近文「瀬川商店」37年前の決断

年中無休、長時間営業のコンビニエンスストアは今の時代に欠かせぬ存在となっている。旭川市内ではセブンイレブン、ローソン、セイコーマートの大手3社だけで約200店が軒を並べる。そのコンビニ旋風の先陣を切ったのが近文地区を拠点にスタートを切ったセブンイレブン旭川近文店の㈲瀬川商店だ。コンビニ草創期から成熟期を駆け抜けてきた同商店のあゆみを振り返りながら、市民とコンビニの〝身近な関係〟を探ってみる。

業界席捲する大手3強
 旭川市内におけるコンビニ(CVS・コンビニエンスストア)は、西武、イトーヨーカドー、ダイエー、ニチイなどの大型店進出が沈静化した1983(昭和58)年4月、ダイエー系のサンチェーンが5条7丁目に24時間営業の直営店舗を開店した時から本格的な店舗展開が始まった。
 サンチェーンはその後1年半の間に相次ぎ直営6店舗を開店したが、それが一服した状態の中、すさまじい勢いで進出攻勢をかけたのがヨーカ堂系列のセブンイレブン。1年もたたぬ間に15店舗ほどが市内全域で立て続けにオープンした。
 さらにその後、道内資本のセイコーマートも加わり、地元で健闘していたボランタリーチェーン(VC)の道北サンマート、ボックス、丸ヨ岡田のOGCなどとの攻防戦が激化し、市内ではそのころ80店舗ほどのFC、VCチェーン店であふれかえった。
 しかし、平成の時代に入ってくるとサンチェーンが現在のローソンに移行し、地元VCも大手FCの勢いに対抗できず、消滅あるいは方向転換へと進み、次第にセブンイレブン、ローソン、セイコーマートの3強が旭川のコンビニ市場を席捲することになり、大型スーパーとコンビニの二極分化が加速度的に進んでいった。

セブンイレブンと初めてのFC契約
 旭川においてセブンイレブンのFC店として最初に本部と加盟店契約を結んだのが市内緑町15丁目にある「旭川近文店」(瀬川商店)。セブンイレブンの旭川1号店は記録としては1984(昭和59)年5月23日に開店した「新富店」で、2号店が同月26日の「東旭川店」、3番目が「近文店」の6月1日となっているが、事実上の1号店は「近文店」なのである。
 同店は開店時には現在の店舗と道路を挟んで向かい側にあったが、その後広い敷地を求めて新築移転した。また2号店として「北門19丁目店」を出店(現在は移転して「豊岡1条店」)、さらに「旭川東警察署前店」を開店して市内3店舗を経営するまでとなり、現在に至っている。
 旭川におけるセブンイレブンの歴史をたどるため、「近文店」の瀬川オーナーを訪ね、開店当時から今日に至るまでの出来事や思い出の数々を聞いてみた。

福岡で見て歩いたセブンイレブン
 瀬川明男さん(69)は戦後の混乱期から近文地区で瀬川商店を営む瀬川秀一さん、みつ子さん(ともに故人)の間に生まれた5人きょうだいの末っ子。
 近文小、北門中、旭川北高から東京経済大学へ進み、1974(昭和49)年に卒業してカーテンレールメーカーの大手、トーソー㈱の東京本社に入社し、社会人としての第一歩を踏み出した。その後まもなく会社から「西の経済も覚えてくれ」と言われ福岡支社に派遣されることになった。
 大学時代は経営学部でマーケティングを学んだが、その頃、イトーヨーカ堂が米国セブンイレブンと契約し、日本全国にコンビニを進出させる計画がスタートしていた。瀬川さんが日本経済新聞の一面に「セブンイレブン・オーナー募集」の広告を見たのは大学4年の時だった。
 そのセブンイレブンが福岡で一気に10店舗ほどをオープンさせる計画が進んでいたが、新店舗のマジックポールというブラインド(現在はロールスクリーン)は全国全店でトーソーの新製品が採用されることになっていた。瀬川さんはさっそく建築の現場を見て歩いたが、そのほとんどが酒屋、八百屋、魚屋、雑貨屋などの改造店で、立地場所も様々だった。
 福岡でコンビニエンスストアの形態や仕組みを知ることになった瀬川さんは、旭川の実家で父親が経営する雑貨店(瀬川商店、緑町15丁目)を思い起こした。そして「これからはミニスーパーや酒専門店は無理。だがコンビニならやれる!。あの緑町の立地ならコンビニとしてやっていけるのではないか」と確信することになった。

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この続きは月刊北海道経済2021年04月号でお読み下さい。