墓碑銘 元道議 青木延男氏

 6期24年道議を務め〝暴れん坊〟の異名をとった青木延男が老衰のため1月5日に89歳で死去した。選挙が近くなるとダミ声で檄を飛ばし、べらんめぇ口調で知事だろうが市長、国会議員だろうがケチョンケチョンにこき下ろしたが、口は悪いが頼りになり、さっぱりとした人柄から多くの人に慕われた。保守と革新が激しく対立した時代に、五十嵐広三革新市政、横路孝弘革新道政を誕生させた立役者だった。(文中敬称略)

東条英機の一言
 弁当は出る、酒盛りは始まる─昭和時代の選挙事務所風景は今とはまったく様子が違った。事務所には届いた酒が山ほどあった。
 保守と革新が激しく対立した時代に旭労(旭川地方労働組合会議)事務局長を務め、革新陣営の参謀として各種選挙の陣頭指揮をとった青木は酒豪といえるほどの酒好き。選挙期間中、その日の活動を終えると主だった者たちと酒宴を始めたもの。もっぱら日本酒の燗(かん)。真夏だろうが、選挙事務所台所にあった大きな鍋に一升瓶の酒をそそいで燗をつけた。
 腰を据えてとことん飲むタイプで、各種の集まりでも最初の会場でたっぷりきこしめして2次会、3次会へ行くことはめったになかった。どこで飲んでも、できあがると、愛妻の邦子がクルマで迎えに来た。外に出たら声の大きい口の悪い親分だったが、家庭人としては妻と娘を大事にする夫であり父だった。
 酒に酔ってよく「俺は旭川商業も出ている、旭川工業も出ている」と話した。2つの高校を卒業した経緯を、生前、本誌記者(本田)にこう話している。「戦況がいよいよ悪くなった昭和19年に、首相で陸軍大将の東条英機が第七師団激励のために来旭した。若い学生に声をかけ、その中に商業の男子学生がいた。緊張したのだろう、学生の声が弱々しかった。〝どこの学校だ。この非常時に第七師団の膝元で簿記などけしからん〟と東条が一喝して、旭川商業がなくなり、旭川第二工業高校に変わってしまった。俺は商業の学生だったが東条の一声で第二工業高校建築科の生徒となった。第二とついたのは、すでに工業高校があったからだ。翌年終戦。その後、学制改革が行われ商業も工業も道立として再出発するが、俺は商業を卒業した後、工業も卒業した」

組織づくりの才能
 生まれたのは1930(昭和5)年。前年にウォール街大暴落が起き、青木が生まれた年に世界恐慌が始まった。まさに激動の時代だった。
 父誉太郎、母タノの5人目の子どもで、上に兄と姉が4人いる末っ子。「親父は大の風呂好きで、俺が生まれた常盤の家の隣が銭湯だった」(青木)
 やんちゃで負けん気が強い性格は生来のものだった。近所の子どもたちと遊ぶビー玉やパッチは、作戦を練って常勝。木箱を戦利品のビー玉やパッチでいっぱいにした。小学校の時から教師とぶつかることもたびたびあり、母親はよく学校に呼び出された。
 大陸での戦火は拡大を続け、41年には太平洋戦争に突入。戦況は徐々に悪化し、青木の兄・益男はアッツ島で戦死した。そんな動乱期に青木は商業に入学し、東条の一声で工業へ転籍となった。
 高校を卒業してすぐに「北海除虫菊工業」に入社した。和歌山の「キング除虫菊」の関連会社で、当時、旭川では大量に除虫菊が採れていた。
 しかし戦後の経済混乱は続いており、入社間もなく北海除虫菊でも指名解雇で人員整理が行われることになった。自身は対象でなかったが、解雇される従業員がかわいそうだと青木は中心になって会社側と戦った。騒動は終息するが、労使間騒動が広く報じられたことでイメージが悪くなったとして会社は社名を「北王製油」に変更した。青木は20歳を越えて間もなかったが、先の紛争での活動が評価されて北王製油労組組合長に就いた。
 旭労に所属し、中小対策部長、副議長を経て28歳の時に事務局長に就いた。ここで、組織作りという稀有(けう)な才能が花開く。
 中小企業で働く労働者の組織化を次々と実現して「中小労連」として集約した。その取り組みは中央の総評(日本労働組合総評議会)も「旭川方式」として高く評価した。
 青木事務局長の下で働いた旭労の元幹部は青木をこう評価する。
 「口が悪いので誤解する人もいたが、実際の青木さんは繊細で気遣いの人だった。強いところには一歩も引かずタテをつくが、小さいところ、弱いところは徹底して面倒を見た。労組の組織化では大きい組合に金を出させ、拠出が無理な零細組織は金の負担をさせず人だけ出させた。凡人では目がいきとどかないところを見つけて光を当てた。中小労連は青木さんだからつくれた。
 保革の対立が激しい時代だったが〝ノブさんは別格〟と、保守系の企業の社長さんも青木さんとなら会うことをいやがらなかった。旭一の工藤善美さん、日本メディカルプロダクツの山本信男さんたちは青木さんに一目置き親交を持った」

藤井との因縁
 青木が事務局長だったころの旭労は力があった。各種選挙で金も人も一番出した。五十嵐革新市政を誕生させたのは旭労、青木の力と言っても過言でない。
 前田善治で敗れ革新に市政を譲った保守自民は、67(昭和42)年の市長選で市政奪還を目指した。青木は考えた。「市長選の2週間前にある道議選で保守本流で若いながら風格のある藤井猛を落とし、自民党ながら同窓(旭川商業)で五十嵐に理解を示す佐藤幹夫を当選させなければだめだ。それが五十嵐2選への道だ」。藤井を落選させるべくいろいろやったと、生前、青木は話している。青木のもくろみ通り67年の道議選では佐藤が5位に滑り込み、藤井は次点に泣いた。
 71年に五十嵐が3選を果たし、74年は松本勇が佐藤幹夫を退けて革新市政を守った。75年には青木自身が道議選に出馬し当選。藤井も道議選で手堅く再選された。
 保守本流の道議藤井は旭川市政を奪還すべく自民の軍師として動き、78年市長選で坂東徹を立てて革新市政を破り、念願の市政奪還を実現した。
 これに対して社会党道本書記長となっていた青木は革新道政実現を目指して動く。市長選の敵(かたき)を知事選でという決意だ。何度も国会に足を運び横路を口説いた。横路は渋り大方の予想も「横路は出ない」というものだったが、青木の執念が通じ、横路も腹を決めた。そして83年4月の知事選で、自民党道本部幹事長藤井が擁立した三上顕一郎を横路が破り、革新道政が誕生する。
 藤井は道議を引退した後、2006年に病死する。追悼記事執筆にあたり記者は青木の自宅を訪ね思い出話を聞いた。青木はこんな話をした。

票読み3度
 「市長選、道議選、知事選で、藤井は自民党の軍師として、俺は社会党の切り込み隊長として激しくやり合った。といっても全面対立していたわけではないし、個人的には妙にウマが合った。各種選挙投票日の1週間くらい前になると藤井から俺のところに電話がきた。〝青木さん、時間あるかい〟。〝いいよ〟と答えて、1条にあった藤井の事務所に足を運んだ。そして事務所の一室で選挙直前情報を交換したものだ。昔、谷口甚角という自民党の参謀がいて票読みの名人だったが、藤井はこの谷口を尊敬していた。
 選挙に長くかかわり精通してくると、3通りくらいの票読みをする。俺と藤井も〝票はこんなところに落ち着くか〟と最初の読み。情報交換しながら〝それじゃこんな具合か〟と2番目の読み。またやりとりが合って3番目の読みが出てくる。互いに選挙のプロだからだいたい票読みは一致する。
 選挙から離れるとたびたび一緒に飲んだ。もっぱら日本酒で、2人ともへべれけになり、果てしなくしゃべった」
 自民と社会、対立する立場にあったが、お互いを選挙のプロとして認める〝戦友〟でもあった。
 青木は6期連続当選し24年間道議を務めた。
 「自身の選挙では細かな指示を出すことはなく〝ありがとう〟〝ご苦労さん〟と姿勢低くスタッフをねぎらっていた。選挙のすべてを知っているので、要(かなめ)となる者1人2人にだけ、どこかでやるべきことを指示していたのだと思う。青木さんとは対照的に五十嵐さんは何やかにやと自分の思い通りにしないと気が済まない人で、ルートが違うと選挙カーのドライバーの席を蹴って、ドライバーが〝やってられない〟と辞めていったこともあった。横路さんはさらに我がままで難儀をした」とは、元旭労の幹部。

選挙のプロ
 青木は99年、三井あき子を道議の後継に指名し政界を引退した。「これからは水戸黄門」と悠々自適な毎日を過ごすはずだったが、05年の佐々木隆博の衆院選に引っ張りだされた。極めて旗色の悪い状況下、かつての革新パワー、党・労・農を結集した組織選挙をやるしか勝ち目はないと、最高責任者で司令塔となる連合後援会会長ポストに据えられたのだ。青木は「旭川では勝てない。勝つのは宗谷線。ここで大差をつけて競り勝つ」との戦術を立て、「コラ、タカヒロ」と佐々木候補の背中を押して、戦術通りに勝利をものにした。「口は悪いが頼りになるノブさん」の本領を発揮した。
 55年体制下の革新の闘士・青木の冥福を祈る。

表紙2003
この記事は月刊北海道経済2020年03月号に掲載されています。
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