米音楽界最高の栄誉とされる「グラミー賞」を27回受賞しているジャズピアノの巨匠チック・コリアを追悼するコンサート(MUSICアクトin旭川実行委員会主催)=佐々木義生代表=が11月8日、旭川市大雪クリスタルホール音楽堂で開かれる。旭川のまちを故郷のように愛し、クリスタルホールを「自身のリビングルーム」と評したチック・コリアを偲びつつ、一流プレイヤーがチックの名曲を新解釈アレンジで奏でる。
5回来旭しコンサート 旭川市民らとふれあう
まず、チック・コリアとクリスタルホール音楽堂との縁について紙幅を割く。
1941年米マサチューセッツ州チェルシーに生まれたチック・コリアは、4歳のころからピアノを学び始めたとされる。名門・ジュリアード音楽院を卒業した後、1968年ごろから、マイルス・ディヴィスのグループに加入するなど数々の伝説的なジャズシーンを彩ってきた。2021年に旅立った。
94年にヴィブラフォン奏者のゲイリー・バートンと、95年・05年・06年にソロで、2013年にはベーシストのスタンリー・クラークと計5回来旭して、クリスタルホール音楽堂でコンサートをし、旭川市民らと温かな交流をはぐくんだ。
「あの、チック・コリアが、なんで旭川に?」─。そんな疑問がわくジャズファンは多いのではないか。ジャズ界の巨匠が極東の島国のローカル都市になぜ来たのか?
それは、市民運動が実り93年に旭川市大雪クリスタルホールがオープンしたことに機縁する。
〝ハコはできたが、ハコを生かすも殺す〟も充実したソフト事業・演奏会を展開できなければ、なんにもならない。
オープンして間もない94年、市民運動の中核を担い後にクリスタルホール音楽堂を拠点に「ジャズマンス・イン・旭川」(1995─2015年)を展開する音楽プロデューサーで、ベース・作編曲家の佐々木代表は頭を悩ませていた。
友人と酒を酌み交わし、思いをめぐらしていたときだった。チック・コリアの演奏会がふっ、と脳裏に浮かんだ。それが端緒だった。
頭の片隅には、チック・コリアとヴィブラフォン奏者のゲイリー・バートンがデュオしたジャズの歴史的名盤として知られるアルバム・「クリスタル・サイレンス」(1972年)があった。ホール名とアルバム名が重なる。半ば冗談だった。
あのチックが来るわけはない─。
自らを取り戻す巨匠・チック
「チックが行くってさ」。チック・コリアのマネジャーから電話が入った。ダメ元で企画を持ち込んでいた。「信じられなかった」。佐々木代表は、そう振り返る。
当時、人気絶頂だったチック・コリアは、演奏会で世界中を飛び回っていた。あまりの忙しさにいま自らがどこの地・場所で演奏会をやっているのかさえしっかり自覚できないまま鍵盤に向かう日々が続いていた、とされる。
「ホールに入ったときにすごく懐かしい感じに包まれた。自分の弾いた音に包まれる感のあるこのホールは日本の宝だ」。94年11月20日のコンサート前日─。リハーサルでチックは佐々木代表ら関係者にクリスタルホールを激賞した。
「ウエルカム・トゥ・マイ・リビング・ルーム」─。チック・コリアは、聴衆にそう発した。「チック自身が自らの部屋で弾いているかのようにリラックスして見えました」。当日のコンサートを佐々木代表は、そう振り返る。
10数年来クレイジーなほどせわしないコンサートの日々が続き自らを失いかけていたチックが自らを取り戻す場所がクリスタルホール音楽堂だったのかもしれない。
チックは以降、4度来旭し、クリスタルホール音楽堂でソロ3回、デュオ1回コンサートを開く。
「自由な気持で演奏したい」─。クリスタルホール音楽堂でのコンサートは、チックの希望で、プログラムをあらかじめ決めず、その場の聴衆の雰囲気をベースに自らが弾きたい曲を奏でた。ときに、聴衆をステージ上の椅子に座らせ、一人ひとりから放たれる印象をモチーフに即興演奏をした。
チック・コリアは、旭川と大雪クリスタルホール音楽堂が大好きだった。そのチックが大好きだったクリスタルホール音楽堂の素晴らしさを改めて多くの市民らに再確認してもらう機会になれば、と企画したのが、「チック・コリアに捧ぐ 追悼コンサート」だ。
クリスタルホールを愛したチックへ捧ぐ
追悼コンサートは、チックを敬愛してやまない6人がクリスタルホール音楽堂に集結する。
椎名豊(ピアノ)・近藤和彦(サックス)・マレー飛鳥(バイオリン)・パット・グリン(ベース)・山木秀夫(ドラム)・ヤヒロ・トモヒロ─で、旭川だけの特別プログラムでチック・コリアの名曲の数々を新解釈で奏でる。
「旭川とクリスタルホール音楽堂を愛してくれたチックへの恩返しのために企画しました。ジャズピアノの巨匠が絶賛した音楽堂のコンサートホールとしての素晴らしさを再確認する追悼コンサートでもあります。ぜひご来場ください」(佐々木代表)