戦後の混乱期を象徴 旭川の「サムライ部落」

 かつて旭川市街と神楽町を結ぶ忠別橋上流の河川敷に「サムライ部落」と称される住宅群があった。住宅と呼ぶのもはばかられるような粗末な建物が多かったが、昭和20年代には最高で53世帯、約200人が暮らしていたという。先ごろ亡くなった歌手の藤圭子さんの一家も一時、ここで雨露をしのいでいたと言われるが、その〝集落〟ではどんな生活が営まれていたのか─。

記録に残っていない〝集落〟
初めに断っておくが、「サムライ部落」とはあくまでも当時の通称。役所では「厚生部落」と呼称されており、関西のいわゆる被差別部落とはまったく性格を異にする。今風に言えば、粗末ながらも居を構えるホームレスたちの小さな集落と言えるかもしれない。
サムライ部落と称されるものは、旭川のほか札幌や函館、小樽にもあった。一番知られているのが札幌白石地区の河川敷にあったもので、昭和初期から札幌冬季五輪が始まる40年代中頃まで150世帯ほどの集落を形成していた。
サムライ 歴史の中に現実に存在していながら、どこの街でも記録としてはほとんど残っていない。旭川でも旧旭川市史に若干触れられているだけで、本誌が今回この記事を書くために、市に「サムライ部落に関する記録はないか」と問い合わせてみたところ、「関根さんの著書に書かれているくらいで、その他の記録はない」との回答だった。
その「関根さんの著書」とは、元旭川市議会議長の関根正次氏がまとめた「旭川の橋」(旭川叢書、1991年刊)のことで、「忠別橋」の項には次のように記されている。
─(サムライ部落は)大正末期か昭和初期には既に相当数の人家があったようで、さらに戦後は引き揚げてきて住居に困った気の毒な人たちも住みつき、昭和29年には38世帯が生活を営んでいたようで、ちょっとした町内会並みであった。
河川改修や美観上の問題から昭和39年5月に、旭川市の斡旋で17戸が他の地区へ移転、残りは新築等自力で転居していった。しかし、その直後から2軒の自動車部品販売業者が住みつき始め、ポンコツ車を山積みしていた時期が続いた。
昭和58年7月に、忠別橋(4代目)の拡幅工事着工に伴い、この2業者も行政指導に従って移転していった。山積みのポンコツ車は、粗大ごみ扱いで河川管理者の北海道開発局によって処分された。
今は見事な河川公園となっている河川敷であるが、実に今昔の感に耐えない─
著者の関根氏に話を聞いてみたが、この記述は主に忠別橋の近隣に住む人への聞き取りでまとめたもので、その時もやはり記録らしいものは残っていなかったという。なぜか、行政にさえ文献はないというサムライ部落。このまま旭川の歴史から忘れ去られていくのだろうか。

(続きは月刊北海道経済10月号でお読みください)