戦」を振り返ってみる。

自民勝利の結果は士別・旭川から伝染
 10月31日夜、投票箱のふたが閉まる午後8時を待っていたかのように全国の大手報道機関は、競って東の「当確」を打ち出した。もちろんまだ開票作業は何一つ進んでいない。それでも〝結果〟を予想できるのは緻密な取材・調査活動の賜物と敬意を表すところだが、陣営の動きを見て情勢をつかむことぐらいしかできない弱小の地元雑誌の見立てでも、この6区の新人対決の情勢を判断し優劣をつけることは難しいことではなかった。まずは得票結果から。

東 国幹(53) 128,670
西川 将人(52) 93,403
斉藤 忠行(30) 9,776

 自民公認の東は、立憲民主公認の西川に3万5000票以上の差をつけ振り切った。選挙区内有権者の約7割が集中する旭川だけで見ても、その差は約2万6000票で、得票数はほぼ6対4の割合だった。
 ひと月ほど前に行われた自民・今津寛介、立憲・笠木薫による旭川市長選でも、自民の今津は立憲の笠木に2万8000票以上の差をつけて勝利しており、この時も6対4の割合だった。また、旭川市長選より2週間早かった士別市長選でも自民の渡辺英次が立憲の松ヶ平哲幸を破り、得票の割合は渡辺5・5、松ヶ平4・5だった。
 この時期、伝染という言葉は不適切かもしれないが、今年9月に上川管内で行われた二つの市長選の結果がそのまま衆院6区の選挙戦に伝染したかのようにも感じられる。そしてその伝染はかなり高い確率で予知できた。それは、過去の選挙データによって示される歴史の波というか、人心のバイオリズムである。
 士別も旭川も6区も新人同士の戦いで、有権者が投票先を決める判断材料は少ない。いったいどの波に乗ればよいのか、それを判断する基準は自民か立憲かの二者択一しかなく、今回は自民が勝つ順番だった。それは地方選挙でよく見られる〝流れ〟のようなものである。

「いじめ問題」軽くみていた?
 政策を戦わすことが基本であるはずの選挙戦に、政策とは違った〝道具〟が使われていた。一番目立ったのは旭川市におけるいじめ問題を取り上げた西川候補への追及。この問題1点に絞って立候補したNHK党の斉藤忠行が街頭演説やSNSで前旭川市長の辞職を〝投げ出し〟と批判するのはわかるが、東陣営でも政策を訴えるのと同じくらいの時間を使い「いじめ問題の早期真相解明を」と今津寛介新旭川市長とともに訴え続けたのは紛れもなく西川批判ととれるものだった。
 確かに西川前市長には、追及される要素はある。しかし西川がこの問題に対して無策だったわけでもなく、市長として当たり前のことはやっていた。ただ、第三者委員会の調査の結論が出る前に市政を離れることになったのは、時機としてまずかった。旭川大学公立化、優佳良織工芸館に目が向きすぎたこともあって、社会問題になっていた女子中学生のいじめ問題を軽くみていたのかもしれない。
 他候補からの投げ出し批判が選挙結果にどう影響を与えたのか何とも言えないが、先の旭川市長選でNHKが行った出口調査では「いじめ問題も投票に考慮したか」を尋ねたところ、「大いに考慮した」が37%、「ある程度考慮した」が39%あったといい、実に7割を超える有権者が投票する際の判断材料の一つとしていたようだ。
 5週間前の市長選では西川の後継者となった笠木が、西川の残していったいじめ問題未解決という逆風にさらされていたことは明らかだが、衆院選でもその流れがより勢いを増して続いていたと言えるのではないか。選挙中の西川は「国において教育界のあり方、学校現場のあり方、教員の採用の問題など様々な面で検証し、改善していく」と抵抗するだけで精一杯の様子だった。
 敗北が決まった夜、西川選対本部長の佐々木隆博は「政策以外の選挙戦になったことが残念だった」と悔しさをにじませていた。

選挙巧者の東 農協対策が奏功
 東の大勝利にはいくつかの要因が考えられるが、冒頭にも書いた候補自身の要素もさることながら、政党を選ぶ「政党選挙」であったことの効果が大きかった。また、大票田旭川における保守一本化の実現、さらに今津時代にはあまり頼りがいのなかった選挙区管内23市町村の農協を完全に押えたことも計り知れない実利となった。
 上川管内の主要産業である農業。その農家関係者を束ねる農協は、革新系の農家組織とは異なる関係にあるものの、選挙戦では絶大な力を持つ存在となる。昨年8月から6区の自民党候補者となった東が最も力を入れて手掛けたのが農協の取り込み。ふらの農協組合長で上川地区13農協の束ね役でもある植﨑博行を連合後援会長に担ぎ上げた効果は結果を見れば明らかである。
 東のターゲットは初め、現職の衆議で周囲に「次もやる」と漏らしていた佐々木隆博だった。道議から国政転出をねらう東にとっては、長年にわたり農家との信頼関係を築いていた佐々木の牙城を切り崩すことが勝利を得るための必要条件でもあった。
 「佐々木さんはいい人だけど、野党だからね」という農民感情に、東は巧みに食い込んだ。途中で相手候補は都会派の西川に代わったが、西川が農協に入り込む余地はすでに残ってなかった。立憲民主が党農労の3軸の一つとして挙げる〝農〟の組織力も管内に張り巡らされた農協組織には及ばなかった。植﨑連合後援会長が唱える「上川管内から与党の代議士を」の声は農家はもちろん経済界からの共感も呼んだ。
 選挙中には「日が昇る東と日が沈む西、あなたはどちらを選びますか」といった東西決戦を茶化したようなフレーズも見かけたが、結局のところ、道議選3連続トップ当選の選挙巧者の東と、旭川経済界の保守一丸体制を実現させた陣営がつかみ取った大勝利だったといえるのではないか。
 「解散のある衆議院はいつ選挙があるかわからない。常在戦場のつもりで活動していく」─東の選挙戦は果てしなく続いていきそうだ。

表紙2112
この記事は月刊北海道経済2021年12月号に掲載されています。

創刊55周年 本誌の出版物

 株式会社北海道経済は月刊誌の制作に加え、適宜、単行本の発行も行ってきた。大手出版社のような全国発売はできないものの、地元の出版社として地域に根差した本を数々送り出してきた。出版物の内容とともにそれにまつわる人々、出来事などを紹介しながら55年間を振り返ってみる。

創刊20周年記念で観光ガイドブック発行
 1966(昭和41)年11月にスタートを切った当社は、まずは月刊誌の発行に専念した。もっとも、社内にはそれ以上のことができる余裕はなく、資金的にも自転車操業だった。誌面には企業紹介シリーズや連載小説も掲載しており、連載の区切りで単行本として発行することも考えられた。しかし、毎月1回の月刊誌を発行することで精一杯の状態が続き、、出版社に求められる幅広い文化事業の面ではきわめて不十分だった。
 昭和50年代に入り、本誌が通巻100号を越えたころからはいくらか余裕が出てきたこともあり、頼まれて「自費出版」のお手伝いをすることはできるようになっていた。とはいえ、会社が資金を出して単行本を発行し販売するというところまではいかなかった。
 初めて出版元となって制作、販売したのは1986(昭和61)年に月刊北海道経済創刊20周年記念として発行した旭川観光ガイドブック「ぐっと・るっきんぐ あさひかわ」だった。B6版サイズ(本誌の半分の大きさ)のコンパクトな作りで、全面カラー200ページのボリューム。
 旭川市内の歴史、文化、観光、味どころなど、マチの魅力を最大限に楽しむためのガイドブックで、市内の広告代理業者、印刷業者と協力しながら半年がかりで制作した。正直なところ編集作業は委託業者に丸投げしたようなものだったが、本誌創刊20周年記念という信用度も加味され、販売面では当時市内に40店以上あった書店が力を入れて店頭に並べてくれた。
 インターネットがまだ普及されていなかった時代で、この種の本の需要が高かったこともあり、出版事業としてはそれなりの成功を収めた。その後、定期的な発行も考えられたが、残念ながらそれっきりになっている。
 その代わりというわけでもないが、2006(平成18)年からは、年1回発行の「旭川グルメマップ」を出版している。市内で月刊旭川春秋を発行していた会社(檜山修社長)が手掛けていた出版事業を第20号から引き継いだもので、飲食店、みやげ品店を中心に旭川観光の手引きとなる内容を掲載、市内のホテル、旅館などに無償配布し、それを観光宿泊客にサービスで配布してもらうというシステムを取り入れた。
 その後、掲載範囲を美瑛、富良野にまで広げ現在に至っているが、今年発行するはずだった第34号はコロナ禍の影響もあり、出版を見合わせた。観光客の入り込みが戻り、発行を再開できる日が近いことを願っている。

旭川人名年鑑・人名録 いまや貴重な歴史本に?
 1980(昭和55)年、1992(平成4)年、1997(平成9)と3度にわたり発行したのが「旭川人名録」だった。最初のものは旭川開基90周年を記念して「旭川人名年鑑」のタイトルで発行した。主に政財界の旭川在住の人物を顔写真付きで掲載し、出身校や家族構成、趣味、公職を紹介した。
 そのころ、月刊あさひかわを発行していた会社(渡辺三子代表)が先発で小規模な紳士録を出していたが、当社のものはそれをさらに充実させた内容で、掲載人物も幅広い分野に及び、マチを動かしている人々がよくわかると好評を博した。
 2冊目、3冊目は「旭川人名録」と名称を変え、5年に一度改定する構想で、日ごろの資料集めを欠かさなかった。制作手法は、官公庁を含む各種団体、企業の役員ら約3000人に案内状を発送し、自分の履歴書を書くつもりで所定の項目に記入してもらい、顔写真を添えて送り返してもらうようにしたが、2000人近くから回答があり、きわめて内容の濃い人名録となった。
 月刊誌の発行を続けながらの制作作業で、少ない社員が悲鳴を上げる日々が半年間ほど続いたが、他都市では例を見ない中身の濃い人名録を作ることができた。
 マチは常に動いており、活躍する人々の顔ぶれも変わる。5年に一度は改訂版を発行する計画だったが、生年月日から自宅住所、電話番号、家族構成まで掲載されることに危険性を感じていた人もおり、さらに個人情報保護法の成立によって、個人の情報を集めて紹介することができなくなり、旭川人名録の制作は断念せざるを得なくなった。
 そのため、現存する最新の個人情報は25年前に発行したものとなり、その中身を見ると少なくとも5人に1人は他界されている。いまとなっては旭川市の貴重な歴史本と言えるかもしれない。

教育委員会と協力 旭川の歴史まんが
 当社出版物の中で、販売を目的に制作したのが「歴史まんが旭川100年」だった。旭川市が開村100年を迎えていた1990(平成2)年に、次代を担う子どもたちに旭川の生い立ちを知ってもらおうと、読みやすく、わかりやくするため、あえてまんが本にして発行した。いわば「旭川市史」の簡略漫画版である。
 対象とする読者を市内の小学生とし、社会科の副読本のようにして使ってもらいたいとの思いを込めて制作した。作・大沼克之、画・幡野由枝で、ともに旭川在住の人にお願いした。同時に教育委員会を通じて学校の先生方にも監修を依頼した。当時は、大手出版社が学習まんが「日本の歴史」シリーズの発行を始めていたこともあり、学校側も当社のまんが本の制作には強い関心を示してくれた。
 準備から完成まで1年近い期間を要したが、結果は予想を超える反響で、正式な副読本としての採用はならなかったが、各学校やPTAの理解を得て、大半の小学生が定価1200円の本を購入してくれる結果となった。
 その後、学校関係者の勧めもあって6年後には改訂版を出し、12年後の2002年には旭川市教育委員会が編集・監修する「歴史まんが 旭川物語」と体裁を変えて発行することになった。
 旭川で育った35歳くらいまでの市民なら、必ず一度はどこかでこのまんが本を読んでいるはずだ。もちろんその親たちも目を通しているはずで、手前みそで恐縮するが、読者数は、旭川で出版された本の中で最大のものと言えるのではないか。

販売好調だった「旭川周辺の生きものたち」
 月刊誌制作の合間を縫って出版の仕事も行っていた当社が、社内に出版事業部を設け、本気になって取り組んだのが1997(平成9)年1月に出版した「旭川周辺の生きものたち」だった。著者は旭川市立末広北小学校校長を最後に教員生活を終えた建脇宏安さん。
 建脇さんは長年にわたり市内や上川管内の小中学校で教鞭をとりながら、自ら野山を歩いて培った植物や昆虫の豊富な知識を子どもたちに伝えていた。撮りためた写真は膨大な数にのぼり、それを生かして一冊の本にまとめたいという依頼を受け、教育分野の出版をいくつか手掛けていた当社(出版事業部)が全力で発行の手助けを行った。
 A5版310ページで全ページカラーの体裁。旭川周辺で見られる植物(山菜・キノコ)や昆虫、動物を中心とする数多くの生きものを写真と解説文で紹介し、野山を歩く子どもたちが手に持ちながら身近な自然を学べるように工夫を凝らした。
 「野山がもっともっと楽しくなる本」として市内の書店に並べると、定価2000円のものが飛ぶような売れ行きで、2000部の在庫は発売から1年もたたないうちに品切れとなった。当時、山菜やキノコの全国対象の図鑑はいくつか出版されていたが、旭川周辺に絞ったものは初めてだったことも売れ行きに拍車をかけたようだ。
 その後何年も「あの本はもうないのか?」といった問い合わせが絶えなかったが、著者の意向もあって残念ながら再販は行っていない。

旭川の課題に切り込んだ「西田勲の10年100論」
 月刊北海道経済の巻頭言でもあった当社の西田勲社長(当時、現会長)が毎号執筆していた「自由論壇」(その後『今月の視点』と改題)の中から選りすぐったものを一冊にまとめて出版したのが「西田勲の10年100論」だった。
 1980(昭和55)年2月号の「100万人も夢ではない旭川市の人口」から始まり10年後の「負けて悔いあり五輪招致運動」までの100編を取り上げており、その中身は旭川や近郊のその時々の関心事を著者なりの切り口、語り口で提言しているものばかりを集めた。
旭川市が革新市政時代から保守市政に変わり、人口も35万人を超え、まだまだ成長が見込める時代だっただけに、行政や経済、医療、文化など各界にわたって考えるべきことが多かった。そうした身近な課題や問題を取り上げて張った論陣は、読者から喝采を浴びることも多かった。それらを集約したのがこの本で、当社の記録としての意味合いもあったが、書店に並べると予想以上の反応だった。
 当時の旭川商工会議所会頭の小檜山亨氏と優佳良織工芸館織元の木内綾氏が推薦文を寄せており、「取り上げる話題の適切さと掘り下げ方の鋭利さに驚く。全部の都市にみられる共通の課題を旭川に準用するという形ではなく、旭川に住む市民がわが街を変えるという視点が現実味のある提言となっている」(小檜山氏)、「私は北海道経済誌をいつも自由論壇から読み始める。読んだ後の爽快な気分は気持ち良いものである。イキのよさを支えているのは旭川を思う真情だと思う」(木内氏)。
 このお二人の寄せ書きが「西田勲の10年100論」の内容を物語っている。昭和時代の「徒然草」ともいえる内容で、出版した当社にとっても貴重な記録の一つである。

亀畑義彦教授の珠玉の名編3冊
「北の物語」「オリンピックの戦士たち」「小説旭川の百年」

 月刊北海道経済に連載した記事を連載終了後に一冊の本にしたものがいくつかある。代表的なものが「北の物語~戦後の旭川経済を築いた人々」(1988年3月)、「オリンピックの戦士たち~旭川冬季五輪招致に挑戦した市民たちのヒューマン・ストーリー」(1990年6月)、「小説旭川の百年~時ときめいて」(1994年10月)の3冊。いずれも著者は北海道教育大学旭川校教授(退職後に名誉教授)の亀畑義彦氏。
 亀畑氏は同校助教授時代から本誌へ数々の投稿を続けてくれた。経済学博士であり、主に旭川の経済界での動きを中心に執筆活動を展開したが、教育者の立場をいかんなく発揮し、実例をもとにした「若者の育て方」についても珠玉の作品が多かった。
 「北の物語」は戦後の旭川経済発展の礎となった旭一旭川魚菜市場(現キョクイチ)初代社長の筒井英樹氏、ホクト電球工業(現東芝ホクト電子)の創業者山本英一氏、旭川信用金庫初代理事長の西山勲氏の3人を中心に、時代を駆け抜けた経済人の姿を描いた実話をもとにした歴史小説。
 「オリンピックの戦士たち」は、1992年の冬季五輪を旭川で開催しようという全市民が一丸となった5年以上に及ぶ市民運動の様子を詳細に描いたもので、1984年2月に発足した旭川冬季オリンピック招致を考える会(西田勲会長=当社社長)がその後期成会へと規模を増し、さらに旭川市や市議会、商工会議所などを巻き込んだ招致委員会へと発展した市民運動の経緯をつぶさに記録した。
 1988年6月の国内候補都市一本化を図るJOC総会で長野に敗れ夢はかなわなかったが、旭川始まって以来の保守も革新もない、一つの共通の目的に向かって突き進む、正真正銘の市民運動があったことを後世に伝えようと亀畑氏が本誌に連載し、終了後に出版した。
 「小説旭川の百年」は、旭川の開拓期以来の歴史上の人物に焦点をあてたもので、亀畑氏が50歳のころから研究の合間を縫って書き進め、58歳で完成した。
 上川アイヌの首長クウチンコロから始まり、歴代の旭川市長(町長・区長)、商工会議所会頭はじめ、各界で功績を残した人物の姿を小説風につづった。市が発行する旭川市史とは違った読み物語で、旭川人の魂を感ずる内容。亀畑氏はあとがきの中で次のように書いている。
 「私が、売れもしないこの小説を書いた目的は何だったのか。最初は、生き生きと時めいて旭川を作り上げた人たちの大まかな百年の歴史を知りたいという漠然とした気持ちだった。それが次第に『会期百年を迎えた旭川が、開基二百年に向って歴史を刻む時に、やがて忘れ去られるであろう開拓期から今日の旭川を築き上げた人たちの真情を残しておきたい』というものに変わっていったのです」
 亀畑氏は当社の出版物以外にも数々の学術論文、啓蒙的著作を世に送り出しており、旭川医大の吉田晃敏学長との共著「遠隔医療」も残している。2012年5月30日に逝去され、遺作には「旭川西高3年B組」もある。

機会あれば今後も
 当社ではここに挙げた出版物のほか2008年に幕を下ろした㈱アサヒビルの54年間の歴史を振り返る記念誌などいくつかの企業の社史の編集にも携わってきた。旭川の政治、経済、文化と半世紀以上にわたり歩みを共にしてきた当社ならではの社会貢献と言ってもよいのではないか。
 インターネット全盛の時代に入り、紙文化の衰退傾向は目に見えているところだが、なくなることはないと思う。今後も適宜、紙の出版事業を続けていきたい。

表紙2112
この記事は月刊北海道経済2021年12月号に掲載されています。