副市長辞任の表氏「公約実現の道筋付けた」

 道新が「表、赤岡副市長退任へ」と伝えたのは1月30日の朝刊紙面でのこと。13年間にわたり副市長を務めた表憲章氏からは2月1日付けの退職届が提出され、そのまま市役所に姿を見せなくなった。予算案の編成は終わったが、市議会での審議はこれからというタイミングの辞任に衝撃が走った。花束贈呈も引き継ぎもない異例の状況だが、本人は本誌の電話取材に対し、辞任に至る経緯を粛々と説明する。

今津市長も「わかりました」
 2月1日以降、記者は詳しい経緯を聞くために表氏にくり返し連絡したが、反応はなし。表氏に近い人物には「しばらく誰の電話にも出ないのではないか」と言われたが、2月3日、記者の携帯電話が鳴った。以下は電話によるインタビューの内容だ。
 ─大変な騒ぎになっている。今津寛介市長と表氏の間で何があったのか。
 表 なにもない。昨年9月の市長選で当選した今津市長が初登庁した際、私は「辞めさせてください」と言って正式に辞表を出した。今津市長は「これは受け取れません。引き取ってください。これからも支えてください」と言ったので、私は「辞任の時期は、市長の指示に従います」と伝えた。
しかし、現在に至るまで私の辞任時期についていろいろ言われてきた。「あいつを早くやめさせろ」とある人物が言っているという話も耳に入っていた。とはいえ、12月から予算編成がある。今津市長にとり予算編成は初めて。公約を予算に溶け込ませて、市長の実現公約に協力しなければならないという思いがあった。市長には「こういう方針で予算を組み立てますから」と伝え、1月のうちに市長も交えて全公約を点検し、実施、調査費用をつけるなど、すべてやった。
 その作業が終わった1月末、今津市長から「3月末で辞めていただきたい」と言われた。私は「わかりました。やめます」と言った。私と赤岡副市長が次の定例会に臨めば、予算は私達が通したことになり、4月1日に新しい人事でスタートするのに、予算を通した私達がそこにいないのはまずいと思った。そこで「2月中に副市長を交代させて、2月21日からの議会に新しい副市長2人とともに臨まれてはどうですか」と市長に提案した。
 市長は「わかりました。そういう方向で検討してみます」と言った。その時点では副市長が2人同時に辞めるはずだったのだが、それから赤岡さんとシミュレーションしたところ、副市長2人が同時に交代し、後任に部長を2人昇格させるとすると、空いたポストに別の人を当て、さらにそのポストに…と、最低でも10人くらいを動かす必要が出ることがわかった。2月中にそんなことをするのは無理なので、まずは私が辞めて、今津市長が自ら選んだ副市長で定例会に臨んだというスタイルを見せ、3月には赤岡さんも交代、というかたちにしてはどうかと市長に提案した。市長は『それでいきましょう』と言い、2月1日に辞表を出した。市長からは「長い間、本当にありがとうございました」と言われた。

本誌報道への批判も
 ─「不信感」「不満」を抱いているとの新聞報道もあった。
 そんなことはない。私が辞めても、2月21日からの市議会第1回定例会の冒頭で副市長などの人事案を出せば通るはず。ただ、北海道経済が繰り返した(表氏の辞任説をめぐる)報道や、私をやめさせようとする周囲の動きにはうんざりしていた。市長から言われたのは「3月末まで」だったが、そういう声もある以上、そこまでいてはダメだと思った。それが私の判断だ。
 ─年度末まで残り、議会で予算案を通すのに協力してほしいという考えも市長にはあったはず。
 いま、予算について大きな争点はなく、予算を通す通さないといった対立も、不正疑惑もない。市議会で民主(・市民連合)が今津市長の公約実現性を問いただすかもしれないが、新しい事業を組み立てたり、調査費用をつけるなどして、公約についてはすべて着手している。赤岡さんが残るわけだし、次の副市長も出てくる。市職員は優秀なので、「大黒柱が抜けて屋根が落ちる」といった状況にはならない。
 ─自身の心の中には、辞任時期はあったのか。
 常識的には年末や年度末に辞めるものだが、年末に辞める状況にはなく、3月末には辞めるつもりで、親しい数人にはそう伝えていたが、3月末にやめるとしても、その通告は3月1日でいいはず。早めの通知には「念を押されているのか」と感じた。ただ、私は市長に対してなんの恨みもない。自ら選んだ副市長と一緒に市議会に臨むのも、リーダーシップの一つの「見せ方」だと思っている。

「28日は平行線」(市長)
 本誌は表氏辞任の経緯について今津寛介市長にも取材した。市長からは以下のような説明があった。
 「私から表さんに辞任について話をしたのは1月28日の夕方。『やめていただきたい』といった表現は使っていない。『人事の件でお話があります。若輩者が恐縮ですが予算の審議を終える3月いっぱいまでという事でご理解頂き、それまでお力添えをお願いしたい。新しい旭川を創るために、このまま表さんのお力に甘え続けるわけにはいかない』とお話をさせていただいた」
 なお、副市長の交代について、今津市長は「誰かに指示されたりアドバイスされたりしたわけでなく、旭川市政の将来を考えて自分で判断したもの」と強調する。
 予算を審議する市議会に新しい副市長2人とともに臨むべきとの提案が表氏からあったことを、今津市長は認めるが、その場で受け入れてはいないという。「そのような考え方は手法としてあるのは理解できなくはないが、大幅な人事になり、コロナ禍で現実的には難しいと思ったので、私はあくまでも3月まで何とかお力をお借りしたいという考えを伝えた。28日の話は平行線のまま終わったと認識している」
 まず表氏が辞めることにしたと伝えたところ、今津市長から「長い間ありがとうございました」との言葉があったとの表氏の説明も、今津市長の認識とは異なっている。「そのようなことは言っていない。31日にお話がしたいと言ったが、翌1日の朝に時間を取ると秘書課を通じて返答があり、会えなかった」。
 ただし、今津市長が表氏に感謝の気持ちを持っているのは確かだ。「4ヵ月という僅かな期間とはいえ、ご指導いただいたことに心から感謝している。また、私自身の未熟さゆえにこのような退職の形になり大変申し訳なく思っている。表副市長の仕事ぶりを間近で拝見することができたのは私の大きな財産。直接申し上げたことだが、想いを受け継ぎ次代の旭川のためにしっかり取り組んでいきたい」
 市長の言う通り「28日の話が平行線」だったとすれば、週末をはさんで31日朝には両者の間で辞任の時期についてもう一度話し合う余地が残っていたのかもしれない。だとしても30日の道新が「表、赤岡副市長退任へ」と報道した時点で、急ぎ足の辞任は事実上確定してしまった。
 なお、後任の人選に関する質問に、今津市長は「コロナ対応の真っただ中であり、予算審議もある。議会の先生方のご理解を頂き後任の選任を進めたい」とだけ回答。具体的な人選については触れなかった。
 本誌は赤岡副市長にも取材したが、市長と表氏の28日夕方の会話の内容は、その場にいたわけではないのでわからないとのことだった。

古本屋の夢 望み薄
 1月初旬、記者は自民党系市議に、副市長交代のタイミングについての見方を尋ねた。「それは表氏本人しかわからない。実績のある人だから、この日に辞めてくださいと周囲が言うべきではない。ただ、これは私見だが、本人から3月末には辞めるというのではないか」
 表氏本人も実際、そのつもりだった。今津市長からの提案も同じ3月末。両者の考えは一致していたはずだが、打診が早かったために、辞任も早まった。いずれにせよ、今津市長は後任の副市長とともに、予算案の成立に全力を挙げるしかないが、市議会の野党会派は納得しておらず、まずは表氏の辞任に至る経緯について明確に説明するよう求めている。
 表氏への電話によるインタビューの最後に、記者はもう一つ質問した。「今から10年以上前のことだが、表さんは私に『引退したら古本屋を開いて、中国の古典を読む生活をしたい』と語ったことがある。その夢は変わっていないのか」。表氏は答えた。「本だけは売れるくらいの量があるが、体力の問題もあり、無理ではないか」。
 おそらく古本屋の夢はかなわない。電話の声を聴く限り表氏は気力十分。次の表舞台をすぐに得るだろう。

表紙2203
この記事は月刊北海道経済2022年03月号に掲載されています。
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