山が動いた 深川市長選挙

 一言で表現するなら〝山が動いた〟選挙だった。師走にあった任期満了に伴う深川市長選で、労組を支持基盤に初当選を果たした田中昌幸氏(61)=前市議会副議長=は、1892(明治25)年に屯田兵が入植し深川村が設置されて以来初のリベラル系首長となる。農村社会に培われたある意味保守的な風土性の変化の兆しを象徴する選挙戦でもあった。「変えよう!」のアプローチは、市井で子育て中のママや若者らを突き動かしたようだ。

当選祝いの花束を手にする田中氏(左から2人目)

屯田兵培う風土性 今も色濃く残る
「田中は、組合ときっぱり手を切らんと市長にはなれん」。もう16年ほど前になるだろうか、田中氏の市長選出馬の可能性の有無を問うと、深川市内で長く土建業を営んだ社長が当然のごとくそう言い放ち、顔の前であり得ないという感じで激しく手を振った。記者は、同様の趣旨を多くの市民からも聞いてきた。組合関係者が出ることはあり得ないとの見方で、彼らは一致していた。
 もちろん労組を支持基盤に深川市長選に立起することは法的になんら問題はない。では、何故市民にそうした意識が浸透するのか? 記者は、ずっとそんな疑問を抱いてきた。労働組合は、労働者が連帯する組織で、いわば民衆が自らの権利をベースに既存システムの変化をもとめる。いわばボトムアップ(下意上達)型の組織だ。
 一方で、深川は屯田兵の入植によって農村地帯として長い歳月を刻んできた。そこに独特な風土性がはぐくまれたといえないか? 深川以外にも屯田兵が入植したところはほかにもある。隣りの旭川市もそうだ。それにしても屯田兵が培ったと思われる風土性が依然として深川に色濃く残ると感じるのは何故だろう?
 屯田兵は端的に言えば軍人である。入植したグループは今の小隊・大隊といういわば軍隊でもあったろう。軍隊が重んじるのは規律であり、指揮命令系統が絶対のいわばトップダウン(上意下達)の組織だ。明治政府・開拓使庁の指揮下にあった屯田兵という行政形態は、労働者が連帯し変化を求める労働組織とは根底において対極にあるともいえる。
 旭川にも屯田兵が入植してはいるが、人口規模の大きさで入植して以来培った風土性は、かくはんされ薄まった。だが、人口規模の小さな深川では薄まりつつもそれが今も纏綿(てんめん)と色濃く残ると記者は感じてきた。突飛なことを嫌う、意味のないパフォーマンスはしない、質実剛健で着実に物事を進める─。誤解を承知で言えば基本的に改革を望まない。そんな屯田兵的な風土が培った市民性が前述の「田中は、組合ときっぱり手を切らんと市長にはなれん」の発言に集約されるのではないか。こうした固定観念が深川に広く深く浸透していたかと思う。

固定観念排除 勇躍し山動く
 共産党を除き、労組系の人材が深川市長選に出るのも初めてだった。この地の労組系の組織票はそれほど貧弱なのか? それどころか実に強固なことは過去の国政選挙が証明している。特に、自公(保守系)VS立憲民主(革新系)の実質一騎打ちの様相が濃い衆院北海道10区の深川市の得票数を見ると一目瞭然だ。ほぼ毎回自公系候補より労組の支援を受ける候補の得票が上回っている。
 あとは、深川市のトップに労組系はいかがなものかという深川に浸透する大きな山ともいえる固定観念を払拭し、田中氏自身がためらい臆する心を打破するだけだった。
 「有志のみなさまから市長選に出てほしいという強い要請をいただいた」。本誌の取材に田中氏は立起の経緯を語っている。想像するに自身の葛藤も相当であったろう。労組を支持基盤にした国政の過去の深川の得票数は保守系を上回る。だが、これが地元・深川のリーダーを決める選挙戦にあてはめることができるのか? だが、憂いはすべて田中氏にとって良いほうに転じていった。

国政の構図が 市長選に移行
 「田中さんが立候補した段階で絶対にいけると感じていた。私たちは『(今の深川を)変えてほしい』という声を若い女性からたくさん聞いてきた」。選挙戦を終えた翌日、田中氏の選対本部の役員を担った元深川市職員はそう語った。5選を目指した山下貴史氏(70)への多選に対するネガティブな民意をこの役員は市井からたくさん聞いてきた。憂いは、深川のトップを決める市長選に《労組系は……》的な有権者のベクトルが働くのではないか? ということだけだった。
 三つどもえとなった先の市長選は、3氏いずれも無所属で立起したが、山下氏が告示直前で自民党道連・公明党中空知総支部の推薦を得たことが田中氏への好材料となり、田中陣営の憂いはかえって薄まった。稲津久衆議(道10区)、前道知事・高橋はるみ参議がテコ入れに入る、呼応するかのように田中陣営には徳永エリ参議、神谷裕衆議(比例北海道ブロック)が応援に駆け付けた。いつの間にか国政の与野党一騎打ちの構図が深川市長選にそのまま移行した形となった。
 さらに、労組を支持基盤にした田中陣営には、山下陣営に比べ潜在する市井の声が集まりやすい。
ことに田中氏の後援会組織の幹部が市内に大きな保育施設を複数運営しており、田中氏が子育て支援のソフト事業を数多く公約に掲げることで、〝ママ友〟的な支援の輪を広げていった。
 「票が読み切れない感じが最後まであったが、事務所に(後援会の)加入書を持って来てくれたりして選対として感触はすごく良かった」。後援会の吉川保会長はそう振り返る。
 田中陣営にとってのもう一つの大きな要素は、前市議会議員・佐々木一夫氏(72)が、告示後の舌戦で徹底した山下批判を展開したことだ。三つどもえながら実質的に山下・田中両氏の一騎打ちの構図ともいえ、結果的に佐々木氏の山下批判は田中氏への援護射撃ともなった事実は否めない。
 一方、及ばなかった山下氏は多選に伴うネガティブな民意を軽んじていたのではないか? バランス感覚に優れ安定した市政運営は行政事務をつかさどるプロからは高く評価されるが、市井受けはしない。そのへんの〝民意の機微〟を読み損なったともいえそうだ。つまらないパフォーマンスをよしとしないお人柄は、ときに剛直で子どものようでもあった。夕張市の財政破綻とともに自治体の台所へ厳しい視線が注がれる中、〝深川丸〟のカジ取りを担い、16年間に及んだ山下氏の業績は、実務に徹するリアリストとして深川市民に長く記憶されるだろう。

深川市長に当選した田中氏

初のリベラル系 試される4年間
 田中氏は、生粋の深川人だ。道立深川西高を経て、室蘭工業大学工学部建築学科を卒業後に深川市職員に採用された。主に建築畑を歩んできた。2003年市職員を退職し、深川市職員労働組合を支持基盤に深川市議に初当選。5期目の任期半ばの12月に辞職し深川市長選に立起した。これまでの5回の市議選で4回トップ当選を果たした。深川市バレーボール協会会長・深川市男女平等参画推進協議会理事、北海道建築士会北空知支部長などの公職を持つ。滑舌の良い語りとさわやかな印象が好感を持たれ、早くから将来の市長候補と嘱望されてきた。
 田中氏は「深川、新時代へ! みんなで拓こう。みんなで進もう」をスローガンに掲げ、深川を変えたいという潜在したニーズを丁寧にすくい、追走する山下・佐々木両氏を振り切り初当選を果たした。田中氏は「市民有志からの要請を受け出馬の決意をしておよそ2ヵ月という極めて短い期間でしたが、吉川会長をはじめ後援会の皆さんの熱心な取り組みなどにより、市民の皆さんから多くのご支援をたまわり、16年ぶりの市長選挙に勝利させていただき感無量です」。選挙戦を通じ、「多くの市民の皆さんから深川市を元気にしてほしい、もっと自慢できるまちにしてほしいという声を寄せていただき『変えなきゃいけない』という思いを強く感じた」とも話し、変革を望む市民の熱い思いが自身を支えたと語る。
 これまでの本誌の取材に田中氏は「芸術・文化・スポーツなどさまざまな分野を通じて市民が生きいきと活動できるようにしたい」と話し、関係人口を増やして深川の知名度を高めたい考えを示す。
 今市長選では、▽産後給食サービスの実施▽子ども基本条例の制定▽義務教育における給食費の段階的無償化▽小中学生の修学旅行費の支援▽18歳までの医療費無償化(現行15歳まで)─などを公約に掲げた。
 どのような深川にしていきたいかを問うと田中氏は「人を大切にする市政を行いたい。トップ自らも情報発信することで市内外から『行きたい』『住みたい』と思ってもらえる深川にしていきたい」と話し、新しい深川像をデッサンしたい考えを示した。
 一方、歴代の首長が大切に紡いできた深川経済の屋台骨を担う農業についても「屯田兵の方々が血と汗で築いた先に今の深川の素晴らしい農産品がある」とも話し、深川最大の財産である先人が築いた農地を守り育てる施策を展開する意向も示す。
 田中氏からは、市井に潜在するニーズを丁寧に掘り起こし、アイデアを凝らした小さなソフト事業を細やかに展開するリベラル系首長らしいスタンスがうかがえる。
 一方、深川でこれまで纏綿と続く投資事業を展開して域内の経済還流を促す長年の自民政権、そして現在の自公政権が十八番とする行政手法もないがしろにはできない。田中氏は、どうバランスを取るのか? これからの4年間が試金石となる。
 〝田中・深川丸〟が船出する。

この記事は月刊北海道経済2023年2月号に掲載されています
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