株式会社北海道経済は月刊誌の制作に加え、適宜、単行本の発行も行ってきた。大手出版社のような全国発売はできないものの、地元の出版社として地域に根差した本を数々送り出してきた。出版物の内容とともにそれにまつわる人々、出来事などを紹介しながら55年間を振り返ってみる。
創刊20周年記念で観光ガイドブック発行
1966(昭和41)年11月にスタートを切った当社は、まずは月刊誌の発行に専念した。もっとも、社内にはそれ以上のことができる余裕はなく、資金的にも自転車操業だった。誌面には企業紹介シリーズや連載小説も掲載しており、連載の区切りで単行本として発行することも考えられた。しかし、毎月1回の月刊誌を発行することで精一杯の状態が続き、、出版社に求められる幅広い文化事業の面ではきわめて不十分だった。
昭和50年代に入り、本誌が通巻100号を越えたころからはいくらか余裕が出てきたこともあり、頼まれて「自費出版」のお手伝いをすることはできるようになっていた。とはいえ、会社が資金を出して単行本を発行し販売するというところまではいかなかった。
初めて出版元となって制作、販売したのは1986(昭和61)年に月刊北海道経済創刊20周年記念として発行した旭川観光ガイドブック「ぐっと・るっきんぐ あさひかわ」だった。B6版サイズ(本誌の半分の大きさ)のコンパクトな作りで、全面カラー200ページのボリューム。
旭川市内の歴史、文化、観光、味どころなど、マチの魅力を最大限に楽しむためのガイドブックで、市内の広告代理業者、印刷業者と協力しながら半年がかりで制作した。正直なところ編集作業は委託業者に丸投げしたようなものだったが、本誌創刊20周年記念という信用度も加味され、販売面では当時市内に40店以上あった書店が力を入れて店頭に並べてくれた。
インターネットがまだ普及されていなかった時代で、この種の本の需要が高かったこともあり、出版事業としてはそれなりの成功を収めた。その後、定期的な発行も考えられたが、残念ながらそれっきりになっている。
その代わりというわけでもないが、2006(平成18)年からは、年1回発行の「旭川グルメマップ」を出版している。市内で月刊旭川春秋を発行していた会社(檜山修社長)が手掛けていた出版事業を第20号から引き継いだもので、飲食店、みやげ品店を中心に旭川観光の手引きとなる内容を掲載、市内のホテル、旅館などに無償配布し、それを観光宿泊客にサービスで配布してもらうというシステムを取り入れた。
その後、掲載範囲を美瑛、富良野にまで広げ現在に至っているが、今年発行するはずだった第34号はコロナ禍の影響もあり、出版を見合わせた。観光客の入り込みが戻り、発行を再開できる日が近いことを願っている。
旭川人名年鑑・人名録 いまや貴重な歴史本に?
1980(昭和55)年、1992(平成4)年、1997(平成9)と3度にわたり発行したのが「旭川人名録」だった。最初のものは旭川開基90周年を記念して「旭川人名年鑑」のタイトルで発行した。主に政財界の旭川在住の人物を顔写真付きで掲載し、出身校や家族構成、趣味、公職を紹介した。
そのころ、月刊あさひかわを発行していた会社(渡辺三子代表)が先発で小規模な紳士録を出していたが、当社のものはそれをさらに充実させた内容で、掲載人物も幅広い分野に及び、マチを動かしている人々がよくわかると好評を博した。
2冊目、3冊目は「旭川人名録」と名称を変え、5年に一度改定する構想で、日ごろの資料集めを欠かさなかった。制作手法は、官公庁を含む各種団体、企業の役員ら約3000人に案内状を発送し、自分の履歴書を書くつもりで所定の項目に記入してもらい、顔写真を添えて送り返してもらうようにしたが、2000人近くから回答があり、きわめて内容の濃い人名録となった。
月刊誌の発行を続けながらの制作作業で、少ない社員が悲鳴を上げる日々が半年間ほど続いたが、他都市では例を見ない中身の濃い人名録を作ることができた。
マチは常に動いており、活躍する人々の顔ぶれも変わる。5年に一度は改訂版を発行する計画だったが、生年月日から自宅住所、電話番号、家族構成まで掲載されることに危険性を感じていた人もおり、さらに個人情報保護法の成立によって、個人の情報を集めて紹介することができなくなり、旭川人名録の制作は断念せざるを得なくなった。
そのため、現存する最新の個人情報は25年前に発行したものとなり、その中身を見ると少なくとも5人に1人は他界されている。いまとなっては旭川市の貴重な歴史本と言えるかもしれない。
教育委員会と協力 旭川の歴史まんが
当社出版物の中で、販売を目的に制作したのが「歴史まんが旭川100年」だった。旭川市が開村100年を迎えていた1990(平成2)年に、次代を担う子どもたちに旭川の生い立ちを知ってもらおうと、読みやすく、わかりやくするため、あえてまんが本にして発行した。いわば「旭川市史」の簡略漫画版である。
対象とする読者を市内の小学生とし、社会科の副読本のようにして使ってもらいたいとの思いを込めて制作した。作・大沼克之、画・幡野由枝で、ともに旭川在住の人にお願いした。同時に教育委員会を通じて学校の先生方にも監修を依頼した。当時は、大手出版社が学習まんが「日本の歴史」シリーズの発行を始めていたこともあり、学校側も当社のまんが本の制作には強い関心を示してくれた。
準備から完成まで1年近い期間を要したが、結果は予想を超える反響で、正式な副読本としての採用はならなかったが、各学校やPTAの理解を得て、大半の小学生が定価1200円の本を購入してくれる結果となった。
その後、学校関係者の勧めもあって6年後には改訂版を出し、12年後の2002年には旭川市教育委員会が編集・監修する「歴史まんが 旭川物語」と体裁を変えて発行することになった。
旭川で育った35歳くらいまでの市民なら、必ず一度はどこかでこのまんが本を読んでいるはずだ。もちろんその親たちも目を通しているはずで、手前みそで恐縮するが、読者数は、旭川で出版された本の中で最大のものと言えるのではないか。
販売好調だった「旭川周辺の生きものたち」
月刊誌制作の合間を縫って出版の仕事も行っていた当社が、社内に出版事業部を設け、本気になって取り組んだのが1997(平成9)年1月に出版した「旭川周辺の生きものたち」だった。著者は旭川市立末広北小学校校長を最後に教員生活を終えた建脇宏安さん。
建脇さんは長年にわたり市内や上川管内の小中学校で教鞭をとりながら、自ら野山を歩いて培った植物や昆虫の豊富な知識を子どもたちに伝えていた。撮りためた写真は膨大な数にのぼり、それを生かして一冊の本にまとめたいという依頼を受け、教育分野の出版をいくつか手掛けていた当社(出版事業部)が全力で発行の手助けを行った。
A5版310ページで全ページカラーの体裁。旭川周辺で見られる植物(山菜・キノコ)や昆虫、動物を中心とする数多くの生きものを写真と解説文で紹介し、野山を歩く子どもたちが手に持ちながら身近な自然を学べるように工夫を凝らした。
「野山がもっともっと楽しくなる本」として市内の書店に並べると、定価2000円のものが飛ぶような売れ行きで、2000部の在庫は発売から1年もたたないうちに品切れとなった。当時、山菜やキノコの全国対象の図鑑はいくつか出版されていたが、旭川周辺に絞ったものは初めてだったことも売れ行きに拍車をかけたようだ。
その後何年も「あの本はもうないのか?」といった問い合わせが絶えなかったが、著者の意向もあって残念ながら再販は行っていない。
旭川の課題に切り込んだ「西田勲の10年100論」
月刊北海道経済の巻頭言でもあった当社の西田勲社長(当時、現会長)が毎号執筆していた「自由論壇」(その後『今月の視点』と改題)の中から選りすぐったものを一冊にまとめて出版したのが「西田勲の10年100論」だった。
1980(昭和55)年2月号の「100万人も夢ではない旭川市の人口」から始まり10年後の「負けて悔いあり五輪招致運動」までの100編を取り上げており、その中身は旭川や近郊のその時々の関心事を著者なりの切り口、語り口で提言しているものばかりを集めた。
旭川市が革新市政時代から保守市政に変わり、人口も35万人を超え、まだまだ成長が見込める時代だっただけに、行政や経済、医療、文化など各界にわたって考えるべきことが多かった。そうした身近な課題や問題を取り上げて張った論陣は、読者から喝采を浴びることも多かった。それらを集約したのがこの本で、当社の記録としての意味合いもあったが、書店に並べると予想以上の反応だった。
当時の旭川商工会議所会頭の小檜山亨氏と優佳良織工芸館織元の木内綾氏が推薦文を寄せており、「取り上げる話題の適切さと掘り下げ方の鋭利さに驚く。全部の都市にみられる共通の課題を旭川に準用するという形ではなく、旭川に住む市民がわが街を変えるという視点が現実味のある提言となっている」(小檜山氏)、「私は北海道経済誌をいつも自由論壇から読み始める。読んだ後の爽快な気分は気持ち良いものである。イキのよさを支えているのは旭川を思う真情だと思う」(木内氏)。
このお二人の寄せ書きが「西田勲の10年100論」の内容を物語っている。昭和時代の「徒然草」ともいえる内容で、出版した当社にとっても貴重な記録の一つである。
亀畑義彦教授の珠玉の名編3冊
「北の物語」「オリンピックの戦士たち」「小説旭川の百年」
月刊北海道経済に連載した記事を連載終了後に一冊の本にしたものがいくつかある。代表的なものが「北の物語~戦後の旭川経済を築いた人々」(1988年3月)、「オリンピックの戦士たち~旭川冬季五輪招致に挑戦した市民たちのヒューマン・ストーリー」(1990年6月)、「小説旭川の百年~時ときめいて」(1994年10月)の3冊。いずれも著者は北海道教育大学旭川校教授(退職後に名誉教授)の亀畑義彦氏。
亀畑氏は同校助教授時代から本誌へ数々の投稿を続けてくれた。経済学博士であり、主に旭川の経済界での動きを中心に執筆活動を展開したが、教育者の立場をいかんなく発揮し、実例をもとにした「若者の育て方」についても珠玉の作品が多かった。
「北の物語」は戦後の旭川経済発展の礎となった旭一旭川魚菜市場(現キョクイチ)初代社長の筒井英樹氏、ホクト電球工業(現東芝ホクト電子)の創業者山本英一氏、旭川信用金庫初代理事長の西山勲氏の3人を中心に、時代を駆け抜けた経済人の姿を描いた実話をもとにした歴史小説。
「オリンピックの戦士たち」は、1992年の冬季五輪を旭川で開催しようという全市民が一丸となった5年以上に及ぶ市民運動の様子を詳細に描いたもので、1984年2月に発足した旭川冬季オリンピック招致を考える会(西田勲会長=当社社長)がその後期成会へと規模を増し、さらに旭川市や市議会、商工会議所などを巻き込んだ招致委員会へと発展した市民運動の経緯をつぶさに記録した。
1988年6月の国内候補都市一本化を図るJOC総会で長野に敗れ夢はかなわなかったが、旭川始まって以来の保守も革新もない、一つの共通の目的に向かって突き進む、正真正銘の市民運動があったことを後世に伝えようと亀畑氏が本誌に連載し、終了後に出版した。
「小説旭川の百年」は、旭川の開拓期以来の歴史上の人物に焦点をあてたもので、亀畑氏が50歳のころから研究の合間を縫って書き進め、58歳で完成した。
上川アイヌの首長クウチンコロから始まり、歴代の旭川市長(町長・区長)、商工会議所会頭はじめ、各界で功績を残した人物の姿を小説風につづった。市が発行する旭川市史とは違った読み物語で、旭川人の魂を感ずる内容。亀畑氏はあとがきの中で次のように書いている。
「私が、売れもしないこの小説を書いた目的は何だったのか。最初は、生き生きと時めいて旭川を作り上げた人たちの大まかな百年の歴史を知りたいという漠然とした気持ちだった。それが次第に『会期百年を迎えた旭川が、開基二百年に向って歴史を刻む時に、やがて忘れ去られるであろう開拓期から今日の旭川を築き上げた人たちの真情を残しておきたい』というものに変わっていったのです」
亀畑氏は当社の出版物以外にも数々の学術論文、啓蒙的著作を世に送り出しており、旭川医大の吉田晃敏学長との共著「遠隔医療」も残している。2012年5月30日に逝去され、遺作には「旭川西高3年B組」もある。
機会あれば今後も
当社ではここに挙げた出版物のほか2008年に幕を下ろした㈱アサヒビルの54年間の歴史を振り返る記念誌などいくつかの企業の社史の編集にも携わってきた。旭川の政治、経済、文化と半世紀以上にわたり歩みを共にしてきた当社ならではの社会貢献と言ってもよいのではないか。
インターネット全盛の時代に入り、紙文化の衰退傾向は目に見えているところだが、なくなることはないと思う。今後も適宜、紙の出版事業を続けていきたい。
この記事は月刊北海道経済2021年12月号に掲載されています。