見知らぬ老婆が近づきこう言った。「見てほしいものがある」。1976(昭和51)年9月、上川管内幌加内町朱鞠内湖畔の食堂で友人と飯を食っていた殿平善彦(78)=深川市多度志、一乗寺住職=は、乞われるまま近くの朽ちかけた無住の寺にいざなわれ、そこで朝鮮半島出身者とおぼしき無数の放置された位牌を見る。忘れ去られようとしていた近代史の暗部が照らされた瞬間だった。(記事中敬称略)
すべてを見ていた湖畔近くの光顕寺
「朱鞠内に住むおばあちゃん、おじいちゃんは、そこで何があったのか知っていたんだな。『なんとかしてほしい』って言われたよ」。朝鮮半島出身者とおぼしき無数の位牌を前に、近くに住む檀家の古老が殿平に昔、何があったのかを口にした。
粗末な食事、過酷な労働、逃げないようときに身体を拘束したとされる。逃げてつかまれば棒頭(世話役・幹部)が、見せしめとしてこん棒で叩き、こぶしで殴った。ときにタコ部屋労働とも言われた。
1935~1943年、名雨線(後の深名線)と雨竜ダム(朱鞠内湖)の両建設工事で多くの朝鮮人・日本人が強制労働させられた。道の1999年発表によると、道内の戦時下の朝鮮人の労働者数は15万人前後を数えるという。両工事では数千人の日本人に加え、3000人を超える朝鮮人が酷使された。「朱鞠内は最も過酷で最後の強制労働があったところだと思うよ」(殿平)
原生林に囲まれた国内最大規模の貯水量を誇る雨竜ダム(朱鞠内湖)の近くにたたずむ光顕寺が、〝そのすべてを見ていた〟。日本人150~200人、朝鮮半島出身者50人前後が命を落としたとされる。遺体は現場近くの光顕寺に運び込まれ、一夜の弔いを受け、近くの山野に埋められた。
光顕寺本堂裏から80基余りの無縁の位牌を見つけた殿平は、埋もれた近代史に光をあてる「空知民衆史を語る会」(後の空知民衆史講座)を立ち上げ、調査を重ねる。1980年、朱鞠内地区に住む古老の証言を基に、志半ばで命を落とした朝鮮半島出身者らの遺骨発掘を始めた。近くの山野の笹がびっしり生い茂るところだった。
「目の前に遺骨が出てくる衝撃だな、それは今も忘れることはできないよ」。殿平は、土にまみれた人骨を目の当たりにする。有志らで発掘作業に汗を流す。その発掘・調査活動の拠点と改葬・追悼の場が光顕寺だった。
殿平ら空知民衆史講座のメンバーは、幌加内町役場に保存されている「埋火葬認許証」と光顕寺に残る「過去帖」を突き合わせ調査を重ねていった。
埋もれた歴史の暗部が次第に明らかになるにつれ、殿平ら空知民衆史講座のメンバーに一つの思いが芽生える。苦い過去を正面から見つめる場所・機会を持つことは、国籍や考え立場の異なる人たちを一つの深い感慨へといざなうのではないか、と。
光顕寺の管理を檀家から委ねられた殿平は、有志らとNPO「東アジア市民ネットワーク」を立ち上げ、1995年、光顕寺本堂を強制労働の史実を後世に伝え日韓と東アジアの和解と平和の物語を紡ぐ「笹の墓標展示館」として開設する。光顕寺は、新たなスタートを切った。
館内には、強制労働で犠牲になった朝鮮半島出身者らの位牌や遺品、記録写真などを展示し、近くに住む田中富士夫が館長を担い、大切に〝かわいがってきた〟。
強制労働の史実伝え国籍を越え和解の道
強制労働資料館としてのハード・ハコ物を整えたということにとどまらない。特筆すべきは、1997年以降、韓国・日本・在日コリアンら若者が、「笹の墓標展示館」(旧光顕寺)に集うワークショップを展開し、力を合わせて強制労働犠牲者の遺骨発掘に汗を流してきたことだ。「加害・被害の枠を越えて日本と韓国らの若者が、悲惨な歴史と向き合い発掘した遺骨と出会う。思いを共有して、新しい関係を育てていったんだよ」(殿平)
日韓の若者らが、「笹の墓標展示館」(旧光顕寺)で寝食を共にし、スコップで遺骨を掘り起こす。夜は一緒に酒を飲み、ときに歴史認識をぶつけ合う。激論を交わしながら相互理解を深め、個々に人間関係を築いていった。国籍・考えや立場の異なる人を巻き込むグローバリゼーションをはぐくむ拠点が笹の墓標展示館だった。
これまでに朱鞠内地区では強制労働で命を落としたとみられる遺骨計23体を発掘している。1997年から続く韓国・日本・在日コリアン・中国・台湾・ドイツ・ポーランドなど世界各国の若者が集うワークショップの参加者は2000人を超え、戦争がもたらす痛みを、国籍・立場・価値観の違いを越えて共有することで、和解と平和の物語を紡いできた。その拠り所・笹の墓標展示館に立て続けに不運が見舞う。
朱鞠内地区は、国内有数の極寒・豪雪地として知られる。1934年建立の旧光顕寺の老朽は著しく、腐った壁を補強するなど館長の田中や有志らが手弁当で日曜大工をやるように修繕をしてきた。
さらに、毎冬、韓国・日本・在日コリアンら世界各国の若者が集うワークショップを開き、みんなで力を合わせて笹の墓標展示館(旧光顕寺)の屋根に積もった雪下ろしに汗を流し、面倒を見てきた。そんな最中に悲運が襲う。
老朽する建物ゆえに危ぐはしていた。2019年2月、笹の墓標展示館(旧光顕寺)本堂裏側に落ちた屋根雪の重みで建物が前側に15度ほど傾いてしまった。殿平らは、修復の可能性を探り専門家に見積もってもらったが、多額の費用が要るため無理と判断した。笹の墓標展示館(旧光顕寺)は、翌年に倒壊する。さらにもう一つアクシデントが襲う。
2021年12月、旧光顕寺の庫裏(くり)が焼失する。庫裏の屋根雪を下しやすくするために2階の廊下に設置したジェットヒーターのアクシデントだった。幸いにけが人はいなかった。庫裏は建築から70年以上が経過していたが、長年ワークショップ参加者らの宿泊・交流場所ともなっていた。
「和解と平和の歩みを逆戻りさせない」。殿平だけではない。「史実を伝える施設は必要だからね」。館長を担う田中もそう考えた。笹の墓標展示館の運営を担うNPO「東アジア市民ネットワーク」のメンバーを核に「笹の墓標展示館再生・和解と平和の森を創る実行委員会」(再生実行委、殿平・田中共同代表)を立ち上げ、クラウドファンディング(インターネット募金)を始めた。
思わぬ反響があった。
募金よびかけに著名人も
募金は、▽笹の墓標展示館の再建▽和解と平和の森の整備▽事務宣伝費─に使うことを明らかにし、善意を呼びかけた。
ノーマ・フィールド(シカゴ大学名誉教授)、小田博志(北海道大学教授)、池辺晋一郎(作曲家)、高橋哲哉(東京大学教授)、伊藤多喜雄(歌手)、川村シンリツ・エオリパック・アイヌ(川村カ子ト前館長、死去)……。国内にとどまらず、韓国・ドイツ・オーストラリア・アメリカなど世界各国から多くの人が善意を寄せ、呼びかけ人に名を連ねた。「貴重な施設が末永く伝えられることを願います」「過去の出来事を風化させない様、立派な展示館の再生を祈っています」─といった多くの温かなメッセージも届いた。
「これは(再生の取り組みは)一種の抵抗運動のようなものだよ。市民レベルの『残すぞ!』という意志表明でもあるわけだな」(殿平)。再建に向け2020年に始めた募金活動は当初3000万円を目標に掲げたが、2021年9月には目標の3000万円を突破する。
喜びも束の間、予期しない障壁が立ちはだかった。「建築資材が高騰して3000万円では再建できないことになった」(殿平)。原材料・部品調達といった一連の流れが滞るサプライチェーンの混乱や新型コロナに伴い生産・物流のめぐりが悪くなるなど複合的要因で建築資材は高騰していく。
落ち着くと思っていた。そうならなかった。資材の高騰がやまない。再生実行委は、目標募金額を上げざるを得なくなった。最終的には6000万円に。うれしいことに再建への熱い賛意が寄せられ、2023年秋、募金総額は5400万円に達した。募金に応じたのは延べ4000人を超え、2度、3度と募金した人もいた。実人数は2千数百人に上る。「3000円、5000円、1万円と多くの人たちから募金を頂いた。たくさんの人たちの思いが集まったんだ」。殿平は感慨深く語った。
実行委の構想によると、再建する笹の墓標展示館は▽朱鞠内地区での強制労働犠牲者らの遺骨・位牌の安置・追悼の場▽強制労働があった工事と強制労働犠牲者の遺骨発掘運動関連品の展示▽若者が集まり対話できる場─などを担う。
和解と平和の森に 展示館とともに整備
「建物(再建する笹の墓標展示館)は、スタートにすぎないんだよ」。再生実行委は、旧光顕寺周辺一帯の敷地2ヘクタールを「和解と平和の森」として整備する考えだ。雨竜ダム(朱鞠内湖)近くの道路脇にある「生命の尊さにめざめ民族の和解と友好を願う像」(通称・願いの像)を旧光顕寺境内に移設し、若者らがキャンプなどを楽しめるよう造成する構想を抱く。
温かな募金を基に笹の墓標展示館は昨年9月に着工された。豪雪地であることから、雪の重みに耐えられるよう鉄骨造りの平屋となる見通しだ。
「日本の戦後史の中で我々が克服しなければならないテーマがある。いわゆる軍国主義、植民地主義だな。アジアの人たちに与えた苦痛は大変なものがある。この反省がないですね。戦後の日本は(加害の事実を)無視してきた」。殿平は、サンフランシスコ講話条約(1952年発効)や日韓請求権協定(1965年締結)を核にした政治的解決で、〝乗り換え切符〟を得たとばかりに史実を顧みない戦後社会に疑義を抱く。
「史実を直視することで被害・加害の枠を越えて思いを共有し、相互理解を深め和解と平和の道を歩むことができる。政治や国家間の枠を越えてだな、国籍・考えや立場の異なる人を巻き込む市民運動のグローバリゼーションをはぐくむ拠点となるのが笹の墓標展示館を核にした和解と平和の森なんだよ」。さらに殿平は、こう続けた。「日本人が自らの意志に基づいて開設した強制労働の史実を伝える常設展示場所は国内では朱鞠内にしかないんだ」
史実を直視する機会を持つことで、加害・被害の枠を越えわきあがる平和への希求の思いが生まれる。その思いに導くのが笹の墓標展示館で、8月末には完成する見通しだ
9月27日完成祝賀ワークショップ
極寒・豪雪地として知られる朱鞠内の秋の訪れは早い。再生実行委は、周囲の原生林が黄や紅に染まる9月(27~29の3日間)、温かい善意を寄せてくれた人へのお披露目も兼ねて笹の墓標展示館の完成祝賀ワークショップを開く。錦秋が新たな門出を祝福してくれるだろう。
「見てほしいものがある」。48年前の秋、老婆がそう乞うた。以来、見てほしい─の思いを殿平ら再生実行委・有志たちは大切に紡いできた。あれから48回目の秋を迎える9月、笹の墓標展示館(旧光顕寺)は、「和解と平和」の物語を紡ぐ第2章に入る。