旭川医大 「生え抜き学長」の暴走なぜ?

旭川医科大学の学長選考会議が6月24日、吉田晃敏学長の解任を文部科学大臣に申し出た。同会議や、調査委員会が指摘した数々の不正が事実だとすれば吉田氏本人の責任は重いが、教授陣や役員など周囲の人物がもっと早く行動していれば、ここまでの事態にはならなかったはずだとの見方がある。旭川医大に異常な長期独裁を招いた要因を探った。

昔から本質変わらず
 6月28日夜、旭川市内のホテルで旭川医大学長選考会議の西川祐司議長(副学長)らが記者会見を開き、吉田学長の解任を文部科学省に申し出たことを明らかにし、決定に至った理由を説明した。
 質疑応答で記者から、14年間の長期にわたり吉田学長の任期が続いたことがガバナンスの崩壊につながったと思うかと問われた西川議長は、はっきりと答えた。
 「はい。私はそう思っています」
 しかし、本誌が話を聞いた旭川医大の元教員は、長期のうちにガバナンスが少しずつ歪められたとの見方を否定する。「吉田学長の本質は昔も今も何ら変わっていない。変化があったとすれば、それを表に出すようになったこと。もうひとつ変わったものがあるとすれば、長い間、吉田学長に異を唱えずに黙々と従い、いまになって反旗を翻した医大の教授たちだ。一度でも吉田学長の『毒まんじゅう』を食べた人たちの罪は重い」
 吉田学長本人は文科省宛に辞表を送付したが、まだ受理はされておらず、吉田氏の立場は今も「学長」。だが、理事の松野丈夫氏が学長職務代理に任命され、吉田学長の職権は停止された。

多数派工作を経験
 学長の「長期独裁」は一夜にして成ったわけではない。開学以来のさまざまな要因が、〝モンスター〟が誕生する素地を作った。
 1992年、旭川医大眼科学講座の教授となった吉田氏は当時まだ40歳の若さ。自ら学長の座を狙う力はなく、清水哲也学長(1991~97年)に近い教授グループの一員として、多数派工作を担った。この時の経験が、自らが学長となり、権力を一手に握る過程で役立ったとみられる。
 2007年、吉田氏は学長選挙に出馬して、現職の八竹直氏を含む2人の先輩教授を破って学長に就任した。その背景には「旭医ナショナリズム」の勃興があった。開学以来、旭川医大の教授ポストは、北大医学部と札幌医大の出身者が分け合い、一部を他の旧帝大の出身者が占めていた。学長ポストは一貫して北大OBの間で受け継がれてきたが、大阪大学出身の八竹氏が2003年に初めて学長に就任したことで独占が打破された。1973年の大学設立から30年が経過したころから、旭川医大OBの中で「いつまでも外部の人材が幅を利かせているために、我々は肩身が狭い」といった不満が漏れるようになった。「次は旭川医大卒業者を学長に」との期待を一身に受けて学長に当選したのが、旭医一期生の吉田氏だった。
 ただ、一部ではあったが、吉田氏が国立医大学長になるのに十分な資質を備えているのか疑問視するむきもあった。ある人物が当時を振り返る。「当時の彼が十分な研究の実績を積み重ねていたとも、立派な人材を育てていたとも思えない。もっぱら学内の政治に熱中していた彼は、ポリティシャン(政治家)だった」。そのような批判を、吉田氏は意に介さなかった。

世間知らずの教授たち
 学長になった吉田氏が医大を掌握する上で巧みに使ったのが人事だった。まず、重要な講座の教授には自分の眼鏡にかなう人物を起用した。国立大学の教授は公募が原則だが、「旭川医科大学教授選考細則」によれば、学長は①公募方法を決定し②教授候補を推薦することができ③選考委員会の議長を務めることになっている。公募に有望な人材が手を挙げても学長の気に入らなければ迎えられず、逆に吉田学長が「余人をもって代えがたい」などの抽象的な理由で後押しすれば提案がそのまま通った(吉田学長があまり関心を持たない領域の教授は公募ですんなり選ばれることもあった)。
 こうした教授選びを、吉田学長が始めたわけではないとの指摘がある。「八竹学長の時代、教授が次々とやめて人手が足りなくなったことがあり、現在のようなしくみに変更された。一部の教授や事務方から反対の声が上がったが、結局は八竹学長の意向通りとなった。それをうまく活用したのが後任の吉田学長だった」と、当時の事情をよく知る人物は語る。
 吉田学長は、副学長や理事などの人事もフルに活用した。これらの役職には手当が付き、退職金の金額も増える。お金が欲しいのは庶民も大学教授も一緒。要職に就いた人はほとんどが吉田学長の「イエスマン」となった。
 しかし、大学教授といえば秀才ぞろいのはずだ。そんなに簡単に吉田学長に操られてしまうものなのか─そんな疑問を抱く記者に、ある人物が明快な答えを示した。「大学教授は社会の厳しさを知らない温室育ちばかり。策略に長けた吉田学長に簡単に洗脳されてしまった。本来、大学の教員は学生や研究のために何をすべきなのか、何をしてはいけないのかをベースに考えるものであり、実際、他の大学ではそうした原則に従って活発なディスカッションが行われるが、旭川医大では他の大学に人脈がない人も多く、そうした原則がわからないままに操られてしまった」。
 ある現役教授も、一部の教授が吉田学長を公然と非難するようになるまで、教授会は学長の考えに追従する機関となっており、実りのある議論が行われたことはほとんどなかったと指摘する。

個人PRのページ
 コロナ禍で「吉田学長」が全国的に知られるようになるまで、旭川医大のポジティブな情報は「吉田学長」という名前とともに報じられることが多かった。本誌も何度か、吉田学長による遠隔医療や医療ツーリズムへの取り組みを記事の中で紹介してきた。
 7月1日現在、旭川医大眼科学講座の公式ページに、もう「吉田晃敏」の名前はなく、過去の歴史にも触れていない。しかし、吉田氏のこれまでの業績をアピールするウェブページ「吉田晃敏 未来の展望鏡」(www.pr-yoshida.com)が学外に残っている。トップページには「皇室行事『講書始の儀』に陪席させていただきました」(2019年1月11日)など、吉田氏個人の活躍をアピールするような情報が写真付きで並んでいる。8Kハイビジョンを使った網膜の3D撮影機器の検証が始まったことを紹介する文章には、えんじ色のチョッキを着て機器を操作し、網膜の拡大画像に見入る吉田氏の画像が4枚並ぶ。最終更新は昨年2月。昨年冬からの旭川医大の騒動は掲載されていない。
 このページのアドレスは、札幌に本社を置くS社が登録していることがわかった。S社はソフトウェア開発、ネットサーバーの管理などを手掛ける企業。遠隔医療用のネットワークシステムも販売している。つまり、吉田氏が盛んに実績をアピールしている「遠隔医療」関連の企業ということになる。本誌はS社に、旭川医大との取引の有無、ページの開設費用を誰が負担したのかなどを質問したが、「当時の担当者が数年前に辞めているため、まったくわからない」とのことだった。

学長解任の申し出を明らかにした記者会見


 サイトが開設されたのは2003年で、吉田学長の誕生よりも早い。しかし、インターネットやマスメディアを通じて実績をアピールする手法に対し、冷ややかな視線を向ける研究者もいる。「遠隔医療のほとんどは民間の企業が作った機器を活用しているだけ。吉田氏の研究室が特許を取得したわけでもなく、実質的な意義は乏しい」
 なお、このサイトには吉田氏が世耕弘成経済産業大臣(当時)や橋本聖子参院議員(現在は東京五輪組織委会長を兼任)と一緒に収まった写真も掲載されている。政界とのパイプを物語る一枚だが、昨年冬からの騒動で、こうした人脈は効果を発揮しなかったようだ。

今も返り咲き狙う?
 旭川医大の学長選考会議が吉田学長の解任を文科省に申し出たことで、焦点は文科省がいつどのような判断を下すのかに移った。当面は学長職務代理が日々の学長職務を代行するが、いつかは次の学長を決める選挙が行われることになる。
 現時点で「吉田学長の時代は完全に終わった」との見方が支配的だが、吉田学長の性格をよく知る人物は「そう簡単には終わらない」と語る。「吉田氏はこれまで一貫して攻撃的だった人。反省したり退却したりしたことがない。調査委や学長選考会議が指摘した一連の問題行動を、吉田氏が認めたわけではなく、次の学長を決める選挙に吉田氏が出馬する可能性さえある。スキャンダルにまみれて辞任した政治家が、『有権者の信を問う』として再出馬に挑戦するのと同じだ」
 実際、旭川医大の現在の役員の中には、学長職務代行に選ばれた松野氏をはじめ、長年にわたり吉田学長を支えてきた人物が数多く残っている(松野氏は昨年、古川病院長の解任に賛成した人物)。学長選考会議が結論を出した後もこの問題について口をつぐんでいる人が多いのは〝復活〟の可能性を危惧しているからなのかもしれない。

空席教授ポスト多数
 吉田氏に代わる学長が選ばれるとすれば、その人物はいくつもの課題に直面することになる。
 まず、空席となっている教授ポストの補充。基礎医学では微生物学、臨床医学では内科学の多くの分野や精神医学、小児科学、眼科学、麻酔・蘇生学、救急医学などの講座でトップの教授が空席となっているのだが、吉田学長の下での旭川医大の実態が全国の研究者の間で広く知られるようになり、優秀な人材に敬遠されているとの指摘がある。ただし、吉田学長の下で選ばれた旭川医大教授による不祥事が相次ぎ、解雇、停職などの処分が下されたことを考えれば、拙速な選考は危険だ。
 もう一つは研究資金の獲得。中でも重要なのが文科省から支給される科研費だが、2020年度の国立大学別科研費新規採択件数ランキングで、旭川医大は合計47件で56位。内訳をみると基礎研究A(3~5年、2000~5000万円)の採択はひとつもなく、基礎研究B(3~5年、500~2000万円)が2件、基礎研究C(3~5年、500万円以下)が25件。残りの大半が若手研究となっている。旭川医大とほぼ同時期に設立され、その後他の総合大学に吸収されていない単科の医科大学と比較すると、浜松医科大学は採択件数合計100で33位、滋賀医科大学は63件で46位と、いずれも旭川医大を上回っている。
 次の学長に誰が選ばれるのか、現時点ではまったく見通しが立たないが、誰になるにせよ旭川医大の立て直しは難しい仕事になりそうだ。

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この記事は月刊北海道経済2021年08月号に掲載されています。
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