墓碑銘 五十嵐広三氏 〝革新の星〟まごころ政治貫く

 〝革新の星〟と言われ、地方自治、中央政界で活躍した五十嵐広三氏が5月7日午前5時18分、急性呼吸不全のため入院先の札幌市内の病院で死去した。87歳だった。本人の生前の希望で通夜・葬儀は行われず、近親者のみで密葬された。旭川市では〝名誉市民〟の功績と栄誉を称え、6月に「市民葬」を開く予定だ。

敵陣に一人で
落下傘降下した
1963(昭和38)年5月から74年9月までの11年5ヵ月間(3期)旭川市長を務めた五十嵐氏。初当選が決まった5月1日は第34回メーデー。市役所前のメーデー集会で、37歳の全国一若い(当時)市長が、会場を埋め尽くした市民の前で力強くあいさつした。
「私は今、皆さんの代表として市長に決定しました。しかし戦いはこれから始まります。皆様から寄せられたご厚情を根性としてたたき込み、これから4年、その後の4年を、旭川を爽やかな働くものの市政とするため全力を投入します」
日本社会党の公認候補として自民党の大物候補2人を敗って市長に当選したものの、世は盤石の自民党政治の時代。旭川市議会も保守系議員の天下で、後に五十嵐氏は初登庁の感想を「一人で敵陣に落下傘降下したようなもの」と語っていた。
当選直後「戦いはこれから始まります」と話した五十嵐氏の決意は、その後の革新市政下で生き生きと躍動した。
旭川市が50万人都市を目指していた市長時代の五十嵐氏の業績は語り尽くせない。
行政面では、人間都市を目標に対話の姿勢(1期目)、参加の市政(2期目)、市民主体(3期目)をテーマに自治体の民主化を進め、自治活動部の創設、まちづくり市民集会、移動市長室、市政調査員制度、自治センター、市職員の政策参加など、当時としては全国的にも斬新な試みで、地方自治の理想を具現化した。
五十嵐氏の市長としての功績を述べる際に必ず出てくるのは、全国初の歩行者天国「買物公園」の実現、旭川大学(経済学部)・東海大学(芸術工学部)・国立旭川医科大学の誘致、市立旭川北都商業高校の開設、旭川空港・木工団地・流通団地・鉄工団地・旭山動物園の造成、中原悌二郎賞・小熊秀雄賞の創設など。
時代の流れもあり、その後様々な変遷をたどったものもあるが、人間都市、文化・芸術都市を標榜した革新市長の持てる力を存分に発揮した、輝かしい功績である。
毎朝、職員に声をかけながら庁舎内を一回りしていた姿。職員を市長室に呼んで「この仕事では君が市長だ」と励まして送り出していた姿。職員の隣に座り、文字通り「膝を交えて」話し合っていた姿。一人っきりで市役所に落下傘で飛び降りた五十嵐氏は、職員の心をがっちりとつかみ取り、買物公園や医大誘致など、市民の大方が「不可能」と思っていた夢の政策を次々と実現していった。

地方分権と共に歩んだ国会時代
社会党陣営の強い要請に応えて出馬した2度の道知事選に敗れ、衆議院議員として政治家の再出発を果たしたのが80(昭和55)年6月。
中央政界に出た五十嵐氏は、市長時代からのライフワーク「地方自治・分権」実現のために、社会党の自治体局長、影の内閣では自治大臣として運動を推進した。「社会党が政権を取っていれば、間違いなく大臣、総理大臣候補」と言われ続けたが、連立政権が誕生した93年には細川護煕内閣の建設大臣、翌94年には村山富市内閣の官房長官に就任した。
内閣の一員となってからは「地方分権推進」を衆参両院の全会一致で議決させるとともに、ついに「地方分権推進法」を制定することができた。
国会議員は5期連続当選で16年3ヵ月務めたが、引き際は鮮やかだった。次回選挙からは中選挙区制が小選挙区制に切り替わる節目ではあったが、すでに旭川からの出馬が決まっていただけに、95年8月に「十分に燃焼し尽くした。いまが世代交代の時」と引退表明した時には、誰もが驚いた。
現役時代に成立を期した「アイヌ新法」は、政界引退後の97年5月に成立したが、その道筋をつけたのは間違いなく官房長官時代の五十嵐氏だった。旭川市長、衆院議員と駆け抜けた五十嵐氏の28年間の政治家人生は、共に歩んだ旭川市民の誇りでもあった。

芸術に造詣深い
まごころの人
旭川市長になる以前、自ら北海道アンデパンダン美術協会を立ち上げるなど、芸術分野に造詣の深かった五十嵐氏は、津由子夫人が集めた世界の人形を描いた自作の水彩画を年賀状に使うことが多かった。「彼にとって、街づくりや国づくりは総合芸術だったのかもしれない」と語る友人もいる。
親交の深かった三浦綾子氏は五十嵐氏を〝まごころの人〟と評し、「旭川市民で、五十嵐さんに『その場逃れの』『まごころのこもらぬ』『いい加減な』ことを言われた人が、一人でもいるだろうか」とも言った。五十嵐氏は、市民が政治家に抱く理想像でもあった。
記者は、衆院議員になってからの五十嵐氏に何度も取材した。新春インタビューでは特にテーマのない何気ない話に終始したこともあるが、会社に戻って録音テープを聞き直すと、取材現場では聞き流したことが、実に重要な意味深い話であったことが度々あった。
しかもテープ起こしは極めて楽で、語られたことをそのまま活字にしていっても文脈が整い、加えたり省いたりする必要はほとんどなかった。五十嵐氏は、文章を書くかのように話していたのである。
インタビュー記事を原稿段階で見てもらうこともあったが、加筆や削除などの修正はなく、どんな場合でも一時的な思い付きの発言をしていないことを物語っていた。
笑うとえくぼが可愛い、あの人なつっこい〝広ちゃんスマイル〟はもう見られない。

この記事をシェアする
  • URLをコピーしました!