あさひかわ乗馬クラブ 百年の歴史

 「クラブの歴史を知るほどに、馬に対する先人たちの思いには、とても熱いものがあったと感じます」。今年、あさひかわ乗馬クラブ結成100年。女性初、最年少で理事長となった山崎明日香さん(37)は、この100年の節目にクラブを背負えることに大きな意味を実感し、さらに100年後の姿にも思いをはせる。(文中敬称略)

師団におんぶにだっこ
 新旭川市史(第三巻)によると、旭川でも祭典興行の一つとして、競馬は早くから盛んだった。しかし、馬術となると、「馬の飼育や調教など、直ちに民間に普及するには至らなかった」とある。当時、旭川中学校(現在の旭川東高校)の生徒が1916(大正5)年に陸軍第七師団騎兵隊で乗馬の練習を行った記録が残るが、正式に同校で乗馬部が発足したのは1930(昭和5)年。これとは別に、地域の乗馬愛好家20人ほどが意気投合し1922(大正11)年に産声を上げたのが、「旭川乗馬倶楽部」だ。
 その初代会長を務めたのが、退役軍人で当時の旭川市長、岩田恒。名誉会長には内野辰次郎第七師団長、顧問として複数の陸軍少将と警察署長、地裁所長らが名を連ねた。旭川市役所内の畜産課に倶楽部事務所を置き会員は当初50人程度だった。
 乗馬の練習は第七師団の騎兵第七連隊の覆馬場で日曜日ごとに行われた。騎兵連隊から手ほどきを受け、旭川体育協会創立30周年の記念誌には厳粛な中にも親切かつ熱心な指導を受けたことが「非常に楽しかった」と記述されている。
 記念すべき乗馬楽部第一回練習会(1922年4月16日)の様子は、「怖気立ちながらも落馬した者は無かった」などと写真付きで新聞各紙に報道された。続いて行われた第一回遠乗会(同年9月17日)は、騎兵第七連隊を午前7時に出発し、師団通、一条通、神楽岡を経て上川神社、旭山を150頭からなる隊列をつくって師団の騎兵連隊まで戻る約五里(20㌔)の道のりが行程だった。途中、東旭川の果樹園主からは果物が饗応(差し入れ)された。これ以後、遠乗会は戦前まで毎年春と秋に開催され約80人が参加し東神楽の義経台、東旭川の旭山公園を経て、比布にある蘭留、東鷹栖の突哨山など行程40㌔程度を行進したという。
 旭川乗馬楽部が結成されると、学生の間にも乗馬が普及し、旭川中学校だけでなく、旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)、今の旭川商業高校や旭川農業高校等に馬術部が設置され、各30人ほどの部員が在籍していた。ちなみに道内には札幌、小樽をはじめ美唄、砂川、士別、新十津川、白老、広尾などの地域に合わせて24団体あった。
 北海道乗馬大会は旭川乗馬楽部が主催し1923年から毎年7月ごろに第七師団練兵場で開かれ、道内のほか東北各地、首都圏や名古屋などからも多数参加した。「北海道乗馬というより、むしろ全日本馬術大会と言いたい盛況であった」と旭川体育協会記念誌にはある。29(昭和4)年の北海道乗馬大会には、世界的に有名な馬術家、遊佐幸平をはじめ、騎兵学校の馬術教官が一堂に会した。31年大会には女流選手の参加でとりわけ華やぎと活況を呈し、団体組では旭川乗馬楽部が優勝。35年には第七師団凱旋記念遠乗会が開催され、金星橋や師団通、三条通を経由し東旭川地域まで行進し師団に帰着した。
 軍馬2頭の払い下げを受け、貸付細則を定めて会員に貸し付けも始めたが、「第七師団にはおんぶにだっこ。強力なバックアップや指導を受けた」と元旭川市史編集課職員であさひかわ乗馬クラブ会員の斉藤真理子は話す。

表紙2207
この続きは月刊北海道経済2022年07月号でお読み下さい。
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