塩漬け6年 東海大跡地の行方

東海大学旭川キャンパス(旭川市神居町忠和)の跡地が〝塩漬け〟のまま6年を迎えた。民間事業者からアイデアや意見を出してもらう「サウンディング型市場調査」も行ったが、利活用の方法は五里霧中のままだ。跡地の有効活用は今津寛介旭川市長の選挙公約の一つだが、今のところ具体的な動きは見えない。

寄付されたが
 同キャンパスは、1972年4月に東海大学工芸短期大学として、旭川市外を西方から見下ろす丘の上で開校した。当時の五十嵐広三市長が、東海大の松前重義総長に働きかけ実現したとされる。以来、建築・デザイン・木工・家具などの分野に優れた人材を数多く輩出してきた。卒業生は5000人を超える。旭川市内でも多くのOB、OGが活躍している。
 2008年には東海大学と統合され、旭川キャンパスとなった。「くらしデザイン学科」「建築・環境デザイン学科」の2学科を運営してきたが、少子化の影響で定員割れが続き、2010年には札幌キャンパスに「デザイン文化学科」を新設することで、旭川キャンパスを閉鎖・統合する方針が決まり、2014年3月に閉校された。忠和の高台にそびえていた旭川市民になじみ深いタワーが姿を消して久しい。
 閉校から2年後の2016年、土地35万平方㍍と研究棟・図書館(共に2000平方㍍弱)の一切が旭川市に寄付(無償譲渡)された。土地は一般的なゴルフ場の3分の1ほどの広さで、スタルヒン球場14個分に相当する。
 寄付はされたが、敷地内のグラウンドなどでスポーツ団体が野球やクロスカントリーの練習をしたり、専門学校が重機の使い方を教えるフィールドとして利用するなど、散発的な利用に留まっており、本格的な利活用には至っていない。

市場調査で民間は数々の魅力指摘
 旭川市は民間事業者への売却や貸付も視野に検討を重ねてきた。2019年には民間事業所を対象にサウンディング型市場調査を実施し、市内に事業所を有する3社から考えや意見を聞いた。3社からの意見として▽市中心部から近く利便性が良い▽自然が豊かで市内を一望できるロケーションの素晴らしさ▽新規事業の展開で雇用機会の創出と観光客の増加が見込める─などの指摘があった。
 提案内容は、A社が家具製造・体験交流施設(事業方式・購入あるいは賃貸)、B社が文化・観光施設(同・公設民営)、C社が高齢者向け福祉施設(同・賃貸)を挙げた。調査結果から、旭川市は民間事業者に利活用のニーズがあると把握する一方で、都市計画法が定める用途の制限といった課題が明確に浮き彫りになったと受けとめている。だが、この調査以降、具体の動きは見えず塩漬けが続く。

利活用妨げる土地の用途区分
 寄付された土地は、旭川市の都市計画で第2種中高層住居専用地域に定められている。建築基準法は、第2種中高層住居専用地域では、店舗は1500平方㍍を超えてはならず、原則2階建て以下と定めている。さらに、カラオケボックス・ボウリング場などの遊戯施設、ホテル・旅館といった宿泊施設も建てられない。こうした用途の制限から、文化・観光・交流といった施設を整えるためには現行の用途区分のままでは難しいのが実態。「都市計画法上の用途の制限は高いハードルの一つ」(所管・市政策調整課)との認識だ。
 用途の変更は、そう簡単ではない。変更することが旭川市全体の利益に合致する合理性のあるプランを有識者・市民(公募)らで構成する「都市計画審議会」に提示し、諮る必要がある。審議会の承認を経て道とも協議し、理解を得ることも求められる。

土砂災害警戒区域
 課題は、もう一つある。敷地内は土砂災害警戒区域で、一部は、一定の要件を基に開発が制限される特別警戒区域に指定されている。開発に伴う施工に厳しい技術的基準が設けられているほか、建築物の構造にも規制が加えられる。このため通常に比べ事業費が割高になることは必至で、利活用策のネックともなりそうだ。
 今津市長は、今年2月の記者会見で、冬季のトレーニングセンター誘致について言及をしているが、具体的な場所については明言を控えている。
 跡地から、国道12号のバイパスを超えた南には、旧優佳良織3施設がある。一時期、市内の経済人から一体的に再開発すべきとの声が出たこともあるが、具体化する前に旧優佳良織はツルハなどが取得した。
 東海大旭川キャンパス跡地の維持管理費は年間150万円ほど。厳しい台所(財政)事情の旭川市にとって重い負担だ。利活用されないまま塩漬けが続き、税金からこれまでに1000万円ほどの費用が投じられたことになる。
 跡地を整備するには、多大な資金投下が必要だが、一般家庭の預貯金に相当する市の財政調整基金の2020年度残高は44億円ほどで、中核市平均の半分ほどにとどまる。2021年度決算見込みの借金残高(地方債残高)は1718億円。「財政調整基金の額を見ても他の中核市に比べ低く、市の財政状況は決して潤沢とはいえず厳しい」(旭川市財政課)
 建設中の市本庁舎の今後の借金返済(起債償還)に加え、一般廃棄物最終処分場、旭川市民文化会館整備など今後も高額な支出が見込まれる案件が目白押しの旭川市にとっては、東海大学旭川キャンパス跡地の利活用で市が事業主体となる多大な投資はできるだけ避けたいのが本音だ。
 だが、塩漬けのまま年間150万円の公金を無益に費やすこともできない。早急な対応が求められる。旭川市に寄付された跡地は、全市民の共有財産なのだから。

表紙2208
この記事は月刊北海道経済2022年08月号に掲載されています。

ファッションビル「オクノ」の行方

「9月閉館」との情報が走り回ったファッションビル「オクノ」(旭川市3条7丁目、石原嘉孝社長)。全32のテナントのうち3分の2は撤退するものの、婦人服や飲食店など10店が3フロアに集約され当面の営業継続が決まった。数年後に閉館・解体され複合商業施設に生まれ変わる構想があるが、ビル解体費は6億円にのぼる見込みで、2条買物公園の「マルカツ」同様に先行きは不透明だ。

ファッション発信
 今年4月中旬、「マルカツが今秋10月で閉店する」との情報がテナント関係者から各方面へ流れた。所有する遠藤管財(札幌)の遠藤大介代表は、本誌などマスコミに対し「老朽化で水漏れのトラブルが発生し、(数年先と考えていた)閉店を前倒しすることとした。閉店時期は未定だ」と説明した。
 「時期は未定」とのことだが、 年内には閉じ、その後解体されるものと思われる。
 買物公園は90年代以降衰退が顕著で、2009年の丸井今井旭川店閉店に続き、12年には旭川エスタ、14年にはエクス(旧丸井マルサ)と、大型商業施設が閉館し、16年には西武も撤退し旭川店を閉じた。そうした荒波の中でもマルカツは、経営母体は変わりながらも、前身の松村呉服店・丸勝百貨店からほぼ100年続いてきた。それだけに、「旭川発祥の百貨店も無くなるのか」と残念に感じる市民が多いのだが、マルカツ閉店報道から1ヵ月しかたたない5月中旬、今度は「オクノが9月で閉店する」とのショッキングな情報がオクノのテナント関係者から飛び出した。
 「そうごデパート旭川店」として1973年に開業し、85年に現商号に変更したオクノは地上8階地下2階建て。婦人服の人気テナントや紳士服のオーダーメード専門店などがそろい、80年代後半から90年代はファッション文化の発信地として人気を集めた。またオクノ前は旭川でナンバー1の〝待ち合わせスポット〟でもあった。
 所有・運営会社の㈱オクノの90年代前半の売上高は約45億円で推移していた。

コロナ追い打ち
 2000年に入ってから集客力、売上高は下降線をたどるが、11年の丸井、16年の西武閉店で一部有力テナントがオクノに移ったこともあって〝復活への兆し〟も見られた。しかし15年の「イオンモール旭川駅前」開業によるダメージは大きかった。イオン開業に際し石原代表は本誌インタビューにこたえ、巨大な相手イオンをライオンに例えて「コロシアムの中で(オクノが)独りライオンと戦うようなもの」と話している。
 企業信用調査機関によると、ここ数年オクノはテナント入居率の低下により不動産賃料が減少し、さらに新型コロナウイルス感染拡大がこれに追い打ちをかけた。「2度にわたる緊急事態宣言発令で休館を余儀なくされ、テナント撤退も続いた。売上高は90年代のピークから大幅に落ち込んでいる」(信用調査会社)。
 オクノの石原代表も「コロナ被害は甚大」とし、昨年21年の売上高は「ピーク時の2割弱にあたる約7億8000万円」としている。
 マルカツに先立ち、今年9月でオクノは閉館してしまうのか? 閉館した場合跡地の再開発を考えているのか? 石原代表にいくつか疑問をぶつけてみた。
 「〝閉館〟という情報だけ先行し、9月でオクノはなくなると受け止めている市民も多いようだが、10月1日以降も営業は続ける。現在32あるテナントのうち、約3分の2が9月で撤退するが、残る約10のテナントで〝縮小営業〟となる。北海道新聞に急きょ案内広告(前ページ掲載)を出したように、1階に飲食店とアパレル、5階に矯正歯科など、6階に旭川カムイミンタラDMOなどが残り、3フロアに凝縮しての営業となる」と、全館閉館ではないことを強調する。
 ただ、個別の店舗との交渉は現在進行中のようで、どの店舗が残りどこが撤退するかの詳細は5月末の段階では決まっていない。

先進性失われた
 3フロアという変則的な営業を決断した経緯、また将来的なオクノ運営については次のように語ってくれた。
 石原 コロナがやはりこたえた。街に人はこない。商品は売れず、テナントの撤退が続いた。
 これはオクノだけの問題ではなく、日本中のファッション、アパレル系が大打撃を受けガタガタになってしまった。例えば大手のワールドだが、50ほどのブランドを扱っていたのが半分になり、人員も同じように半減した。新規に出店するどころか逆にテナントとして入っていた店の退店の連続で、引くことが仕事みたいになってしまった。
 この先も、ベーシックな価格帯のユニクロなどは生き残るのだろうが、中価格帯以上は、北海道なら札幌だけでいい、東北ならば仙台だけ、実店舗はそこだけであとはネットで購入してくれという考えに変わった。地方都市でファッションをやることが難しくなってきてしまった。
 前身のそうごデパートは、日本初のファッションビルだったが、ファッションが持っていた時代の先進性、時代を変革していく力がなくなったんだと思う。今それに近いのはSNSではないだろうか。一人ひとりが情報を発信して時代を動かしている。オクノもいろんなことを仕掛けてきたが、僕から発信することがなくなった。

補助金視野に…
 石原 建物自体の問題もある。
 築49年たって、耐震は不合格だ。エレベーターとエスカレータも老朽化し、エレベーターはアナログからデジタルに変えたが2基で数千万円の工事費がかかった。エスカレーターは昔のまま、ガタガタいっているがどうにか調整しながら使用している。なおすとすればやはり数千万円の資金が必要になる。
 電源設備も耐用年数が限界となっており、業者からいつパンクしてもおかしくないと忠告されているし、また配管設備も問題を抱え水漏れ事故も実際に発生している。そうした建物の老朽化で、メンテ費用がかかり、その捻出に追いまくられてきたというのがここ数年の実情だ。
 コロナと老朽化の下で、何か新しい答えを出さなければならないと思案してきた。
 新しい街の機能を持ったビルへの建て替えはできないかと、都市再開発プランで実績のある市内の設計事務所にも相談した。国の補助金を活用するなどして複合商業施設を建設するという〝出口〟も見えた感じがする。
 地権者は私が代表を務めるオクノも含め6人いるが、実際に再開発計画が動き出すことがあれば〝石原さんに任せる〟との了承を得ている。ただ、解体費が6億円に達する。その捻出が可能なものかどうか。
 早ければ3年後の25年に全館閉館し解体、再開発に取り組みたいと希望しているが、具体的なことは何も決まっていない。国からの補助金も視野に入れ、再開発の方法をこれから探っていこうという段階だ。

実現には曲折
 「老舗大型店がなくなれば地域は一段と衰退する。官民共同で思い切った再開発をして中心部に人が集まる施設をつくってほしい」─そんな思いを抱く市民は多い。オクノ跡地の大型商業施設実現に期待したいものだ。
 ただ、石原氏も指摘しているように、解体費6億円は大きな壁だ。先に閉館が決まった2条買物公園のマルカツは、オーナーの遠藤管財・遠藤大介氏が「マルカツの名を残した25階超の複合商業施設建設」の壮大なプランを語っているが、やはり解体費で数億円、25階超ビル建設工事費には100億円近い巨費が必要。2条買物公園、3条買物公園の再開発始動にはかなりの時間が必要で、また曲折がありそうだ。

表紙2208
この記事は月刊北海道経済2022年08月号に掲載されています。

2022参院選 自民長谷川盤石 船橋接戦制す

改選3議席の参院選北海道選挙区。焦点は自民党と立憲民主党のうちどちらが2議席を獲得するのか、さらに言えば現職の長谷川岳が票をどれだけもう一人の自民党の候補、船橋利実に譲れるのかに絞られていた。自民党がバランス良く2人の間で票を配分すれば立民の2人当選が望めないことは、どちらの党にもわかっていたはず。終盤まで自民党支持者の票が長谷川に集中するとの懸念があったが、蓋を開けてみれば自民2人、立憲1人当選という結果に終わった。(敬称略)

6年前の悪夢
 6月上旬、調査結果を見た自民党の旭川市議が表情を曇らせた。
 「船橋(利実)がヤバイ。4位にも入っていない」
 この時点で、自民党関係者の頭には2016年参院選の結果が浮かんだはずだ。
当 長谷川岳(自) 648269
当 徳永エリ(民) 559996
当 鉢呂吉雄(民) 491129
次 柿木克弘(自) 482688
(自は自民党公認、民は民進党公認)
 自民の2人の得票数を合計すれば、民進の2人より約8万票も多い。ところが改選3議席のうち2議席は民進のものになり、自民は長谷川岳の1議席にとどまった。当時の状況を率直に評した政治家がいる。「一人を勝たせ過ぎて、結果として力を落としている。北海道は頭悪いと思った。計算できないのか」。今年4月に選挙応援のため来道した麻生太郎副総裁が、室蘭で開かれた集会で語った言葉だ(船橋は麻生派に、長谷川は安倍派に所属している)。

後援会長急きょ変更
 3年後、19年の参院選道選挙区に自民党から出馬したのは、高橋はるみと、元道議の岩本剛人。4期16年にわたり知事を務めた高橋の知名度は圧倒的で、選挙運動をしなくても当選できるのは明らかだった。選挙活動の資源は全面的に岩本に集中し、2議席を軽々と獲得。立憲民主は1人を擁立して当選させるのがやっと。19年に岩本を集中的に応援する自民党の方針が徹底されたのは、16年選挙での失敗が苦い薬になったことに加え、高橋自ら岩本への集中的な応援を呼びかけたためだ。
 衆院選に初挑戦してから26年、参院初当選から12年。長谷川は51歳となった。多少は性格が丸くなり、「もう一人の自民候補」のことを考える余裕が出てきたのかといえば、そんなことはまったくなかった。自民党関係者は語る。「ただ勝つのではなく、圧倒的な票差で勝つことが長谷川陣営の目標。船橋の当落など眼中になかったのだろう」。
 長谷川のこうした姿勢が、船橋の旭川後援会長の人選にも反映されている。船橋に近い高橋はるみの強い働きかけで、新谷龍一郎旭川商工会議所会頭が引き受けることがほぼ決まっていた。ところが、長谷川が新谷や旭川市内の有力者に電話をかけて猛烈な巻き返しを図った結果、新谷は最終的に就任を断念。新谷の意向で会長職を引き受けたのは副会頭の山下裕久だった。長い間、前旭川市長・西川将人の有力な後援者として動いてきた山下は、自民党の選挙に関わった経験が乏しく、長谷川の旭川後援会長を務めた商工会議所副会頭・荒井保明と経験の差は明らかだったが、それでも船橋のために奔走した。なお、山下については「損な役回りになる可能性が大きかったのに、むしろよく引き受けた」などと評価する声もある。

味方百人 敵百人
 長谷川を評して多くの自民党関係者が口にする表現が「味方が百人いて、敵も百人いる」だ。和を重視してことを荒立てることを嫌う政治家が増えたいま、長谷川のような政治家は少数派。それでも、予算獲得などについて功績があり、長谷川のウケがいいのは事実だ。
 マスコミなどの調査で「長谷川は盤石。船橋、徳永、石川(知裕)は横一線」などと報じられてから、自民党の動きが慌ただしくなった。7月3日には総裁の岸田文雄、4日には幹事長の茂木敏充が道内に入り、「重点候補」の船橋を応援した。「首相が応援するということは、党としても絶対に船橋を落とすわけにはいかないということだ」と、旭川の自民党関係者。とはいえ長谷川は有権者個人にも建設業界にもよく浸透していた。「幹事長が船橋を推せと言ったからハイそうですか、とはならない。今年よさこいソーランが札幌で久しぶりに本格開催されたことも、長谷川の追い風となった」(別の自民党関係者)。
 一方の船橋も必死の選挙戦を展開。故郷の北見圏での集中的な得票の効果もあり、最終的には全道で次点・石川と2万4840票の差で3位に滑り込み、「自民2・立憲1」の結果に終わった。
 長谷川と船橋だけの得票に注目すれば、全道の得票率は長谷川57%に対し船橋43%、旭川では長谷川60%に対して船橋40%。長谷川の集票力は圧倒的だった。
 札幌の船橋選対中枢にいる人物は「あまり知られていないようだが、船橋はこれまでの議員生活で中央と太いパイプを築いてきた。さまざまな分野について道民に貢献してくれるだろう」と今後に期待する。

銃撃事件影響は?
 立民は苦しい選挙を強いられた。国民民主党が独自候補の臼木秀剛を擁立したために、一部の労組票を奪われた。単純計算の上では、今回臼木秀剛が獲った9万票余りが徳永と石川に半分ずつ入っていれば、立民2自民1という結果に終わっていたことになる。
 投開票日の2日前には、安倍晋三元首相が奈良県内での選挙演説中に銃撃され死亡するという衝撃的な事件が発生した。注目されるのは、今回の選挙結果への影響。投票率は前回の53.76%に対して今回は53.98%とほとんど違いはなく、全国的な自民優勢と立民の苦戦は各社の調査で早くから予想されていた。北海道選挙区の結果は、その延長線上にあると解釈することもできる。

表紙2208
この記事は月刊北海道経済2022年08月号に掲載されています。

旭川医大の「ガバナンス」どこへ?

 旭川医科大学にくすぶる「公益通報」問題。外部の弁護士も加わった調査委員会が、現在副学長を務める2人の新学長選出直前の行動に対して「不適切」との判断を示したことは本誌5月号で報じた通り。この報告書に、西川祐司学長ら現執行部がどう対応するのかが注目されていたが、事態は予想外の方向へと動きつつある。報告の内容を受け入れず、前段階の「予備調査」からやり直すことで、すでに出ている結論をなかったことにしようとしている模様。いま「ガバナンス」という言葉の意味が問われている。

「犯人扱い」に反発
 3月8日、旭川医科大学で開かれた大学運営会議。松野丈夫学長代行、西川祐司副学長(次期学長予定者)、平田哲副学長、吉田貴彦副学長らが出席した。なぜか、その場には大学運営会議のメンバーではないはずの奥村利彦教授、川辺淳一教授もいた(役職はいずれも当時)。会議の中で奥村氏、川辺氏が、公益通報に対応する調査委員会のヒアリングを受けたが、「弁護士の態度が威圧的だった」「犯人扱いされた」などと抗議した(本誌には、この会議に先立ち、奥村氏と川辺氏が松野氏の部屋を訪れて強く抗議したために、松野氏がたまらず2人に大学運営会議で不満を述べさせたとの情報も寄せられている)。
 公益通報については本誌がこれまで何度か取り上げているが、改めて振り返れば、公益通報を行った人物は、昨年11月15日に新学長を決めるための意向聴取(投票)が行われる直前、学長選考会議議長の奥村氏と委員の川辺氏が、西川氏に投票するよう働きかけていたことを問題視して、公益通報制度に沿った通報を行った。学外の弁護士4人、学内の教職員数人からなる調査委が設置されて聞き取りが行われ、2人の行為は「不適切」だったとする報告を3月31日にまとめた。3月8日の大学運営会議は、調査委が結論を出す前に行われたことになる。
 大学運営会議の中で、西川氏は2人の行為が妥当だったかどうかについて見解を示すことなく、調査委について注目すべき発言をしている。
「ヒアリングのしかたが尋常ではない」
「4人の弁護士がこの問題を理解しているのかがわからない。弁護士を替えるのも一つの方策と思う」
「公益通報の取り扱いにあたっては、弁護士を加えるかしっかり検討すべきだ」
 組織内で不適切な行為、不正な行為が行われた場合には、調査委に外部の弁護士が加わるのが常識となっている。内部だけで調査を行えば「お手盛り」との批判が避けられず、手続きに瑕疵があれば事態が余計に混乱するためだ。4人の弁護士の名前は発表されていないが、本誌がうち1人の名前を把握してネット上の情報を確認したところ、数々の上場企業が不正発覚を受けて設置した調査委に参加したり、コンプライアンス構築委員を務めるなどしていた。調査委による不正の解明については豊富な実績を持っている人物のようだ。
 弁護士は一般的に刑事弁護で被疑者に対する警察や検察による人権侵害を防ぐ立場にあり、(旭川医大の件は刑事事件ではないが)聞き取りで人権を侵害しないよう配慮したとみられる。調査委が公益通報者本人の主張だけでなく、ほかの学内関係者から具体的な証言を得ていたとの情報も、本誌に寄せられている。調査委の弁護士が「高圧的」だったのかどうか、2人を「犯人扱い」したのかどうかは不明であるものの、一連の行為が「不適切」だと判断するのに十分な材料を、調査委は聞き取りの時点で得ていたのではないか。

予備調査委でも検討
 旭川医大の「公益通報者保護規程」は、公益通報が行われた場合、学長(この件では学長が不在のため松野学長代行)が副学長、事務局長、その他学長が必要と認めた人で構成される予備調査委員会を設置すると定めている。予備調査委が本格的な調査が必要と判断した場合、副学長(1人)、教授(3人)、事務局部長(1人)、その他学長が必要と認めた人が参加する調査委員会が設置され、調査終了後に速やかに学長に報告する。今回の公益通報に対しては、学内関係者による予備調査の段階でも、「調査の必要あり」との判断が下されていたことになる。
 調査委による調査の結果、西川氏が学長に正式就任する1日前の3月31日、奥村氏、川辺氏の行為は「不適切」だったとの正式見解が示された。同日に学内で発表された西川執行部のリストには、奥村氏、川辺氏が副学長として名前を連ねていた。
 調査委の見解に西川執行部はどのように対応したのか。「公益通報者保護規定」は「学長は、調査の結果、法令又は本学規則等に違反するなどの不正が明らかになったときは(中略)就業規則に基づく懲戒処分等を課すことができる」「必要に応じて、関係行政機関等に対し、当該調査及び是正措置等に関し、報告を行うものとする」などと定めている。
 2人の行為は「不適切」と結論づけられたが、それが保護規定にある「法令又は本学規則等」に即違反するとは言えない。学長の選考のための投票は公職選挙法の規制を受けず、「学長選考会議の議長や委員は特定候補への投票を呼び掛けてはならない」との明確なルールも学内に存在しないためだ。それはルールではなく、社会常識や道徳に照らして「不適切」とみなされる行為だろう。
 とはいえ、調査委の出した結論に、大学として対応し、見解を示す必要があるのは明らかだが、旭川医大は対外的には完全な沈黙を守っている。かたくなな姿勢は本誌の報道後も変わらない。ある時期までは大部分の教職員にとって本誌がこの件についての唯一の情報源となっていた。

病院長も「やり直す」
 しかし大学内部からも、疑問の声が漏れ始めた。5月11日に開かれた教授会では、出席者から公益通報に対する調査結果についての質問が出たが、西川学長は「調査結果に問題がある」とだけ述べ、多くを語ろうとしなかった。それを補足するかたちで、4月1日に旭川医大病院長に復帰した古川博之氏(副学長)が「調査を学内でし直す」と説明したという。
 本誌は旭川医大の事務局を通じて、大学運営会議での西川氏の発言、教授会での古川氏の発言の真意、現状での公益通報への対応などについて取材を書面で申し込んだが、「今回の件につきましては、今後、学内での報告を予定しており、学内での報告の前に内容についてお話すべきではないと考えております」との反応が返ってきた。
 すでに出ている調査結果をなかったことにして、調査をやり直すとすれば、非常に強引なやり方だが、執行部は着々と手続きを進めている模様。本誌には、再度の予備調査委の委員として、古川・松本成史・本間大の各副学長が選ばれたとの情報も寄せられている。彼らは調査委ではなく、その前段階である予備調査委の委員。予備調査委が「シロ」の判断を下せば、正式な調査委は設置されない。問題点を指摘することもなければ、当局への報告、再発防止の必要もない。
 とはいえ、すでに出ている結論をなかったことにして、いまの執行部が満足する形で公益通報への対応に「幕を下ろす」としても、それが大学の内外に対してどれだけ説得力を持つのかは疑問だ。こうしたやり方が通用するのなら、組織内で起きた問題を外部の専門家のを加えた調査委で究明するという手法が無力化してしまう。

総意に沿った行動?
 ある医大の関係者は、大学全体の今後を心配する。「すでに出ている調査委の結論を発表し、学長が必要と考える処分を行えば、たとえ非常に軽いものだとしても区切りをつけることができるのに、なぜそうしないのか。解決を先延ばしているだけではないのか」
 公益通報の対象になったのは、奥村氏、川辺氏の集票行為だった。ただ、2人は独自の判断で〝暴走〟したのではなく、西川学長を支えるグループの総意に沿って行動した可能性が大きい。そしていま、西川執行部の副学長たちが予備調査をやり直そうとしている。
 「ガバナンスの確立」を掲げて就任した西川学長と現在の執行部が、調査委の結論を受け入れず、調査のやり直しを強引に推し進めるなら、彼らの言う「ガバナンス」の意味に疑問を感じるのは記者だけではないはずだ。

表紙2207
この記事は月刊北海道経済2022年07月号に掲載されています。

江丹別の里山をキャンプ場に

 過疎で人口が250人ほどに減り、域内の高齢者(65歳以上)が6割に迫る限界集落・旭川市江丹別町地区。若者たちが乗った2台のピックアップトラックが幌加内線を北上し、伊勢ファームを越えたあたりで右手に入り、北の里山に吸い込まれた。自らの手で木を間引き、草を刈り、道をつくり、整地する。若者たちは、キャンプ場を手造りしていた。

江丹別に魅せられ
 森に入ると、雪解け水のせせらぎを伴奏に野鳥が美しい〝ソプラノ〟を聴かせてくれた。漂って来る森の匂い。この素晴らしい空間を「仕事場」とする野良着姿の女性2人と男性2人の顔に自然と笑みが浮かぶ。
 野中瑠馬さん(27)、野中えりさん(28)、鈴木愛(まな)さん(25)、小館佑太さん(27)。4人は、札幌の医療関係の専門学校で学んだ仲間だった。卒業後、理学療法士として仕事に就き、それぞれの道を歩んできたが、江丹別の森が4人をリボンのように結び付けてくれた。
 瑠馬さんは、4年ほど前にキコリに転身し、江丹別の山を3年ほど前に購入した。この山の森を散策し、豊かな自然を感じてもらう瑠馬さんのイベントに参加したのが愛さんだった。
 そのころ、愛さんは心身共に疲れていた。森の匂い、広葉樹の葉のざわめき、鳥の声に癒された。「森の中で何も考えずにボーッとしているだけで良かった。ただただ、森に居たいと思った」
 江丹別の森に魅せられた愛さんの熱い思いに応えるかのように、佑太さんは、愛さんとともに江丹別町に移住した。

森の姿を生かしたキャンプ場造り
 愛さんを魅了した里山は、キコリの瑠馬さんが所有する。「森の素晴らしさをたくさんの人に知ってほしい」。愛さんのそんな思いを叶えてあげようと、専門学校の同窓生らで構成し、瑠馬さんが代表を務める森を生かした地域おこし団体「モリノワ」がキャンプ場を造ることを計画。瑠馬さんの指導の下、モリノワのメンバーの協力も得ながら、4人は昨春からキャンプ場造りに汗を流してきた。
 自らの手でササを刈り、瑠馬さんの手ほどきを受けながら木を間引く。間引いた木を利用し、階段を造る。整地し、道路を造る。4人は力を合わせコツコツ、一つひとつの作業にいまも丁寧に取り組んでいる。
 「野中さんの弟子です」。愛さんは、弾けるような笑顔を記者に向けた。森の中で仕事をすること自体を4人は楽しんでいるようだ。
 山仕事に従事する瑠馬さんは、キャンプ場造りで愛さんが次第に変わっていく様子を見ていた。「最初はまったく重たい物は持てなかったけど今は握力もつき、自在にチェンソーを操る。以前は自分のことばかりに目が向いていたけど、人に与えたい、何かを伝えたいと考えて行動しているうちに別人になった」
 愛さんだけではない。愛さんのパートナーの佑太さんは、「お金の価値が自分のなかで低くなり、モノのありがたみが腹に入った」と照れたように笑う。
 手造りキャンプ場のコンセプトは、「五感で森を感じられる空間」だ。森の姿を極力生かし、自然に配慮した癒しの空間を目指す。
 アスファルトに白線を引いた駐車場、水洗トイレ、シャワー、炊事場……。そんな昨今のキャンプ場と趣を異にするスタイルは、環境へのローインパクトを指標に掲げ、近年世界的な潮流となっているSDGsの理念に合致した試みでもある。「火をおこすことが『大変だな』って実感するでしょう。ここに来たら不便を楽しめるようになるはず」(瑠馬さん)

森のまんまの姿でキャンプ場
 森がキャンプ場なのか? キャンプ場が森なのか、という記者の問いに、愛さんと野中さんは答えた。「森そのまんまの姿でキャンプ場がある。そんな感じにしたい」
 名前は「coco moriキャンプ場」。愛さんが代表だ。場内およそ1㌶の敷地を4区画に分け、木を素材に自由にモノづくりが楽しめるクラフトゾーンやテント泊ゾーンなどに分けた。
 中でもハンの木を利用したツリーテラスはこのキャンプ場のシンボルだ。大人が8人ほど乗っても大丈夫な設計で、上に立てば森の住人になったかのような気分を味わえる。
 年輪をイメージした直径2㍍ほどの六角形のウッドデッキもある。周囲の広葉樹を枝払いしたことで、仰向けに寝転んで星空を眺めることができる空間が広がった。立木を利用したブランコや、専用のひも状のものを2点間に張り渡し綱渡りが楽しめるスラックラインで遊ぶことも可能だ。空中ハンモックに身を委ね、ゆったりとした時間を過ごすこともできる。生物に配慮し、テント内の照明を除き、場内は原則灯り禁止となっている。
 これまで公的助成も受けず造成費用は4人の持ち出して頑張ってきたが、受付小屋の資材調達のため昨秋ネットで資金を募るクラウドファンディングを実施し、67万6500円を獲得した。4人のキャンプ場造りの共感の輪が広がりつつある。

江丹別と都会 結ぶ架け橋に
 見知らぬ4人が江丹別市街地の北に広がる森で、もぞもぞやっているのを、江丹別の古老らが見にやって来る。瑠馬さんのパートナーのえりさんは、「気持ちのいい人ばかり。遊びに来てくれて、私たちの車のタイヤの空気が抜けたり、車がはまったりしたら助けてくれた」。古老らは、やって来ては「(オープンしたら)遊びに行くね」「長いこと頑張っとる」などと声を掛けてくれるようになった。4人の若者が汗する姿を江丹別住民は見ていたのだ。
 「恩返しをしたい」。4人は、今年4月に理学療法士の資格・ノウハウを生かし、江丹別のおじいちゃん・おばあちゃんに恩返しをしようと地元の公民館で健康増進のささやかな教室を開いた。8人ほどのお年寄りが集まった。「腰イターイ!」「膝イターイ!」「肩こるー」というお年寄りの声に耳を傾け、どうしてその症状が起きるのかという座学をしたほか、痛みの解消や悪化しないための体操・ストレッチを教えた。要所の筋などを伸ばすと、お年寄りからは、「これいいね」といった喜びの声が上がった。
 「江丹別のおじいちゃん、おばあちゃんとお話しをしてふれあう機会になる。仲良くなれる。これからも理学療法士の資格を生かして江丹別のお年寄りの体を診てあげたい」。4人は、そう考えている。温かなムーブメントが、この限界集落の地に芽吹き始めた。
 4人は、「coco mori キャンプ場」が、過疎にあえぐ江丹別町と都会を結ぶ架け橋になればと夢を抱く。

地域の姿が変わる?
 かつて3000人以上が暮らしていた江丹別村が旭川市と合併したのは1955年のこと。以来、地域住民の願いと裏腹に、人口の流出が続く。旭川市営牧場や若者の郷といった施設は作られたが、大きな雇用機会の創造にはつながらず、自慢のそば畑も若者を引き寄せる効果は乏しかった。この地域の景観を守るための土地利用規制も、本格的な開発の足かせとなっている。豊かな自然という江丹別の特徴を活かした活動に取り組む4人の若者が、江丹別の運命を大きく変えるかもしれない。
 江丹別で暮らす愛さんとパートナーの佑太さんに続き、これまでは旭川市内から通っていた瑠馬さん・えりさん夫妻も近く江丹別に居を構える。「すでに自分たちで伐った木の皮をむき、乾燥を待つだけ。自分たちの手で家を造る」(瑠馬さん)
 オープンを控え、愛さんの心は期待とともに揺れる。「お客さん、ちゃんと来てくれるかな? ちょっと不安。リピータを増やさないと、イベントもやって……」。愛さんを中心に4人の夢を乗せた「coco moriキャンプ場」は、6月下旬オープン予定だ。

表紙2207
この記事は月刊北海道経済2022年07月号に掲載されています。

あさひかわ乗馬クラブ 百年の歴史

 「クラブの歴史を知るほどに、馬に対する先人たちの思いには、とても熱いものがあったと感じます」。今年、あさひかわ乗馬クラブ結成100年。女性初、最年少で理事長となった山崎明日香さん(37)は、この100年の節目にクラブを背負えることに大きな意味を実感し、さらに100年後の姿にも思いをはせる。(文中敬称略)

師団におんぶにだっこ
 新旭川市史(第三巻)によると、旭川でも祭典興行の一つとして、競馬は早くから盛んだった。しかし、馬術となると、「馬の飼育や調教など、直ちに民間に普及するには至らなかった」とある。当時、旭川中学校(現在の旭川東高校)の生徒が1916(大正5)年に陸軍第七師団騎兵隊で乗馬の練習を行った記録が残るが、正式に同校で乗馬部が発足したのは1930(昭和5)年。これとは別に、地域の乗馬愛好家20人ほどが意気投合し1922(大正11)年に産声を上げたのが、「旭川乗馬倶楽部」だ。
 その初代会長を務めたのが、退役軍人で当時の旭川市長、岩田恒。名誉会長には内野辰次郎第七師団長、顧問として複数の陸軍少将と警察署長、地裁所長らが名を連ねた。旭川市役所内の畜産課に倶楽部事務所を置き会員は当初50人程度だった。
 乗馬の練習は第七師団の騎兵第七連隊の覆馬場で日曜日ごとに行われた。騎兵連隊から手ほどきを受け、旭川体育協会創立30周年の記念誌には厳粛な中にも親切かつ熱心な指導を受けたことが「非常に楽しかった」と記述されている。
 記念すべき乗馬楽部第一回練習会(1922年4月16日)の様子は、「怖気立ちながらも落馬した者は無かった」などと写真付きで新聞各紙に報道された。続いて行われた第一回遠乗会(同年9月17日)は、騎兵第七連隊を午前7時に出発し、師団通、一条通、神楽岡を経て上川神社、旭山を150頭からなる隊列をつくって師団の騎兵連隊まで戻る約五里(20㌔)の道のりが行程だった。途中、東旭川の果樹園主からは果物が饗応(差し入れ)された。これ以後、遠乗会は戦前まで毎年春と秋に開催され約80人が参加し東神楽の義経台、東旭川の旭山公園を経て、比布にある蘭留、東鷹栖の突哨山など行程40㌔程度を行進したという。
 旭川乗馬楽部が結成されると、学生の間にも乗馬が普及し、旭川中学校だけでなく、旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)、今の旭川商業高校や旭川農業高校等に馬術部が設置され、各30人ほどの部員が在籍していた。ちなみに道内には札幌、小樽をはじめ美唄、砂川、士別、新十津川、白老、広尾などの地域に合わせて24団体あった。
 北海道乗馬大会は旭川乗馬楽部が主催し1923年から毎年7月ごろに第七師団練兵場で開かれ、道内のほか東北各地、首都圏や名古屋などからも多数参加した。「北海道乗馬というより、むしろ全日本馬術大会と言いたい盛況であった」と旭川体育協会記念誌にはある。29(昭和4)年の北海道乗馬大会には、世界的に有名な馬術家、遊佐幸平をはじめ、騎兵学校の馬術教官が一堂に会した。31年大会には女流選手の参加でとりわけ華やぎと活況を呈し、団体組では旭川乗馬楽部が優勝。35年には第七師団凱旋記念遠乗会が開催され、金星橋や師団通、三条通を経由し東旭川地域まで行進し師団に帰着した。
 軍馬2頭の払い下げを受け、貸付細則を定めて会員に貸し付けも始めたが、「第七師団にはおんぶにだっこ。強力なバックアップや指導を受けた」と元旭川市史編集課職員であさひかわ乗馬クラブ会員の斉藤真理子は話す。

表紙2207
この続きは月刊北海道経済2022年07月号でお読み下さい。

軟投派アンダースローは44歳

 昨年士別に誕生した「士別サムライブレイズ」(北海道フロンティアリーグ)の選手は若手が中心。一人だけ異彩を放つ超ベテラン選手が安井大介だ。異例ずくめの野球人生、北米・中米などのチームを渡り歩いた十数年間、日本最北の野球チームにたどり着いた経緯、そしてアンダースローならではの投球術などを尋ねた。(文中敬称略)

ずば抜けた実績
 4月25日夜、士別市朝日町のあさひサンライズホールで、独立リーグ「北海道フロンティアリーグ」に所属する球団「士別サムライブレイズ」が2022年シーズンの「新チームお披露目会」を開いた。ネット中継される中、壇上に立った選手のほとんどは20代前半の若手。一人だけ、大ベテラン投手が混じっていた。安井大介投手(44歳)。他の選手たちの父親にあたる年代で、身長も170㌢とチームメイトと並べば比較的小柄だが、立派な現役選手だ。実績ではずば抜けている。何しろ他の選手がヨチヨチ歩きのろからアメリカ、カナダ、ニカラグア、ベルギー、グアテマラなどで転戦を続けてきたのだから。
 安井はサムライブレイズが北海道ベースボールリーグ(HBL)に所属していた2021年シーズンの途中、7月1日に入団。3試合に先発、中継ぎでも起用され、16試合、27と3分の2イニングを投げた。1勝1敗で防御率は5・20。久しぶりに対戦する日本の野球の器用さに戸惑った。初のフルシーズンとなる今季は先発で一つでも多く勝ち星を積み上げることが目標だ。
 5月5日、ホーム開幕戦(今季2戦目)となる対美唄ブラックダイアモンズ戦で出番が回ってきた。打ち込まれた若手の先発をロングリリーフ。立ち上がりで失点したものの、その後のイニングでは1失点に抑え、大味になりかけたゲームをベテランらしく引き締めた。
 異例の野球人生が始まったのは小学校2年生のとき。当時住んでいた東京都足立区の町内会で運営されていた「綾瀬東ガッツ」に入団した。中学校に進学してからは、その学校に野球部がなかったため大人に混じって草野球でプレーを続けた。歯車がいったん狂うのは高校進学後。卒業生から首相も輩出している東京都心の私立高校で野球部に入ったが、鼓膜が破れるほどの教師の暴力に耐えかねて1年で退部した。「理事長が教員を殴る異常な学校で、野球部員は教員の不満のはけ口にされた」。なお、この学校は約3年前、長年の慣例となっていた朝7時前からの理事長へのあいさつに不満を持った一部の教員がストライキを決行して全国ニュースに登場している。

移籍2試合目の試練

 野球を諦めきれなかった安井は、専門学校のチームで野球を続け、さくら銀行(現在の三井住友銀行)が母体の社会人チームに進んだ。それから2年余りが経った2003年、スポーツ新聞の記事で北米独立リーグでのトライアウト(複数のチームが実際にプレーさせて選手を募集するオーディション)開催を知った。当時、野茂英雄やイチローをはじめとする日本人メジャーリーガーの活躍がすでに始まっており、安井も自分の可能性を信じて渡米、トライアウトを受けた。米国内のチームには入れなかったが、カナディアン・ベースボールリーグのビクトリア・キャピタルズと契約した。
 しかし野球選手にとり現実は厳しい。開幕2試合目で登板した安井は満塁ホームランを打たれ、次の試合ではリリーフで無失点に抑えたものの、3カードが終了した次の試合の練習の前、監督に呼ばれて解雇を言い渡された。「野球はハードなスポーツだ。今までありがとう」。球団にとっても現実は厳しかった。安井の退団から7ヵ月後、キャピタルズは経営難で解散した。
 翌04年は米で春季キャンプに参加し、所属先の球団も見つかったが、プレー可能なビザへの切り替えができずにまたも解雇。北米では実力を備えていることはもちろん、ビザを得られるかどうかが外国人野球選手の運命を左右する。ビザ取得にはチームの協力が不可欠だが、チームは活躍の期待が大きい選手のビザ取得を優先する。当時はビザ発行量にも上限があり、なかなか順番が巡ってこなかった。
 それでも05年には米国のセミプロリーグ「ゴールデンジャイアンツ」と契約した。セミプロとは、春と秋の大学野球リーグの中間となる夏休みに、全米各地の大学野球部から集めた選手を中心に運営されるリーグのこと。優秀な選手には給料も出るが、開催期間は短い。これ以降2020年まで、安井は米国、カナダ、メキシコ、ニカラグア、グアテマラ、そして欧州のベルギーで、14チームを渡り歩いた。

年3ヵ月は海外で野球
 巨額の年俸が出るメジャーリーグと異なり、これらのリーグで選手に支払われる報酬はわずか。「試合のない日に皿洗いなどのバイトをこなし、苦しさに耐えて野球を続けていたのか」と記者が尋ねると、安井は笑って否定した。「年に約3ヵ月は北米や中米などで野球をプレー。残りの期間は千葉県で親の営む貸家業を手伝っていた。切れた照明を取り替えたり、掃除したり、壊れたところを修繕したり…。親も応援してくれている。貧しい生活に耐えながら野球を続けたわけじゃない」。
 海外で苦しさを感じるのは単調な食生活だった。米国内では、夜の試合が終わるころ、食事ができる店はファストフードのチェーン店しかなく、マクドナルド、ケンタッキー、ドミノピザの「不動のローテーション」が続いた。中米の国ではゲーム終了後、店がすべて閉店しており、空腹に耐えなければならないこともあった。
 海外でのプレーを始めたころは言葉にも苦労した。当初は英語の契約書の内容を理解しないままサインしていた。スペイン語はまったくちんぷんかんぷん。英語とスペイン語を両方理解する選手のそばにいるうちに、少しずつ話せるようになった。「彼女ができてコミュニケーションを図るようになってからは上達も早かった」。
 野球選手にケガはつきもの。しかし、チームが結ぶ健康保険のおかげで、治療費はかからなかった。唯一、保険でカバーされないのが「歯」。チームメイトに歯の痛みを訴えると「大丈夫か」ではなく、「お前、金はあるのか」と心配された。シーズン中に歯が痛くなっても、痛み止めを飲んでひたすら我慢するしかなかった。

アンダーだから長寿
 野球のピッチャーは、まず右手で投げるか、左手で投げるかによって二分され、投げるときにどの方向から手を振るかによってさらに分類される。上から振り下ろすのがオーバースロー、横から投げるのがサイドスロー、両者の中間がスリークォーター、そして下から投げるのがアンダースローだ。日本でも北米でも中米でも、アンダースローは少数派で、近年その数はさらに減っているが、下から上に向けて投じられた球が、重力に引かれて落ちるため、球の軌道は独特。対戦機会の少ないアンダースローの投手に苦戦する打者も多い。
 安井は右投げのアンダースローだ。もともとはサイドスローだった。専門学校時代にアンダースローを試したことがあるが、この時は脚が痛くなった。社会人時代、居並ぶチーム内のライバルと比較して劣る球速を見かねたコーチが「下から投げてみろ」と命じた。今度はうまく投げることができ、その時点では体もできていたのか痛みもなかった。
 アンダースローは体への負担が重いと考えられることもあったが(マンガ「巨人の星」では主人公の星飛雄馬が大リーグボール3号をアンダースローで投げ続け、結末で左手が崩壊した)、安井は「時々腰が重たくなる」以外は故障らしい故障がなく、「アンダースローだからこそ野球を続けてこれた」と考えている。
 決め球はシンカー。ただし、安井の言うシンカーは日本式の(右投手なら)右側に曲がりながら落ちるボールではなく、アメリカ式の高速ボールで、右バッターの手元に食い込んでくる。安井が投げる球の7割はシンカー。残り3割が直球だ。どちらも球速は125㌔前後であるため、打者には見極めが難しい。
 通常であれば多くの野球選手が衰えを感じる30代中盤から、安井は逆に手応えをつかむようになっていった。「イニング数が増えるにしたがって自分の長所と短所がわかってきた。コーチから『右バッターは抑えろ、左バッターはシングルヒットならOKだ』といった的確なアドバイスをもらい、肩の力も抜けた」。最後に外国でプレーした2019~20年のグアテマラ・ウィンターリーグでは最多セーブ(5セーブ)に輝き、翌シーズンに向けて米国内のチームから数件の引き合いが来た。今後も海外で野球が続けられると考えていた。
 2020年春に帰国した直後、安井の野球人生を変えたのは、新型コロナウイルスだった。

コロナで海外断念

 すぐにおさまると楽観視していたパンデミックは世界中に広がり、安井は再渡米することができなくなった。まだまだ正常化までには時間がかかるとみて、国内での所属チームを探しているうちに、北海道の独立リーグの存在を知り、昨年7月1日に入団した。
 2020年に活動を開始したHBLは、野球の練習や試合をする傍ら、地元の農家、商店などに勤務することで、スポーツ振興や地域おこし、不足する労働力の供給などの目標を同時に追求している。HBLに昨季加盟した士別サムライブレイズも同様の活動を展開している。昨年11月にはHBLからの脱退を発表、22年シーズンから美唄ブラックダイヤモンズ、石狩レッドフェニックスとともに北海道フロンティアリーグを構成している(HBLは2022年、富良野ブルーリッジ、すながわリバーズ、奈井江・空知ストレーツの3球団で活動)。野球と勤労を両立する活動はHBLでもフロンティアでも変わらない。安井は野球選手として活動しながら、地元のゴルフ場などで働くことになっている。
 チームには専業の英語・スペイン語通訳がいるが、安井も補助的に通訳を務める予定。もう一つ、夢がある。「米国などで観てきた試合では、開始前やイニングの合間などに、音楽を流したり、ショーの要素を加えたりして観客を楽しませている。これまでの経験を活かしてそうした要素を日本の野球に加えるために働きたい」
 もちろん本業は野球。昨季は、前の打席で抑えたはずのバッターが、スイングやタイミングを器用に調整してくることに戸惑った。「アメリカのバッターは自らのスイングにこだわりがあるため、調整はあまりしないもの。いい所に球が行けばそんなには打たれなかったのだが…」。器用な日本のバッターに合わせて、今度は自分が投球内容を調整できるかどうかが問われている。
 いま44歳。現役生活の残りがそれほど長くないことはわかっている。「自分と同じ年齢でいまも現役のプロ野球選手は福留孝介(中日→メジャーリーグ→阪神→中日)だけ。福留より1年でも長くプレーがしたい」と語る安井。北の最果ての地で「第2幕」が上がった。

表紙2206
この記事は月刊北海道経済2022年06月号に掲載されています。

実現するか マルカツ跡タワマン構想

 旧エクス跡に建設が進むタワマン(高層マンション)に次ぐ、旭川2番目のタワマンが実現するのか?閉店、解体が報道された「マルカツデパート」のオーナー・遠藤管財(札幌)の遠藤大介氏は、マルカツの名を残す25階建超の壮大なプランを描いているようだ。

HIRから遠藤管財
 旭川平和通買物公園2条にある「マルカツデパート」が閉店、解体されることになった。営業から100年になる商業施設だけに「地域を支えてきた老舗が姿を消すのは残念だ」と惜しむ声がやまない。
 マルカツの歴史は波乱に富む。始まりは松村勝次郎氏が創業した呉服店で、1924年に現在地の2条7丁目に移転し、36年に丸勝百貨店が設立された。丸井今井と激しい競争を繰り広げ71年には地下1階地上3階のビルに生まれ変わり、道内大手繊維卸の東栄㈱の傘下入りし店名をマルカツデパートとした。その後、増築を重ねて73年に現在の地下1階地上8階となった。その後も5階と7階部分を増築している。
 2001年東栄が破綻し外資系ファンドのローンスターに売却されたが、店名やテナントはそのまま残った。11年には居酒屋やカラオケボックスなどを展開していた㈱海晃(名寄市)へ約3億円で売却された。
 マルカツの再生を目指した海晃だったが、15年に旭川駅前イオンが開業した以降は集客力が落ち、テナントの撤退も目立つようになった。海晃は経営状態が悪化し社名をHIRホールディングスと変更。マルカツ売却は難航したが、昨年21年に、ようやく札幌の不動産グループとの間で話がまとまった。
 遠藤管財合同会社などで構成するグループ代表の遠藤大介氏は購入直後の本誌取材に対し「当面、再生再建の考えで、テナント商業施設として運営し、新設開発も将来の視野」と語っていた。
 遠藤管財所有となってほぼ1年だが、3月に入ってテナント関係者などから「オーナーが、10月末で閉店するとの方針を主要テナントに告げてまわっている」との情報が本誌を含め報道各社に寄せられるようになった。そして4月下旬、「マルカツ閉店、建物は老朽化で解体」との一部報道となった。

マルカツの名残す
 再び、遠藤氏に話を聞くと、
 「以前話したように、しばらくの間は商業施設として運営する予定だった。しかし、設備が老朽化しテナントに水漏れの損害が発生してしまった。再発の恐れもあり、また、1店にとどまらずほかのテナントでも同様の事故が予想される。コロナ感染拡大が長引き、客は戻らず空いたフロアーへのテナント誘致も進んでいない。当初の計画よりも閉店を前倒しすることにした。10月末閉店と決まっているわけではない。閉店時期は流動的」との答えが返ってきた。
 現在、マルカツには100円ショップなど38の店舗と旭川市の職業相談窓口が入居しているが、6階フロアなど空き店舗も目立つ。商業ビルと呼ぶには厳しい状況で、コロナ下で施設運営する遠藤管財は毎月、相当額の赤字が連続している模様。「閉店は未定」とのことだが、年内には閉じ、その後解体されるものと思われる。
 さて、気になるのが解体後の跡地活用だが、遠藤氏は「新たに商業施設とマンションの複合高層ビルを建設する」と話す。
 「再開発し街づくりに貢献するとの思いでマルカツを買った。高層ビルの下層階には商業テナントを入れマルカツデパートという名を引き続き使う考えだ。中層階・上層階がマンションで、25階建てを超えるタワーマンションとなる」と、話は大きい。
 1条買物公園の旧エクス跡は、「1・7地区優良建築物等整備事業」として、高層マンションの建設が進んでいる(本誌20年8月号で詳報)。
 昨年10月に旭川市に提出された「建築計画概要書」によると、建築主は大和ハウス工業㈱北海道支社で、設計・施工は三井住友建設㈱北海道支店。敷地面積2138平方㍍25階建て戸数は157戸。旭川初のタワーマンションとなり、高さ87・2㍍。旭川で最も高い建築物となる。工期は24年10月までとなっている。
 マルカツの敷地面積は2677平方㍍あり、エクス跡地よりも2割以上大きい。遠藤氏によると「当然、エクス跡地のマンションよりも規模が大きいものとなる」

ツインのタワマン
 旭川駅前にあった西武、丸井今井、長崎屋はいずれも撤退し、西武跡地には、低層階にツルハなどが入り中・高層階がホテルの「ツルハ旭川中央ビル」がオープンした。買物公園をはさんで建っていた長崎屋はエクスを経てタワマンに生まれ変わりつつある。さらにマルカツが高層ビルとして再生すれば、買物公園に面してツインのタワマンがそびえ立つことになる。
 旭川は人口33万人の街として一定の都市機能を備え、地震などの災害が稀で安全、ゴルフ場やスキー場なども充実している。中心部にタワマンがそろえば「住み良い地方都市」として本州の富裕層の注目も増す。マルカツ跡地の再開発実現を期待を込めて見守っていきたいが、市内のある不動産業者はこんな懸念も示す。
 「エクス跡のタワマンの総工費は当初額で約85億円。いま建設資材、輸送コストがうなぎのぼりで増額は避けられない。マルカツ跡にそれ以上の規模のビルを建てるとなれば事業費は100億に達する。失礼だが、知名度も大きくない札幌の不動産グループにそんな大事業は無理ではないだろうか?」。遠藤氏自身は「信頼関係の深い事業パートナーが数多くいる。マルカツの後に購入した中川ビル(4条7丁目)はテナントビルとして運営していく」。買物公園での事業推進にあくまでも強気の姿勢だ。

表紙2206
この記事は月刊北海道経済2022年06月号に掲載されています。