「父は僕がやることを 喜んでくれると思う」川村晴道さん

4代目館長に就任予定の川村晴道さん(手前)と母の久恵副館長

 「父は僕がやることを(館長になることを)喜んでくれると思う」─。日本最古のアイヌ博物館「川村カ子トアイヌ記念館」(旭川市北門町11丁目)=私設=の3代目館長で、アイヌ文化の伝承指導・普及に努め先住民族の復権に取り組んだ川村兼一さんが亡くなって1年7ヵ月。館長不在のまま公費を投じた新館の工事が始まった。上川アイヌの人たちの新しい幕開けを告げるかのような槌音(つちおと)をBGMに、副館長の川村久恵さん、愛息・晴道(はると)さんが胸にしまう思いに耳を傾けた。(収録日 8/19)

現施設の隣り来夏オープン
─新館の建設が始まりました。
久恵 上川アイヌの首長だった川村イタキシロマが1916年に日本最古の『アイヌ博物館』を開設したのが始まりです。その後、川村カ子トが鉄道の測量で得た私財をなげうって建物を造りました。1983年に川村兼一が3代目を引き継ぎ運営をしてまいりました。
今の建物は1965年に建てたもので老朽化が進んでいました。そのためこの建物を維持するにはどうしたらいいのかということが出発点でした。公費をお願いするには改修は適用にならないため、旭川市と数年かけご相談して最終的に新しく建て直すことになりました。
旭川市が国に申請した交付金を充て、総工費はおよそ2億円です。
新しい施設は、今の記念館の隣りに整備します。鉄骨造り一部2階建て延べ380平方㍍ほどです。これまでと同様にアイヌの文化・生活を伝える道具や衣服などを見ていただく展示室や伝統舞踊の披露など各種イベントに使う多目的ホールを備えます。新しく調理実習室を整え、アイヌの食文化を紹介していきます。
1階にアイヌの古くからの文化・暮らしを、2階には近代以降のアイヌの紹介、研究室を設けます。研究室は私たちが要望したもので、日本海からオホーツク海にかけて分布した旭川を含む「西蝦夷文化」の伝承・研究をする場となります。詳細は決まっておりませんが、新しい施設は遅くとも来年夏にはオープンしたいと考えております。

木彫りの熊は旭川が生誕地
─木彫り熊について特別な思いがあると伺っています。
久恵 「アイヌの木彫り熊が始まったのは旭川なんだ」と伝えられるのは私たちしかいないと思っています。アイヌは生きるうえでヒグマとの真剣なかけ引きを経験してきました。そうして厳しい自然環境の中で明治以降の激変の時代を生き抜きながら木彫り熊を誕生させました。その歴史と意味を新しい施設で伝えたいと考えています。
サケも大きなテーマです。サケがいたからこそこの内陸で多くの人が生活できたと私は考えています。サケは、海と山をつないでいました。
川を遡上(そじょう)し、産卵して命を終えた魚体から出るミネラルなどの養分は、川を下り海を潤しています。こうした自然界でサケが果たしてきた役割を伝えていきたい。それと、幾人かのアイヌをとり上げ紹介もしたいと考えています。これまで個々のアイヌの功績や生きざまはあまり伝えられてこなかったので、名前だけでも知ってもらいたい。「あー、旭川のアイヌの人たちはこんなにも一生懸命に生きてきたんだ!」って伝えたいんです。近代以降も決してアイヌにとって楽な時代じゃなかったと思うんです。それでも強く生きてきたことを新しい施設で表現し伝えていきたいと考えています。

身にしみて思う 絶やしちゃいけない
─先の大戦はアイヌの人たちにも大きく影響を与えたと聞いてます。
久恵 沖縄戦に従軍していたアイヌもいました。戦死したアイヌもいっぱいいたんです。だけど知られていませんよね。知られていないことがいっぱいあります。うちの兼一(亡夫)のことですが、兼一の母親はアイヌに育てられた和人だったんです。そういう和人が数千人もいる。そうした近代の知られていない史実も新しい施設で伝えていけたらなと思っています。
─3代目館長の兼一さんが亡くなって1年7ヵ月経ちますが、4代目館長が空席のままです。
久恵 4代目はもちろん息子の晴道です。父親が早くに他界してしまったので年齢的にも若く心の準備もないままですが、主人も25歳で館長になっている。晴道も来年であれば24歳ですし、新館になるにあたって館長に就くのがいいのかなと考えています。最初は私がサポートしながらと思っています。役が人をつくることもありますから。
晴道 「(4代目として継ぐことは)父の一番の思いだったんでしょうから、僕が館長になることを喜んでくれると思います。昨年2月に父が亡くなりました。父が亡くなってもアイヌの儀式をやっていかなければなりません。伝統儀式・祭礼に伴う準備を父はずっと一人でやっていました。旭川のアイヌ全体のことを考えると誰かがやらないと、ほんとうにどうにもなりません。
父の病が見つかって一昨年東京から旭川に戻りました。亡くなるまでの8ヵ月間、父を看ました。自分は父からアイヌのことを習ったことがほとんどありません。ですから儀式の準備も分からない。旭川のアイヌの先人たちと縁のある方々に教えていただいて何とか儀式を続けています。正直やりたくないという思いもありますが、(アイヌ文化が)なくなってほしくはない。逃げることもできず、ただ、父が今までどういう思いでやってきたのかそれをすごく思います。身にしみて思うのは、とにかく絶やしちゃいけないということ、これが一番ですよね。

アイヌに生まれていい思いはない
─生まれて23年間、いろんなことがあったはずです。
晴道 アイヌとして生まれていい思いをしたことはないですね。中学生のときは、からかわれるなどいじめられもしました。アイヌであることを忘れるため東京に住んでいたときもありました。
─アイヌの人たちを取り巻く環境は厳しいと聞いています。
晴道 多くのアイヌが、アイヌであることを隠して生きています。アイヌであることを忘れるため旭川から去っていく気持ちは僕もよく分かります。だけど、アイヌであること、それはどこまでいっても変わりません。
アイヌがアイヌであることを誇りに思えるようにするのが新しい施設の大きな役割の一つだとも思っています。アイヌの人たちが集まれる施設でもありたいですね。
久恵 アイヌであることを隠している人もいますが、逆に日ごろの仕事に追われてアイヌである時間を持てないというアイヌの悩みも聞きます。そう、だからときにはこの新しい施設にアイヌの人たちが泊まってもいい。一晩中語り明かしてもいい。そういう場所にもしたいですね。

ユーモア愛するアイヌの人たち
─アイヌの人たちのことをもっと知ってほしいと考えているようですが。
晴道 アイヌの先輩に教わったことですが「次の人のことを考える」があります。笹刈りもそう。チセ(アイヌの伝統的住居)造りのために笹を刈るんですけど、今どのように刈れば次の人が笹刈りしやすいかというように。一つひとつの作業が次の人の次の作業のためなんです。アイヌはそう考えます。
久恵・晴道 アイヌの一番素敵なところはユーモアです。面白いところ。アイヌは、とってもユーモアを愛しています
晴道 そこがあまり知られていません。
久恵 アイヌの人たちはオリジナリティーにあふれ、ユーモアがあります。
晴道 すごく明るいんですよ。自分もそういうアイヌの良いところを失いたくない。
久恵 アイヌは力強いし、面白い人たちです。とても人間らしい。物質的には現代から見て決して豊かではなかったかもしれませんが、物には魂が宿っていると考え大切にしました。助け合いながら心豊かな暮らしをしていたんです。アイヌの人たちはこんな自然の見方をするのかと驚くことも多い。独特な自然との接し方や見方も伝えられたらと思っています。

父(兼一さん)のイナウはきれい
─兼一さんは、久恵さんと晴道さんが共に手を携えアイヌ文化を伝承することを喜んでいるかと思いますが。
久恵 (アイヌ文化を伝承するために)まず一人、晴道がいます。ですが一人じゃ駄目。仲間が必要なんです。今後の課題ですね。絶やさないということは、物や建物だけじゃない。生きた人間が支えていかなければ。そのために人が大事ですね。晴道には、これから嫌なこともあると思うけども、それ以上に喜べることがあればいいと思っています。兼一は、新しい記念館ができることを喜んでいました。生きているときおおよその話しをしてきましたから。ずっーと続くことを願ってましたから。
晴道 イナウ(アイヌの伝統祭具の一つ)を作るのがほんと難しい。柳の小枝の皮を剥ぎ、削りかけのように房状にするんですけど。まっすぐ均等に圧をかけて削るのが難しく大変です。父のイナウは、ほんとうにきれいなんですよ!
─アイヌ文化の伝承とアイヌの人たちが前を向く杖となるような新しい施設を期待しています。ありがとうございました。

この記事は月刊北海道経済2022年10月号に掲載されています
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