半世紀前の「道北経済」誌面作り

 1966(昭和41)年に『道北経済』として創刊した本誌は、650号を迎えた。創刊時の関係者はほとんど鬼籍に入ったが、「創成期」の誌面づくりの様子を今も記憶するのが、長年本誌の編集長を務め、昨年の10月号を最後に引退した村上史生氏だ。半世紀以上の記者人生の中で数え切れないほどの政治家、経営者、市井の人々を取材してきた村上氏に本誌が初めて取材。1970年代の誌面づくりの様子を振り返ってもらった。

最初の仕事は所得番付
 本誌を創刊したのは初代の編集人であり、経営のトップでもあった伊勢常雄氏。戦前から新聞記者として働き、新北海や北海道新聞に勤務していた。昭和40年代に入ってから、道央圏に負けじと道北に根ざした政治経済誌の発行を志すことになる。当時はキャリアを積んだ新聞記者が雑誌に関わるという流れもあった。
 村上史生氏の父も戦前戦後の新聞記者で伊勢氏とは旧知の仲だったことが縁となり、1971年5月1日、村上氏は記者として入社した、事務所は旭川市9条通9丁目安田ビル(現在はグラフ旭川が編集室を置いている)にあった。
 「最初に担当したのは所得番付の取材。当時、税務署からは毎年、所得番付が公示され、そのたびに記者が税務署に行って資料を閲覧し、書き写していた。公示される職業欄には『会社役員』などと書いてあるだけで、法人名を調べるのは記者の仕事だった」。
 本誌の書庫でこの記事「45年度法人所得番付一覧表」「高額所得番付一覧表」(1971年6月号)を確認した。現在も続く企業、医療機関の2~3代前の経営者が上位に名を連ねる一方で、郊外地区の農家や無職の人物が上位に食い込んでいるのが目立つ。急速な地価高騰が旭川にも及び、「土地成金」が数多く誕生した時代でもあった。ちなみに、この号には「ボウリング場建設・いまたけなわ」「東京旭川を直結した〝長崎屋〟」といった特集記事も掲載されている。
 「入社してすぐ伊勢社長と一緒に、衆院旧道2区から出馬することになった村上茂利(元労働事務次官)に、大きなテープレコーダーを抱えて取材に行き、テープ起こしに苦戦したことをよく覚えている」。

カルチャーショック 奮起のきっかけに
 村上氏は、東京の大学を中退した後、毎日新聞東京本社で約2年、編集アルバイトを経験していた。旭川に戻り道北経済に入って感じたのは「カルチャーショック」。同じ編集職とはいえ、東京の大手新聞と、創刊から5年でまだ経営の安定していなかった地方の雑誌では、何もかも違った。たとえば前の職場にはすでにゼロックス(コピー機)が導入されて編集業務で活用されていたが、道北経済には「青焼き」しかなかった。当時はスタッフも万全な陣容とは言い難かった。しかし、そうした状況に「自分がやるしかない」とやる気が出た。これまで本誌に籍を置いた社員は数知れないが、半世紀以上にわたり「道北経済」「北海道経済」の編集に携わったのは村上氏だけだ。

原稿用紙に書いては丸め
 当時の記者の仕事は何から何まで手作業だった。紙の原稿用紙にペンで執筆するが、自分で記事が気に入らず、原稿をクシャクシャにしてごみ箱に放り投げる動作を何度も繰り返した。「100枚つづりの原稿用紙の束のうち、半分は無駄にしていたのではないか」
 印刷業務での誤植を防ぐため、下手でもいいから誤読されない字で書く努力が記者に求められた。当時はメールもFAXもないから、月に一度、記者たちが書き溜めた原稿の束を写植の現場へ持って行った。その後、2度の校正を経て出版。一つひとつの作業に時間がかかったため、原稿締め切りは現在よりもかなり早かった。村上氏は「当時の記者仕事は大変で、労働時間も長かった。いまの人の倍は働いていたのではないか」と振り返る。
 当時の誌面で今では見られない手作り感を加えていたのが、一部の読み物の手書きタイトル(描き文字)。市内のデザイナーに「びっくりするように」「穏やかに」などと指定しながら発注していた。ゴシック、明朝、POPなどあらゆる字体のデータがそろっているこの時代、誌面に手書きの文字が登場することはまずない。
 誌面作りには写真も欠かせないが、デジカメが導入される前は、何が映っているのか現像してみるまでわからず、ピントも手動。思わぬ失敗もあった。「座談会で一人ひとりの撮影をしたつもりがうまく映っておらず、全員にお願いして回り再撮影させてもらったこともあった」
 その後、ワープロの専用機が登場、やがてパソコン、インターネットも編集室に導入された。原稿提出はすべてメールで行われるようになり、写真はすべてデジカメに。暗い場所での撮影や大きく引き伸ばして掲載するなど特殊な状況でなければ、一般的なスマホでも十分な画質が得られる時代となった。

創刊号も650号も「感謝」の2文字
 執筆から印刷、販売に至るあらゆる段階にITを活用した今月号は「第650号」。1966年11月1日付で発行された創刊号から56年余りの歳月を要しており、計算が合わない。これは創刊から数年は経営状態が安定せず、月によって「出したり出せなかったり」の状態が続いたため。村上氏の入社から5ヵ月後にも71年9・10月合併号が出ているが、それからは途切れることなく毎月発刊を続けている。
 本誌は1974年に誌名を「月刊北海道経済」に変更、77年には経営体制を一新し、読者・広告主の支持のおかげ昭和、平成、令和と時代を超えて道北地域の幅広い情報を発信している。しかし、創刊当時の先人の苦労がなければここまで歴史が続くこともなかった。
 創刊号の編集後記には伊勢氏の「経済誌発刊を企図し、旭川経済界の方々の応援で漸やく発刊の運びになった。感謝」との言葉が残る。第650号に関わった本誌のスタッフの心にあるのも、これまで支えてくれたすべての皆様に対する「感謝」の2文字だ。

この記事は月刊北海道経済2023年2月号に掲載されています
この記事をシェアする
  • URLをコピーしました!